オレンジのはんぶん-1
形にしたいけれど、それができない。
その感情に似合う言葉は、ひとつだけ。
「すきだ、すきだ、すきだ、すきだ!」
そんな小さな子どもたちが屈託なく笑って発するような、無邪気なその言葉は、多分一生私の口からは生まれてこない。意地っ張りの口下手の口は、「春みたいなんだよ」と形容する。馬鹿みたい、いやだたのばかなんだよ、私は。
「君ってさ、私の名前って知ってるの?」
それは私からすれば、純粋な疑問符だった。
あ、とワンテンポ遅れて、この言葉が凄く棘があることに気がついた。
けれども、悲しいかな。発してしまった言葉は戻らない、と観念して正面にある顔を見つめてみる。とりあえず、彼の反応をみてみたかったから。
いつも黒板の方、西側をみているのに彼の机ごと私の方を向いている。
高校生、最後のHR。
席は自由で人がまばらな教室のなかなんとなく私らは「なんとなくその方がいいね」といって向き合っている。いつもは大きな白いマスクの横顔をみているだけなのに、今のこの時間だけ正面から彼と目があう。
表情がわかる、はずだけれどマスクに覆われている面の方が多いから無理かもしれない。
そんな彼は瞬きを何度か繰り返すだけで、言葉を発さない。自己主張が弱くて、自分の価値とか存在意義とかを低く見積もってしまう彼は、いつも目で語りかけてくる。
なんだかんだで六年前からの付き合いなので、そんな彼の態度には慣れっこだ。
けれども、私は苦笑いを浮かべて言葉をよく吟味して問う。さっきみたいな失敗はごめんだ。
「いや、よくよく考えると私らって中学の頃からの……知り合いじゃない」
真っ先に出そうになった言葉を飲み込む。これはできるなら使いたくはないなって思った、自意識過剰なのだ。……私も、彼も。
「でなんか今思ったけど、名前を君に呼ばれたことがないなって」
「そうだっけ?」
「………そうなの。覚えてたら、わざとじゃないかなって思うよ」
「確かにね」
そう、声をあげずに顔全体をくしゃくしゃにして彼は笑った。ああずるい、その笑った顔は。ほんとにずるい。たとえマスクに覆われていたって、横にいたって、背を向けていたって、どんなに遠く離れてしまったって、頭ん中に鮮明に思い起こせる。
まるで小説からの引用みたいだし、本当に普遍的で嫌だけど、私は彼の笑った顔が世界で一番好きなのかもしれない。
「中学の頃にさ、君は覚えてないだろーけど『クラスの女子の名前と顔は三分の一ぐらいしか一致してない』っていったんだよ」
「よく覚えてるね」
「記憶力だけは確かなの」
「暗記得意なんだっけ。社会系強かったよね、それこそ中学の頃から」
私の捻くれた口からは素直じゃない言葉が反射的に出て、彼の口から飛び出した何気ない言葉に心臓が早くなった。
めまぐるしく変わる自分は忙しない。そしてまた。こういう時に身体は正直かつ単純で、口は不器用で意地っ張り。……自分で自分に腹を立てても意味なんてないのに。
「で、どうなの?」
照れ隠し半分。好奇心と恐怖がもう半分と。
「どうって聞かれても……間違えてたら嫌だし」
「間違えてても私は気にはしないよ」
「ええ……でもさぁ」
そのひと単語だけいって彼は困ったように天井を仰いだ。
私の視線もつられて、電気のついていない薄暗い天井を見上げる。
「気にする、気にしないじゃなくてさ」
彼がゆっくり、私と目を合わせてからきまずそうに机に視線が落とした。
沈黙。
私よりも何倍も大きな手がうじうじと動いて、彼の口も気まずそうに開かれる。
「間違えてたら、あまりにも失礼じゃん」
あぁ、やっぱり私は君が好きだ。
「意外と、肝が小さいよね」
自分の口から出た言葉に頭を抱えたくなる。あー、そうじゃないよ私の馬鹿野郎。
反射的に出る声は抑揚もなく、ただ冷淡さを伴うのみ。
「……間違ってても責めないでね?」
「善処する」
彼が、ひとつ苦笑いをして珍しくそのまま言葉を投げかけてきた、六年間の付き合いで初めて。今まではもう『触らぬ神に祟りなし』って感じで、線を引いてしまう彼が、だ。
「えと……サクライ、さんでしょ?」
周りの音が遠く、彼のその声だけが鮮明に、克明に耳に響く。思わず、その声の残響を心ゆくまで味わってしまうほど。
それは大きな落雷でしかない。だから言葉が出ないのも、当たり前だって主張したい。
「____ごめん。びっくり、して」
手で顔を覆う。そうすれば、彼に私の表情は見られないはずだから。頰を主体として、耳もきっと赤く染まっている。
あー!心臓うるっさい、黙ってても自分の仕事を全うできるでしょ、なんでいま、私に構うの!?ウザいったらありゃしない。
自分のことでいっぱいいっぱいになって、正面を……彼のいる位置を見ることが出来ない。というよりも、それを言い訳に見ずに逃げてしまいたい。
「あってる?」
「あってますけど。君はちゃんと覚えてくれてたんだね……。なんか、その、ありがと?」
結構、嬉しい。囁く声は私の本音が溢れた音なのだろうと思う。存外、彼は耳が遠いので聞こえている保証はどこにもないけど。
聞こえていなくても、余計なひと単語を追加してしまったとしても、本音を言ったという事実だけは、変わらないまま。
「あのさ、こっちは苗字で呼んだのサクライさんは代名詞のままなの?」
「え?君……オオノ、くんも気にすんだ」
「いやさっきまで、名前のことを話してたじゃん。……ツッコミって柄じゃなくて疲れるから、交代してよ」
彼____オオノは泣き言を言って私に呆れた表情を見せた。マスクで覆われているのに、なぜだかよく伝わった。いわゆる、これが以心伝心とかいうやつだろうか。いや、違う気がするな。
そんな、どうでもいいことを思いつつ、私は笑ってオオノに言葉を投げてみる。
キャッチボールをしたかった。一人じゃあ、絶対にできないことだったから。
正面のオオノの目を見つめる。オオノはいつものようにふいと目をそらさず、私に微笑み返してくれた。思わず不意を打たれて数秒間フリーズして、なにもなかったかのようにふざけた口調でボールをオオノの手の平目指して投げた。
「くん、さん付け省略ね?めんどいし」
「異論なし、サクライ」
「よろしい」
ふたり顔を見合わせて、あははと笑い合ったその音は、いつの日に落ちた春雷によく似ていた。
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