第6話

【第二章 亡霊の兄弟】


 風華は鵜飼が運転する軽自動車の後部座席にいた。前の座席の二人が情報を交換している。

「担任教師は宇都宮というみたいですね。写真立てに生徒と映った写真がありました。年齢は二十代後半くらい。いかにも運動が得意ですって感じの爽やかな印象な男性でした」

「あの教頭先生が何か見つけてくれると期待してもいいのかな」

「何かって、死体とかですか?」

「だったら犯人は風華さんと宇都宮先生を殺した連続殺人鬼かもね」

 他人事、もっとも仕事ごとである彼らの言葉は軽く、既に死んでいる風華も、行方知れずの宇都宮を哀れとは思うがそれ以上の感慨はなかった。なにせその宇都宮と言う人のことをまったく覚えていないのだから、それも致し方ないことだろう。海外で未曾有の災害があり、一人が死んだ。それくらいの感覚の隔たりが、この車内と車外には厳然とあるのだから。

 鵜飼はまた宮前家から死角となる車通りの少ない路肩に駐車する。白瀬がビジネスマンが使うような固そうな黒い鞄からパソコンを取り出した。

「私は仕掛けた盗聴器から家の中の情報を得ます」

「俺は外を散歩する。風華さんもついて来て」

 そういい白瀬は外に出る。風華も外に出ると、白瀬はいつの間にかジャージ姿の青年になっており、犬用のリードを手にしていた。

「散歩をするふりをして家のあたりをうろつくね。風華さん、もしかしたらドアとか壁とかもう透けられるかもだからさ。俺の近くなら、多少の自由行動はできるし、家の中、入ってみたら?」

「いいんですか」

「ただし、見て周るのは十五分ね。俺の〈魔法〉が解けちゃうから。それまでに家の外の道路に集合で」

「わかりました」

 白瀬と距離をとり、風華は宮前家の前に立つ。築三十年くらいのどこにでもある一戸建て。住宅道路の通行人はまばらで、もしも誰かいたとしても、誰も風華のことなど気にも留めない。振り向けば、電信柱のあたりにスマホのカメラ機能で犬を撮っている白瀬がいる。十五分間、ああしているつもりなのかもしれない。

 ドアをどうやって通り抜けられるのか。具体的に策があるわけではない。先輩や上司はいないのだから、自分でやってみるしかないだろう。けれど、何も考えていなくても、物を掴めないのだから、物を通り抜けるのも何も考えずともできる気がした。

 一歩、厚い黒の扉に向けて踏み出す。目をつむり、ぱっと開けると、風華は三和土の上にいた。こちらが拍子抜けするくらいあっさりとした成功に、風華はしばし驚いていた。それから帰れるか不安になり、そっとドアに向けて腕を伸ばす。伸ばした腕はドアを貫通していた。手のひらを広げると、風を感じる。外にいるのだ。

――私、本当に亡霊なんだ……。

 風華は、今まで、極力、物に触れないようにしていた。自分が異質な存在だと気づかされるのが怖かったのだ。ドアを貫通するのもそうだ。自分が死んでいることを認めるのが、どこか怖かった。

 けれど、もう逃げられない。どのみち、一度死んだ人間は蘇らない。白瀬たちの言う〈静かなところ〉に行くか、世を憎み亡霊となるか。風華は選択しなければならない。そしてそのためには、誰が自分を殺したのか、どうして自分が殺されたのかを知る必要があるだろう。

 自宅内部に侵入した風華は、まずはリビングルームへと向かった。かすかに母親らしき女性の声がするのだ。見ると、母親はソファに座り、スマホで電話をかけている。視界に入り込む度胸はなくて、彼女の背後に立つ。

「困ってるのよ。あの子がいないんじゃ、稼げない」

 棘のある鋭い声で、母親は風華の不在をなじった。

「家出よ。そうに決まってるじゃない。まったく。誰が育ててやったと思ってるのかしら。どうせ仕事先で男でも作って、逃げるのを手伝わせたんでしょう。あいつは私たちのことも、弟のことも、どうだっていいのよ」

