第7話 ゼダールの挑戦
サーカス団の一団が去ろうとしたその時、ヒッキーの視界にひとりの少女が現れた。
彼女は
短い黒髪に澄んだ瞳、細い体にぴったりと合ったサーカス衣装を身にまとい、その姿は一瞬、光を帯びて見えるほどだった。
「ティナ、大丈夫だよ。この子は死んでない。ただ気絶してるだけだ」
団長が少女に声をかける。
少女は涙を
「本当?……よかった」
彼女の声には深い安心感が滲んでいた。
その熊、バロンが
ティナは立ち上がると、ゆっくりとヒッキーの方に向き直った。
そして、深々と頭を下げた。
「あなたがバロンを助けてくれたんですね。本当にありがとうございました」
ヒッキーは何か言おうとしたが、言葉が詰まった。
目の前にいるのは間違いなく美少女だ。
自分のようなニートの人生には無縁だった
「い、いや……そんな、大したことじゃないって」
ヒッキーがしどろもどろに答えると、ティナは柔らかく
「この子、バロンは私たちの大切な仲間なんです。小さい頃からずっと一緒で……だから本当に感謝しています」
ティナの目には感謝の気持ちと涙が輝いていた。
その表情にヒッキーはなぜか胸が締めつけられるような気持ちになった。
その時、ティナを見守っていたサーカス団の団長がヒッキーに頭を下げた。
「迷惑をおかけしました。本当に助かりました」
ヒッキーは少し顔をしかめながら言った。
「俺はいいけど、次はこんなことで済むか分からないですよ。熊が逃げ出したままだったら、もっと大きな被害が出てたかもしれないし」
団長は真剣な表情で
「おっしゃる通りです。今回は私たちの不注意でした。今後はもっと厳重に管理します」
その言葉にティナも静かに頷いた。
「バロンが村の人たちを
ヒッキーは少し照れたように頭を
「まあ、俺はただ……勢いでやっただけだから」
ティナはその言葉にくすっと笑った。
「勢いでも、助けてくれたのは事実です。あなた、本当にすごい人ですね」
ヒッキーは思わず顔を赤らめる。
後ろでにやにや笑っていたリュクスが軽く肘で突いてきた。
サーカス団がバロンを連れて去っていく中、ティナが最後に振り返った。
そして、遠くからヒッキーに手を振る。
「また会えたらいいですね!」
彼女の笑顔に、ヒッキーは心の中で何かが
リュクスが横でからかうように言った。
「お前、
ヒッキーはリュクスを
「うるさい。……でも、また彼女に会えるなら会いたいとは思うよ」
ある日、ヒッキーが荷物預かり所の机に腰を下ろし、銀貨を転がして暇をつぶしていると、扉が軽くノックされた。
「はいはい、今開けるよ」
ドアを開けると、そこにはティナが立っていた。
前回会ったときと同じく、彼女は快活な笑顔を浮かべている。
「おや、ティナさん? 熊は預かっていないよ」
ヒッキーが冗談めかして言うと、ティナはくすっと笑った。
「ヒッキーさま、この前の御礼を言いにきたのです」
彼女は手に包みを抱えており、それをヒッキーに渡した。
中を開けると、サーカス団で作られた特製の焼き菓子だった。
「え、これを俺に? 悪いな……ありがとう」
ティナは微笑みながら頭を下げる。
「いえ、お礼は当然です。それより……」
彼女はヒッキーの部屋をちらりと見回し、少しだけ首をかしげた。
「ヒッキーさま、1日中この部屋にいるのですか?」
ヒッキーは肩をすくめた。
「まあ、荷物預かりの仕事があるからな。基本的にここにいるよ」
ティナは腰に手を当てて言った。
「それはよくないです! 外に出て日の光を浴びた方がいいですよ。さあ、今すぐ行きましょう!」
「いや、俺まだ……」
ヒッキーが抵抗する間もなく、ティナは彼の腕を
ヒッキーは
ティナはサーカス団で
「ちょっと、待ってくれ!」
ヒッキーはゼエゼエ息を切らしながら叫んだが、ティナは振り返って笑うだけだった。
ついにヒッキーはその場にへたり込む。
「無理だって、こんなの……」
ティナはヒッキーのそばにしゃがみ込み、クスッと笑った。
「このお腹がいけないんですね」
そう言って、彼女はツンツンと指でヒッキーの腹を突いた。
ヒッキーは顔を赤くしながら肩をすぼめた。
「ほっとけよ……。まあ、動かなすぎたのは事実だけど」
それからというもの、ティナは毎日のようにヒッキーを
「さあ、今日も行きましょう!」
ヒッキーはしぶしぶ外に出され、野山を歩かされることになった。
汗をかきながら動くうちに、彼の身体は徐々に引き締まり始める。
