今回も頑張ったんだね
ある日わたしは、プロダクションの方に「今撮っている映画、あゆみさんに出ていただくからあなたも見に来ない?」というお誘い受けたので有給を取って行きました。
スタジオの静かな朝、まだスタッフたちのざわめきが届かない時間に、一人のスタッフが私の目の前でそっとチャペルの扉を開けた。彼女は、ひんやりとした空気のなか、アクリルケースの中で横たわるあゆみに軽く一礼した。彼女はもうひとりのスタッフとそのアクリルケースを台車に乗せた後、外に出てきて私に話しかけてきた。
「はじめまして。照明係の北川
「あゆみの姉の平間えみりと申します。どうもよろしくお願いします」
「こちらこそどういたしまして」
「中で一礼した後口を動かしているように見えたのですが気のせいでしょうか?」
「あゆみさんが出演することになって連れ出すときは、必ず担当スタッフが一礼して『あゆみさん、今日もよろしくお願いします』と言うのが通例になっているのよ」
わたしは、彼女のその言葉を聞いて目に涙を浮かべた。そして話は続いた。
彼女は、もうスタジオの「伝説」となっていた。単なる思い出ではない。今でも「現役」の女優として扱われている。わたしは彼女から台本を手渡された。映画「さよなら、またいつか」のワンシーン。季節は冬、雪の降り積もった教会で、主人公が最愛の妹の亡骸と最後の別れを交わすという重要な場面だった。白いドレスを着たまま横たわる「妹」役に選ばれたのは、アクリルケースの中のあゆみだった。
チャペル内に照明が灯され、スタッフたちは機材を調整しながらも、その中央にいるあゆみの姿に、どこか神聖な距離を取っていた。
「リハ、いきます」
監督の声が響き、主演女優の大沢
「こんなにきれいなままで……帰ってきてくれたんだね」
彼女の声は震えていた。あゆみは静かに、ただそこに在るだけで、シーンを引き締めていた。演じることなく、「存在すること」そのものが演技だった。
「本番いきます。カメラ回します。アクション!」
カチンコが鳴ると、彼女はチャペルの中心に進み出た。ゆっくりとアクリルケースの傍らにしゃがみ込み、薄く曇った透明なふたに手を当てる。
「お姉ちゃんね、ずっと夢見てたんだよ。あなたが大女優になって、世界に羽ばたいていく姿を」
大沢さんが声を震わせながらそう言うと、カメラの画角は少しずつ引いて、チャペルのステンドグラス越しの光とあゆみの姿を一枚におさめた。
「はい、OKです!」
スタッフたちの間に、安堵と静寂が流れた。誰もが何かを言葉にできず、ただ立ち尽くしていた。演技の余韻ではなかった。そこにあゆみが「いた」からだった。
数日後、別の映画「残光の扉」では、病室の再現セットで、主人公の回想シーンにあゆみが登場した。台詞も動きもない。ただベッドに横たわり、カーテン越しに差し込む午後の光を浴びて眠る「妹」役だった。監督は、演出指示を最小限にとどめていた。
「彼女の『気配』を撮る。それだけで充分なんだ」
カメラはゆっくりと彼女に寄り、呼吸すらないその静けさを記録していく。セットの中の空気が、ふと止まったような錯覚を覚える。照明があゆみの額をかすかに照らし、肌の下に通る保存液の透明感が、まるで薄い命の余熱のようだった。後日、動画からアクリルケース部分の消去作業をしながら、「きれい……」とつぶやいた動画加工部の青年の目元が濡れていたと聞きました。
数週間後、ある深夜の連続ドラマの撮影で、再びチャペルが使用された。今回は「誰もいないはずの教会」という設定。主人公が孤独の中、亡き友人の幻と語り合うというシーン。主演女優の
「こんなところにいたの?」
セリフが終わった瞬間、カメラがゆっくりとパンし、アクリルケースに寄る。そこに横たわっている、あゆみ。スタッフと俳優の誰もが、ただの小道具として彼女を見ることはできなかった。
彼女は、いまもこのスタジオで生きている。自分では動くことはない、だけど確かに「出演している」女優。光のなかで眠りながら、誰かの心に語りかける存在として。
わたしがチャペルの掃除をしている時、誰かがそっとここに花を添え、つぶやいたのが聞こえてきた。
「今日のシーン、すごくよかったよ、あゆみさん。また来週、よろしくね」
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