 あの子と言ったり、あいつと呼んだり。この母親の態度は風華に対して愛情どころか憎しみすら抱いているように聞こえた。

 『私たちと、弟』、弟とはたぶん、引きこもっている蓮のことだろう。兄ではなく弟らしい。見た目からして年は二歳か一歳くらいしか離れていなさそうだ。

 本気なのか、電話相手への建前なのか、母親は家出説を支持しているらしい。この証拠だけで母親を容疑者リストから外すのは、いくらなんでも人を信じすぎているとは思うが、この女性の態度は嘘をついているようには見えなかった。もしも嘘なら、とても嘘の上手い役者のような人だと思う。

「あなたはどうせホテルにいるんでしょ。いい御身分なこと」

 相手が何か言っているのか、母が黙る。話し相手が誰かのか、風華はわからなかったが、次の母の言葉でようやく気付いた。

「離婚してやってないだけありがたいと思えって!? 笑わせないでよ。あなたの目当ては私の実家の資産でしょ。あなたの方こそ、そう言われるべきよ!」

 怒っているとも、悲しんでいるともとれる、高い笑い声が母の口から泡のように溢れ、電話相手、――おそらく父親を罵倒する。その罵声の泡はそれを叩きつける父親を苦しめているようで、その実、泡を吐いている母こそ、溺れているように見えて仕方がなかった。

 ろくでもない家だ。そんな他人事じみた感想を風華は抱く。そして同時に暗澹たる気持ちにもなった。自分は家族に利用され、不埒な動画を撮られ、学校で拡散された。自殺していてもおかしくないほどの不幸な環境だ。それにもかかわらず、風華は殺害されている。とことん運がないと言わざるをえない。

 家の中の時計を見ると、もう十分が経過していた。約束の時間まであと五分だ。弟の蓮の様子も見たいが、たぶん蓮は自室にこもってゲームをしているだけだろうから、あまりやることはないかもしれない。

 そう思い、リビングを出て玄関と階段とをつなぐ廊下に出る。そこには小ざっぱりした服に着替えている蓮がいた。蓮は母親に気付かれないように、そっと階段を下りて来たらしい。お茶でも飲みに来たのかと思ったが、彼はそのまま玄関へと向かう。

 音を立てないよう細心の注意を払い、錠を開けて蓮は外に出た。もう夕暮れだ。コンビニに行くつもりだろうか。

 風華は身をひるがえし、蓮を追いかけて外に出る。電柱では柴犬相手に赤ちゃん言葉で構っている白瀬がいる。

「白瀬さん、蓮くんが……」

 風華が話しかけると、白瀬はようやく振り向き、家から出て行く蓮を認める。

「おっと。コンビニかな?」

 白瀬はスマホを取り出し、連絡を取る。

「もしもし鵜飼くん? ターゲットの一人が移動してる。うん、うん。とりあえず俺たちは追いかけるよ」

 電話を切り、白瀬は犬の散歩を装い、蓮を追いかける。その隣を風華も歩いた。電話をするふりをしながら白瀬は風華に話しかける。

「鵜飼くんはパーキングを探して車を停めてから合流するって。……駅の方に向かってるのかな?」

 白瀬の言う通り、蓮は最寄りと思わしきコンビニを素通りした。この先はどうやら地下鉄の駅らしい。案の定、蓮は地下鉄へと続く階段を下りて行く。

 いつの間にか白瀬の連れていた犬はいなくなり、彼自身も蓮と同い年くらいの男の子になっていた。蓮がどこに行こうとしているにせよ、同い年くらいならば怪しまれないと踏んだのだろう。

