2‐1
――今よりももっと幼いころ、よく自分の家を抜け出しては歩いて行ける距離に住んでいた祖母のもとに遊びに行っていた。
歳の割にずいぶんと若々しい見た目をしていた彼女は、それはもうお喋りな性格で、変わった人でもあった。
近所の友達がいるわけでもなかった当時の自分にとって、祖母は唯一の話し相手だった。
そして、自分が妖怪とか神様とか超常現象とか、そんなものに興味を持つきっかけとなったのは、祖母の話を熱心に聞くようになっていたあのころからだった。
祖母の家に遊びに行くと、彼女は大抵、自分の好きな茶菓子と飲み物を出してもてなしてくれた。
いったい、どこから聞きつけたのか、初めて一人で会いに行ったときでさえ、こちらがなにも言っていないのにもかかわらず好物を当ててきたのだから驚きだった。
家同士が近いのもあって、家族で祖母のもとに遊びに行くなんてことはそうそうなかったし、彼女に直接、好みの話をしたこともないはずだった。
祖母は赤ん坊のときからの付き合いだからと言っていたが、あいにく自分にはそのときの記憶は残っていない。仮に残っていたとして、言葉もろくに話せなかっただろう赤子の自分から、どうやって好みを知ったというのか。おそらくあれも、変わり者だった彼女が話した、いくつもの戯言の一つだったのだろう、と思っている。
とにかく、祖母はどんなときでもこちらの考えを見透かしていたし、どんなときでも、自分を温かく迎えてくれた。
幼少の自分を家に招き入れ、茶と菓子で機嫌を取った祖母がしてくれたのは、本当にいろんな話だった。
どちらかといえば、最初は『してくれた』というよりも『聞かされた』といったほうが正しい。早くに夫――自分の祖父にあたる人を亡くしたらしい彼女は、一人で退屈な毎日を孫で埋めるように、こちらの気も知らずに延々と話し続けていた。
まだ彼女の話に興味が持てなかったころ、適当に相槌を打っているうちに日は暮れ、初めて会いに行ったときはそれでも話題は尽きず、ついには机に突っ伏して眠ってしまった。そのことは今でも覚えている。
祖父も、元気にしていたころはあのときの自分と同じように祖母の話を聞いていたのだろうか。
彼がいなくなったことで話し相手がいなくなっても、祖母の誰かに話したいという気持ちが尽きることはなかったのだろう。
何度か祖母の家に遊びに行って、彼女と会う間隔が空くほど話が長くなることに気づいてからは、頻繁に顔を出すようにしていた。
祖母と会えば彼女の話は嫌でも耳に入ってくるし、数日おきに顔を合わせていれば嫌でも彼女の話は頭に残るようになる。それまで聞き流すようにしていた話に少しは耳を傾けるようになったのはそのころだった。それで、彼女がなにやら面白そうなことを話していたのを知った。
そして、そんな話題の中の一つが、人ならざる者たちの話なのだった。
祖母は語った。その昔、彼女がまだほんの幼子だったころ、人の言葉を話す獣に騙されて、そのとき持っていた食べ物やら小遣いやらを奪われたことがあると。
その話を筆頭とするいくつかの話題は、昔話として語り継がれそうなありきたりなものだった。実際、学校の図書室で調べてみれば、似たような話が載っている本が見つかった。
祖母が話してくれたいくつかの話題は、単にそういう話が昔にはあると言いたかっただけのもので、彼女が本当に体験したわけではないようだった。
ただ、祖母に本当にそんな体験をしたのかを聞いたとき、彼女は誰も信じてはくれなかったけれど、と答えたときがあった。
それが、祖母の人生で初めて経験した、非現実的な出来事だったという。
祖母は語った。その昔、彼女がまだ学生だったころ、人間に化けた妖に誘われて、ここではないどこかに迷い込んだことがあるのだと。
その話を筆頭とするいくつかの話題は、にわかには信じがたい唯一無二の話だった。当時、それはさすがに嘘だろうと茶化して言ってみたことがあるものの、穏やかな表情でまっすぐに自分を見つめていた祖母には、嘘をついている様子はまったくなかった。
もし、祖父がまだ健在ならば、その真偽を確かめることもできたかもしれない。しかし、今となってはもう、それもできない。それゆえにすべてを信じることはできなかった。
ただ、祖母に、確かめるように「本当なの?」と聞いたとき、彼女は誰も信じてはくれなかったけれど、と答えたときがあった。
祖母がそう言うのなら、それを信じてあげたいと、思った。
そうしていつの間にか、自分は祖母のする話に夢中になっていた。数日おきに彼女の家を訪ねていたのが、いつの間にか毎日訪れるようになり、自分の家で過ごす時間よりも祖母の家で過ごした時間のほうが多いのではないかと思うほどだった。
思い返せば、一番幸せな毎日だったのかもしれない。祖母が語った、自分以外誰も信じないような摩訶不思議な話には、それくらいのめり込んでいた。
そのときにはもう、彼女の話が本当だろうが嘘だろうがどうでもいいと思っていた。
休み時間や放課後には学校の図書室に籠り切り、ただひたすらにその手の本を読み漁るほどで、上級生が読むような難しい本にも手を出していた。おかげで、学年の割には、難しい言葉もわかるようになっていた。
そうやって、退屈な毎日を――否、退屈だった毎日を過ごしていた。
けれど、それも、あまり長くは続かなかった。
※※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「お祖父ちゃんが呼んでいるから」
