第5話 感謝

 奴等は人の姿ではなく、常に心を覗き見る。壁に潜んで隠れようとも、今も俺の心を見ながらほくそ笑んでいる。


「最高だなっ!」


 俺は涙をぬぐい、笑顔を作って周囲の壁に向かって叫んでやった。

 こいつら闇の住人共が、人の恐怖や不安を好むのは知っている。未だ壁親父はその姿を現さないが、もうこれ以上奴にエサをやる訳にはいかなかった。


「最高だっ! 最高だっ! 最高だーーっ!!」


 続けて喚くように立て続けに叫ぶ。もしも誰かが見ていたら、俺の気が狂ったと思うだろう。しかし、馬鹿みたいに叫びまくったおかげか、俺の指の震えは止まっていた。


(最初からこうしていれば良かった……)


 俺は心底そう思っていた。

 こんな事で勇気が出るのなら、加藤のバカな誘いだって断るのは容易だった筈だ。例えそれが原因で加藤達と喧嘩になろうが、絶交しようが、今の状況に比べれば余程マシだったろう。

 だいたい、俺は中学時代で一人ぼっちに慣れていた。もう一度耐える事だってできた筈なのに、どうしてこんなに怯えていたのだろうか……?


「ああ、最高だ……」


 俺は首を振って後悔を止めた。今それをしても、壁親父が元気になるだけなのだから。

 とはいえ俺は次にどうしたらいいか、なにも分からぬ状態だった。

 中学時代に学んだのは、自身の陰気で弱気な心を治して悪霊を払う方法だった。が、今必要としているのはそれではない。

 利己で身勝手に増長しきった心を、打算に走り思いやりを放棄してしまった心をどう修正するのか? それが今の俺には必要な事だった。

 そうしなければ壁親父が嫌がるような人間に、俺はなれないのだから。奴が吐き気をもよおして嫌うような、そんな心を持つ人間に今すぐにでもならなければ、俺は殺されてしまうのだから。念力も霊力も超能力もない普通の人間が闇の住人に対抗するには、闇を寄せ付けぬ心力を持つ以外に方法はないのだから。


(どうする?)


 俺にじわじわと迫る白い壁は、未だ動きを止めず、四方から近づいてくる。まだ何も思い付いていないのに、もう俺に残されていたスペースは1メートル四方を切っている。


(確か、死ぬ間際の苦痛は、脳内物質が快楽に変えてくれるんだっけ?)


 恐怖を紛らわすためそんな事まで考え始めていた、その時だった……


「ありがとう」


 ……俺の口から、その言葉が自然に漏れたのは。


「ありがとう ありがとう ありがとう」


 訳が分からなかったが直感はしていた、この言葉が壁親父に……いやむしろ、増長した今の俺の心に効果的であろう事に。


「ありがとう ありがとう ありがとう」


(俺は今、いったい誰に感謝しているのだろう?)


「ありがとう ありがとう ありがとう」


 渋々ではあるが、俺の美大受験を認めてくれた両親に対してだろうか?


「ありがとう ありがとう ありがとう」


 それとも中学時代に助けてくれた、穂波さんと健司君にだろうか?


「ありがとう ありがとう ありがとう」


 高校で友達になってくれた加藤と内藤に?


「ありがとう ありがとう ありがとう」


 中学時代の事を謝りに来てくれた佐藤にも……


「ありがとう ありがとう ありがとう」


 中学時代に俺をイジメていた藤田だってそうだ……、狗神に憑かれたアイツの姿を見ていなければ、俺は壁親父にどう対抗していいか分からなかったのだから。


「ありがとう ありがとう ありがとう」


 健康でいられる自分の身体に……


「ありがとう ありがとう ありがとう」


 平和に暮らせるこの国と社会にも。


「ありがとう ありがとう ありがとう」


 毎日食卓に並ぶ食事、そしてその材料になってくれた命達にも……


「ありがとう ありがとう ありがとう」


 太陽にも大地にも、そして空気にも……


「ありがとう ありがとう ありがとう」


 死を目の当たりにしているせいだろうか? 今の俺は自分を取り囲むありとあらゆるものに対して、素直に感謝することができた。

 身の回りの全てを呪って生きていた中学の頃の自分と比べ、今はまるで正反対だ。


「ありがとう ありがとう ありがとう……」


 ……そして、自分自身にも……。


「……ありがとう」


 その時だった、突然ふっ、と目の前の壁になにか映像が現れたのは。左右の壁も、そして後ろの壁も白いままなのに、前の壁だけがまるでスクリーンの様に変化している。


『軽く触ったつもりだったんだけどな……』


 映像の中から聞こえてきたのは、加藤の挑戦を受けた道場主のおじさんの声。そして画面中央の畳の上で、みっともなく呻く加藤。


(ーーっ!! これは、俺が編集してユーチューブにアップした動画じゃないか!)