 蓮がホームに到着すると、ちょうど列車がホームに滑り込んで来るところだった。撒かれるとまずいと、白瀬と風華は早足になり、同じ車両の別の扉から中に入る。

 白瀬はスマホをひらき、鵜飼に栄駅方面へ向かう地下鉄に乗ったというメッセージを送った。

 栄駅は名古屋の中でも名古屋駅に次いで発展している駅で、乗り降りする人口はかなり多い。蓮の目的地もやはり栄で、人波の中、彼も下車した。

「先輩」

 改札を出た蓮とすれ違うようにして、鵜飼が合流する。

「大丈夫?」と白瀬。

「はい」と鵜飼が返事をした。

 風華にはそれがなんのやり取りかわからなかった。パーキングエリアに駐車できたかということを言っているのだろうか。

 疑問を口に出すよりも早く、蓮が地下街を通り抜けて出口へと向かうので追いかける。それから蓮は錦通りと言われる繁華街の方に出る。夜が始まったばかりの街は、看板の派手なネオンと客のキャッチであふれていて、街頭の液晶ビジョンの前を通ると、大きな広告の音が流れている。

 やがてビリヤード・ダーツと書かれたクラブの前で蓮は立ち止まる。中に入るべきか、帰るべきか慎重に吟味しているような顔だった。しかし逡巡はほんのニ、三秒で、彼はすぐに重そうなドアを開けて中に入った。数秒おいて、男子高校生くらいになった白瀬と鵜飼、ついで透明人間も同然の風華も中に入る。

 店内はビリヤード台が六台ほど、階段の上にダーツ台があるらしい。客はまばらだが、若者が多い。ふんわりと電子タバコの匂いがしていた。

「よう」

「久しぶり」

 蓮が声をかけたのは同い年くらいの青年だった。

白瀬と鵜飼は受付で料金を支払い、隣のビリヤード台を使うことにした。すっと、彼らはイヤホンを付けたのを風華は見逃さなかった。蓮が改札を出て鵜飼とすれ違ったとき、鵜飼は盗聴器を蓮に忍ばせたのかもしれない。そうならば、あのときの『大丈夫?』は盗聴器の仕掛けが成功したのかを聞いていたのだろう。

 盗聴器がなくとも話が聞ける風華は、蓮の近くに突っ立って成り行きを見守っていた。

「ていうか、何年ぶりだ? 高校入ってから会ってなかったよね、じゃあ二年ぶり?」

「まあ、それくらいかな……」

「俺、お前のこと心配しててさ。学校、さぼってるんだろ」

 今の蓮の状態を学校をさぼっているととるのか、行けなくなったととるのかは、風華にはよくわからない。いじめなど、やむをえない事情があり休んでいるのか、それとも本当に学校に、家庭に、人生に嫌気がさして部屋に引きこもっているのか。なんとなく風華は、蓮はその両方なのではないかと予想した。

「面倒でさ、色々」

 面倒で、という理由は不思議としっくりと来た。頑張って生きてきた糸が摩耗し、細くなり、ぷつんと切れた、今の蓮はきっとそんな状態なのだろう。

「わかる。俺も高校ほとんど行ってないから」

「そうなの?」

「商業高校って遊んでばっかりだと思ったのに、簿記とかFPとか、勉強ばっかりで嫌になるよ」

 蓮の友人と思わしき人物、仮に友人とするが、友人はどうやら蓮とは違う商業高校に通っているらしい。正確にはその不登校というべきか。そうなると友人と蓮は中学校の同級生なのだろう。

「俺も、似たような感じ……。なんか上手く、いかなくて……」

 ぽつりと蓮が呟く。なんか上手くいかないというのは抽象的な答えだったが、面と向かっていじめられているとも、勉強に追いつけないとも、どちらかにせよ面と向かっては言いづらいのだろう。