それが、少年が聞いた祖母の最期の言葉だった。
今思えば、その言葉の意味するところは明白だった。しかし少年はそのとき、祖母の言葉の意味を理解できていなかった。
だから、あの日の夜も、とくにこれといった別れの言葉もなく、いつものように祖母の家をあとにしたのだ。
――それが、最後の邂逅になるとも知らぬままに。
玄関先で振り返り、また明日と、いつもと変わらない別れを告げれば、祖母から返ってきたのは先の言葉だった。
穏やかな笑みを浮かべながら頷き、扉の隙間から見えなくなるまで少年を見送っていた昨日までの祖母とは、どこか様子が違っていた。
寂しそうに目を細め、滅多なことでは首を横に振ったりしなかった祖母が、静かに首を振ったあの夜の彼女の姿は今も記憶に焼き付いている。それが、祖母が少年の願いに応えてくれなかった、最初で最後のやり取りだった。
頭の中で疑問符を立てつつも、少年は祖母に背を向けていた。
わからなかったから。祖母の言ったことの意味が、そのときの少年にはまだわからなかったから。
後悔ならいくらでもある。じゃあね、なんて、普段と変わらない単調な別れをしたあの夜の自分のことをいまだに悔いている。
かけられる言葉も、かけなければならない言葉も、それこそ語り切れないほどにあったというのに。
なにも知らないまま別れ、なにも知らないまま家に戻り、なにも知らないまま、いつもと同じ夜更けをベッドで過ごした。そうして次の朝を迎え、昨日となにも変わらない時間を過ごすのだと信じて疑わぬまま、祖母の家を訪ねた。
――そして、そのときにはもう、そこに彼女は『いなかった』。
すべてを理解したのは、現実を現実だと受け入れてから、ずっとずっとあとのことだった。
「――――」
祖母の死に顔は安らかだった。
まるで眠っているかのようだった。
苦しんだ様子も、悶えた様子も見当たらず、ただ眠りから覚めないだけのような、そんな様子だった。
魂の抜けてしまった祖母を見下ろしながら、少年は医者の先生が言ったことを思い返していた。
彼女はかなり前から、身体の内側の見えないところで、その身を弱らせていたらしい。それがついに限界を迎えたのだと、先生は言っていた。
弱々しく揺らめいていた命の灯火。新たな燃料が加えられなければ、やがて炎は炎でなくなり、ついには消えてしまう。ゆっくり、ゆっくりと――。
――それが、祖母の最期だったという。
祖母はいつから、自分の死期を悟っていたのだろうか。
体調を崩しているなんてことは一言も言っていなかったし、家族からも、祖母が病院に通っているような話は聞いたことがない。なにより、祖母がそんな素振りを少年に見せたことなど、一度もない。
彼女は無理をして、少年に付き合ってくれていたのだろうか。少年に心配をかけないよう、自分が弱っているところは決して見せず、毎日のように家にやってくる少年をもてなしてくれていたのだろうか。
それとも――。
――お祖父ちゃんが呼んでいるから。
いくつもの不思議な出来事を体験してきたという祖母は、そこで祖父の姿を見たのだろうか。それで、自分の死期を悟ったのだろうか。
人は突然に、こうして苦しむことなく死ぬことがあるのだろうか。なんの前触れもなく死ぬようなことがあるのだろうか。
だってそうだろう。昨日までは、なにもかもが普通だったのだから。
だけど、あの祖母なら、もしかしたら、本当にそんなことがあるのかもしれない。
元々、変わった人だったのだから。年をとっているはずなのに見た目は若々しくて、あちこち身体は脆くなっているはずなのに風邪一つひかなそうな、そんな人だったのだから。
だから、もしかしたら、本当に。
魂の抜けた祖母の顔を見下ろしながら、今度は彼女を迎えに来た祖父のことを考える。
思い返せば、祖父の話を祖母から聞いたことはなかった。少年のほうから話を振ったこともなかった。
また一つ、後悔が増えてしまった。
祖父はどうして、愛していた人を一人残して、この世を去らなければならなかったのだろうか。
祖母と同じ理由だろうか。それとも、別の理由だろうか。
いずれにせよ、二人が別れることになったのは、無論望んだことではなかっただろう。
それは、長い別れの日々だったはずだ。だとしたら、それがようやく、終わりを迎えたのだ。
今ごろ二人は、天上の世界で、また仲よくやっているだろうか。
祖父も寂しかったのだろう。長い間、祖母の声も聞けず、天上の世界で彼もまた孤独だっただろうから。
神様がくれた時間を祖母が使い切ったことで、祖父はそれを伝えに現世に戻る役目でも与えられたのだろうか。
そうして祖母は、この世を去って行った。
祖父の声を聞き、呼ばれ、招かれ、彼のもとにいくことを決めた。
真実はわからない。祖母はもう、死んでしまったのだから。
だけど、きっとそうだ。
それを彼女自身が選んで決めたのなら、それが祖母の最後の意思なのだというのなら、少年はもうなにも言うまい。
信じてあげることが、少年にできる、精いっぱいなのだから。
そしてきっと、少年のような人間でも、孫として、夫を失った祖母の心の拠り所になれたはずなのだから。
そうして少年は祖母の死を受け止め、彼女に別れを告げて、新たな一歩を踏み出す決意を固めた。
君に捧げるのは 冥夜 凪音 @xTrugbild
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