 俺は、目前まで迫った壁に映る動画を食い入るように見つめていた。


(なっなぜ、なぜこんなところで、この動画が!?)


「あっ!!」


 そいつの存在に気づいた時、俺は思わず叫んでいた。なんと動画の左隅に、見覚えのない用務員服を着たおじさんが佇んでいたのだ。


(元の動画にはこんなもの映っていなかった筈なのに……まさか、これが壁親父!?)


「ぷっ! あははははははははははっ!!」


 そいつの姿を見た途端、俺は笑っていた。

 だってあの用務員服のおじさん、画面の端で居心地が悪そうにビクビクオドオドしていて、俺が想像していた恐るべき都市伝説の姿とは、まるでかけ離れていたのだから。

 そんなに”ありがとう”が……、感謝の心が奴には受け入れられないのだろうか?


「うひひひひひ!! あーーはっはっはっはっはっ!!」


 俺の大声に驚いたのが、ビクッと一瞬身を縮めたみっともない壁親父……そこで、俺の目が覚めた。

 ガラスのはまっていない窓から、夕日と涼しい風が差し込む廃ビルの一室、そこに俺は寝ていたのだ。隣を見ると、加藤と内藤も埃だらけの床の上で寝息を立てている。

 時刻を確認しようとポケットからスマホを取り出してみると、いつの間にかアンテナが正常に立っているのがまず目に入った。


(奇妙な話だとは思っていたけど、これも壁親父の仕業だった……てか?

 けど他にもおかしな事がいろいろあったし、ひょっとすると壁親父だけじゃなく、誰かに呪いでもかけられていたのかもしれないな)


 俺がユーチューブにアップした不快な動画、それを見た誰かが、あるいは複数人が俺達に呪いをかけていたのかもしれない。そうとでも考えなければ、あの動画が壁親父と一緒に出てきた訳がわからなかった。


(それにしても……)


「わははははははははーーっ!!」


 俺は大声で笑い出す、あの情けなく驚いた壁親父の顔を思い出してしまったせいだ。


「ふひひひひひっ! うーふっふっふっふっ!!」


 いつの間にか目を覚ました加藤と内藤が、俺をおかしな人を見るような目で眺めていても、今は全く気にならない。


(うひいいいぃぃぃーーっ! さっきから腹が、くっそ痛てーーっ!!)


 もうすぐ日が暮れようとしているが、この誰も寄り着かないような寂しい廃ビルだって、あの壁親父を見た後では怖くもなんともない。

 俺は自分の気が済むまで、二人をそっちのけでずっと笑い転げていた。



         §      §      §



……この街に”壁親父”って都市伝説があるのは知ってる?

 用務員の恰好をした中年の親父なんだけど、そいつに会うと壁の中に引きずり込まれて、生き埋めにされちゃうんだって。

 でねー、そいつが出るっていう廃ビルが、この近くにあるんだけど……」


「もぉーっ! 怖い話はやめてよーーっ!」


「大丈夫、大丈夫、全然怖くないよー。

 だって壁親父に出会っても、”ありがとう ありがとう ありがとう”って繰り返すだけで助かっちゃうんだもん」


「キャハハハハッ! なにそれぇ、ウケるぅーーっ!

 ”ありがとう”だなんて、チョー簡単じゃなーーい……








壁ジジイ


いつの間にか、現れる用務員のおじさん。

出会うと壁の中に生き埋めにされる。

壁を操る


鈴木康太 美大生を目指す。


加藤邦夫 サイキョーを目指すユーチューバー、空手の有段者であり道場への突撃取材をする


内藤輝 本人はテルと名乗っているが、キララ。撮影&カメラ管理担当。



道場のビルに行く>奇妙な女性、なぜか寝る仲間>ビルの14Fに道場があるが、奇妙なエレベーター>仲間と合流するもエレベーターがない>探す>14Fの噂を聞く>壁ジジイ


閉じ込められる>壁に呑まれる部屋の人と消える扉>一人残され絶望>サイコーだな(笑顔)>ありがとう>ユーチューブ映像と縮こまる壁ジジイ>ビルの空き室でみんなで寝ていた




「もぉーっ! 怖い話はやめてよーーっ!」


「大丈夫だって、全然怖くないよー。

 だって壁親父に出会っても、”ありがとう”って連呼すれば助かるんだもん」


「キャハハハハッ! なにそれ、ウケるぅーーっ!

 ”ありがとう”だなんて、チョー簡単じゃなーーい……

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