「ティナ、俺にもスケジュールってもんがあるんだ」
ある日、ヒッキーはティナに言った。
「俺、一応荷物を預かってる身だし、10時頃にクローネさんから荷物を受け取るまでは家にいなくちゃいけない」
ティナは不満そうな顔をしながらも、笑顔を浮かべて頷いた。
「分かりました。それじゃあ、朝は少しだけ村の外のことを教えてあげますね」
ティナは移動サーカス団に属しているだけあって、村の外のことをよく知っていた。
「この山の向こうにはエレシアという大きな都があってね、そこでは毎年お祭りが開かれるの」
「へええ」
「川をずっと下っていくと海に出るの。その向こうにはすっごく綺麗なアルディナ島が見えるんですよ」
彼女の話を聞くたびに、ヒッキーの知らない世界が広がっていく気がした。
「すごいな、ティナ。お前、なんでそんなに詳しいんだ?」
ヒッキーが聞くと、ティナは胸を張って言った。
「だって、私の家族は移動サーカスですもの!」
ヒッキーは苦笑しながら、少しだけ辛そうな表情で言った。
「俺なんてずっとこの部屋から動かなかったからな。お前みたいに自由なやつ、ちょっと羨ましいよ」
ある日、ヒッキーはふと思い立って、家を出る時に「12時までには帰ります」という
ティナがその札を見て微笑む。
「まあ、ヒッキーさまって責任感が強いんですね」
ヒッキーは肩をすくめた。
「いや、荷物預かりは俺の
ティナはその言葉に満足そうに頷いた。
「それは素敵なことですね。楽しいからやれるって、すごく大切なことです」
ヒッキーは時々ティナに誘われ、サーカス団のテントを訪れるようになった。
団員たちは彼を温かく迎え入れ、豪快に笑いながら手を振る。
「おい、ヒッキー! また来たのか?」
「こっちで座って一緒に飲もうぜ!」
皆の陽気な声に包まれる中、なぜか熊のバロンもその場に座り込んで満足げに
ヒッキーにじゃれる様子は、まるで彼を仲間と認めたようだった。
だが、団員たちの中で一人だけ、明らかに歓迎していない者がいた。
テントの
彼の名はゼダール。
ヒッキーと同年代の青年で、鍛え上げられた体と
ヒッキーはその視線に気づき、ティナに耳打ちした。
「おい、ティナ。なんかゼダールってやつ、俺を良く思ってないみたいなんだけど」
ティナは少し困ったように笑いながら答えた。
「ゼダールは私に気があるみたいなんです。それでヒッキーさまが私と仲良くしてるのが、面白くないんでしょうね」
ヒッキーはため息をついた。
「やれやれ、そういうのは面倒だな」
ある日の事。
ヒッキーがサーカス団を訪れた時、ゼダールが彼に近づいてきた。
その目には明らかな敵意が込められている。
「おい、ヒッキーとか言ったな」
ゼダールの声は低く、冷たい。
ヒッキーは顔をしかめながら振り返った。
「なんだよ」
ゼダールは少し距離を詰めながら言った。
「お前、最近このサーカス団に
ヒッキーは肩をすくめて答えた。
「別に調子に乗ってるわけじゃないさ。ティナが誘ってくれるから来てるだけだよ」
その言葉に、ゼダールの目が
「ティナ、ティナって……お前は
ヒッキーは少しだけムッとした顔で反論した。
「ティナが家族なのは分かるけど、だからってお前が俺を追い出す理由にはならないだろ」
ゼダールは鼻で笑った。
「そうか。じゃあ、俺と勝負しろ」
ヒッキーは目を丸くした。
「勝負? なんの勝負だよ」
ゼダールは腕を組み、冷たい目でヒッキーを
「決闘だ。このサーカス団に入り浸る資格があるかどうか、俺が決めてやる」
「はあ?」
ヒッキーは
「おいおい、ゼダールが何か始めたぞ!」
「でも、あのヒッキーってやつも負けずにやり返しそうだな」
ティナが
「ゼダール、やめてよ! ヒッキーさまはそんなこと望んでいません」
しかし、ゼダールは構わず言葉を続けた。
「ティナ、黙ってろ。こいつが本当にお前に釣り合う男かどうか、俺が
ヒッキーはため息をつきながら言った。
「なんで俺がそんなことに巻き込まれなきゃいけないんだよ」
だが、ゼダールの目の鋭さを見た瞬間、ヒッキーは引くに引けない状況だと
「……分かったよ。その勝負、受けてやる」
周囲からは歓声が上がり、団員たちは二人を取り囲むように輪を作った。
ティナは不安そうな顔でヒッキーを見つめた。
「ヒッキーさま……気をつけてください」
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