「嫌になって来るよな。学校なんて、クソみたいな世界だ。けど、ここに来ると不思議と息苦しくない。今日はゲーム代も奢るからさ。一緒に遊ぼうぜ」

「……うん」

 蓮が頷いたとき、背後から三人組の少し年上の男たちが現れた。

「速水じゃん。こいつ友達?」

 友人の名前は速水というらしい。速水は背筋を伸ばして、彼らと相対する。

「はい。宮前っていうんです。中学の同級生で」

「へえ」

 柄も素行も悪そうな三人組は薄ら笑いを浮かべて蓮を見る。蓮は気まずそうに俯き加減で会釈をする。

「どうも」

「そうだ! こいつの姉ちゃんがめっちゃ美人で!」

 速水が素早くスマホを取り出す。風華は嫌な予感がした。案の定、速水が彼らに見せようとしたのは風華の顔写真などではなく、きわどい水着姿の、例の動画だった。

「へえ、結構かわいいじゃん」

「美人だね~。やば~」

 三人がスマホを見つつ、相好を崩す。『そういう需要』を満たすためのものとはいえ、いざ自分の動画を見て下卑た笑みを浮かべる男たちに風華は空恐ろしさと共に強い嫌悪感を覚えた。

 そしてそう思ったのは、風華だけではなかった。

 突然、蓮が速水のスマホをひっつかみ、腕を振り上げ床にそれを力いっぱい叩きつけた。

「何すんだよ!?」

 速水が突っかかるも、蓮は言葉にならない雄叫びにも似た叫びをあげるばかりだった。その叫び声をあげたまま、蓮は速水の首元を両手でひっつかみ、床に押し倒す。

「うぉぉおお!」

 蓮は速水を殴ろうと腕を振りかぶるが、その拳にはほとんど威力がない。人を殴ったことがないので、喧嘩も下手らしい。対する速水は少しは腕に覚えがあるのか、蓮の鼻にパンチを繰り出す。その反動で蓮は尻もちをついて、無様に床に転がる。

「許さねえ!」

 速水が蓮の胸倉を掴む。風華は慌てて助けを求めるように白瀬達や周りの客を見渡した。客は観客となり、突然始まった見世物を優雅に鑑賞する始末で、白瀬達も冷めた目で喧嘩の行方を眺めている。

「と、止めてください!」

 風華が言うと、小声で鵜飼が答えた。

「過度な干渉は私たちにはできません」

「でも、風華さんがこの喧嘩を止めたいなら、手はあるよ」

 なんでもないことのように、さらっと白瀬が言うので、風華は驚いた。

「教えてください!」

 乱闘は続いている。蓮は風華の動画が晒され、そのことに憤りを感じてくれた。だからこそ、速水に突っかかったのだろう。今まで風華のために行動してくれたのは、名前もわからない恋人と、クラスメイトの足立花凛、そして弟の蓮だった。その蓮が今、ピンチになっている。姉としての記憶は相変わらずちっともないけれど、生前の自分ならば、今ここで弟を助けないはずがないという気持ちだけはたしかにあった。

「ただしそれは完全な亡霊に近づくことになる。そうだな。六ヶ月の猶予が三ヶ月の半分になるかも」

「構いません」

「じゃあ、教えよう。手に力を込めて、念じるんだ。『吹っ飛べ』ってね」

 それだけなのかと驚きつつも、風華は急いで右手を速水の方へとかざす。

――吹っ飛べ!

 次の瞬間、目には見えない風圧が速水の身体を持ち上げ、部屋のコンクリートの壁へと彼を激しく衝突させる。

「いっ!」

 体を強くぶつけた速水はそのまま倒れ込み、意識を失う。

「殺したんですか……?」

「大丈夫。気を失ってるだけ。脳震盪だよ」

 ちらりと見るだけで生死がわかるのか、白瀬も鵜飼も落ち着いている。対してギャラリーは、蓮が自力で速水を吹き飛ばしたと思っているのか歓声を上げて盛り上がる。柄の悪い三人組は不機嫌そうな顔でそれを見ている。

「お前、調子乗ってんな」

「ちょっと来いよ」

 一人が蓮の腕を掴み、部屋の奥の方へと連れて行こうとする。一瞬のことに驚き、暴力を受けていた蓮は抵抗する力もないのか、鼻血をこすることもなく連れて行かれてしまう。裏口から外に出るつもりらしい。

「おっと」

 白瀬達は正面から出て裏口へと回るつもりなのか、店から出て行く。風華はそのまま裏口を透けて外に出た。薄汚れた裏路地に人気はなく、室外機やごみ袋、段ボールがまとめられて置かれている。三人は蓮を地面に乱暴に放り、話し合っているようだった。

「どうする?」

「とりあえずボコって、姉ちゃんの連絡先聞かねえ?」

「やらせてくれるかな?」

「馬鹿、まずは俺に回せよな」

「速水は?」

「ちょっと見たけど、気絶してるだけだ。ほっといてもそのうち目が覚める」

 また彼らを吹き飛ばすしかないと、風華が彼らに手をかざす。しかし、表通りから裏路地を覗いている白瀬がふと目に入る。彼は大きく両腕でバツを作っていた。不審に思い、彼のささやき声が聞こえるくらいの距離に近づく。

「どうしたんですか?」

「二回目の使用はおすすめしないよ。また亡霊になりやすくなる。今度、それをあの三人に使うと、残り七日くらいになる。どうしてもって言うなら、とめはしないけど……」

 残り七日。その時間は風華にすれば一瞬のことのように思えた。

 相変わらず、蓮は殴られ、蹴られ、いたぶられ続けている。風華はなかなか覚悟が決まらなかった。彼らはある程度の手加減を覚えているのか、ヒートアップしてうっかり蓮を殺してしまう、なんてことはなさそうだった。それが故に風華はなかなか覚悟を決められない。しばらく狼狽えていると、蛍光色の服を着た二人の中年男性が蓮たちの方に駆け寄ってきた。

「ちょっと、君たち!」

「何やってんの!?」

 補導員だろうか、男性たちが近づいてくると、先ほどのガラの悪い三人組はすぐに店の中に引っ込んでいき姿をくらます。無様に地面に転がっていた蓮は、咳き込みながら上体を引き起こす。

「大丈夫か、君……」

「はい……」

「高校生?」

 一人の男性がハンカチを取り出し、鼻血を拭うように言う。受け取った蓮はそれで血などで黒く汚れた顔面を拭う。

「はい……」

「……帰るとこ、ある?」

 神妙な面持ちで補導員の男性が問いかける。

「……家はあるけど、帰りたくないっす」

 家に帰りたくない、そんな風に漏らす蓮を見て、風華は胸が締め付けられる思いがした。無関心な父と、不機嫌な母、そして突然に消えた姉。蓮にとってはきっと唯一の防波堤だった風華が消えた今、母の苛立ちの矛先は当然蓮に向かうことになるだろう。不登校であり、まだ未成年の蓮を救ってくれる社会的つながりのある人物は誰もいない。

「……おじちゃんたちさ、NGO団体の人間なんだ。エヌジーオー、学校で習った? まあ、ボランティアみたいなことだな」

 男性たちは汚れることもいとわず、蓮と同じように地面にあぐらをかいて座った。いそいそと名刺を取り出し、蓮に渡す。

「家に帰りたくない子たちをサポートしてる。嫌なら無理に帰る必要はない。むしろ家に帰ることで状況が悪くなる子だって大勢いるんだ」

「君の気持ちがわかるなんて大層なことを言うつもりはないけど、寝床はいるだろ。寮みたいな場所だけど、寝るところくらいは一応あるんだ」

「…………」

 蓮は何も言わず、じっと渡された二枚の名刺を見つめていた。彼らの身分を疑っているというより、信じられないものを見ているように、目を瞬かせていた。

「帰らなくても、いいんですか……」

「そりゃあ帰れるなら帰った方がいいけど」

「帰れない子も大勢いるからな」

 それからしばらく三人は話をしていた。

男性たちは定年退職するまでは中学校の教頭や校長をやっていたらしい。NGO団体に声をかけられ、夜間の見回りをしては、蓮のような帰る場所のない未成年と話をしているらしい。

「親御さんと話しにくいなら、うちの弁護士とかが間に入って話をするし、心配ないよ」

「……姉もいるんです」

「姉さんも困ってるなら、呼ぶかい?」

「……一週間くらい行方不明で。もう家出したのかも」

 そういう蓮の声があまりにも悲痛で、二人の男性は顔を見合わせた。

「そっか」

「最近、女の子を保護したってことはないし、少なくともうちは保護してないな。」

「家から、逃げられたなら、いいんです」

 ところどころ息を詰まらせながら、蓮は呟いた。

「姉さん、グラビアまがいの仕事を、親に無理やりさせられてて……。金を稼ぐためだって。金なら、作ろうと思えば、土地を売るなり、なんなり、できるのに。全部、姉さんにやらせて……」

 蓮の目からぼろぼろと涙が零れ落ちていく。悔しさと自分と家族への怒り。そして、姉への申し訳なさがその表情から見てとれた。

「優しい姉さんなんです。子供の頃、メロンパンを半分に分けたら、いつも大きい方をくれる。あんな動画に出たのも、俺や親のためで。親の言いなりになって、引きこもりの自分をかばってくれて。でも姉さん、出て行って――」

「辛かったね」

 男性が泣いている蓮の背中をさする。蓮は首を横に振り、その言葉を否定する。

「違うんです。嬉しいんです。姉さんは出て行った。あの家からやっと解放された。全部、これで、よかったんです――」

 これでよかった。そういう蓮の言葉を聞いた途端、風華の目からも涙が零れ落ちた。

 蓮の気持ちが嬉しかった。それと同時に蓮を裏切っていることが申し訳なかった。だって自分は家出をしたわけではない。殺されたのだ。

 いつか蓮は真実を知るだろうか。姉さんは殺されたと知ったら、きっと悲しみ、自分を責めるだろう。そう思うと、心に冷たい氷柱が刺さったように、悲しくなった。

 顔や首を拭った蓮はよろよろと立ち上がり、男性たちと表通りへと消えて行く。風華も涙をぬぐい、顔を少し俯かせる。白瀬が風華の肩を叩いた。

「君は弟思いなお姉さんだったんだね」

「……そう、みたいですね。まったく思い出せないですけど」

「宮前蓮は容疑者リストから外してもいいじゃないですか」と鵜飼。

「犯人だとしたら、あまりにも演技がうますぎる。そもそも誰に見られるわけでもないのに、こんなところで演技をする必要もない」

「そうだよね。お母さんやお父さんは相変わらず怪しいけど、蓮くんは白だろうね」

「……幸せになってほしいです」

 ぽつりと風華がそういうと、白瀬が答えた。

「見守る方法もあるよ。悪霊になれば、現世にとどまれる」

「そうなんですか?」

「子供の成長を見届けたくて悪霊になる人も多い。でも触れられないし、守れないから、逆にもどかしいし、苦しいっていう意見も多いんだけどね」

 記憶はないが、風華は蓮のこれからが心配だった。いつでも狩人の手で〈静かなところ〉に行けるのなら、悪霊になり、一時的にでも彼を見守るのも悪い選択肢ではない気がした。

「まあもちろん悪霊になるからには、無辜の人が死ぬかもっていうデメリットはあるけどね」

 恐ろしいデメリットを平気なことのように白瀬はさらっと告げる。

 家族の幸せを見届けるためには、赤の他人の不幸を選ばなければならない。記憶があればその天秤は簡単に傾いたかもしれない。けれど今の風華には家族と他人の境界は曖昧なものだ。

 選ばなければならない。

 頭の中でその嫌な言葉が反響していた。







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