第51話 狂気

「恐怖も憎悪も悲しみも、何もかも綺麗に流してくれればいいのに……実際はその逆だった」

 透は六本木の街を歩きながら呟く。

 かつては煌びやかなネオンが街を染めていたこの場所も、今はすっかり様変わりしている。

 警察のサイレンの音も聞こえない。誰もが互いを疑い、信頼という言葉は意味を失った。

 足元に転がる、空の銃器ケース。壁には乾いた血の跡。

 だが、透の目には何一つ映っていないかのようだった。

「全てがより一層膨れ上がった……」

 透はぽつりと呟いた。

 恐怖は恐怖を呼び、憎悪は別の憎悪を生み、悲しみは伝播していく。

 人は理性でそれを抑えると信じていた――過去の自分は。

 だが今、その幻想がどれほど脆いものだったかを、この目で確かに見た。

 皮肉にも、自らの手で仕掛けた”実験”によって。

「人は壊れる。簡単に……ほんの少し“道具”があれば」

 視線の先、割れたショーウィンドウに映る自分の姿があった。

 清潔感あるスーツ、整えられた金髪、何の変哲もない端正な顔立ち。

 けれどその瞳だけが、空虚だった。

 ふと、ポケットの中の携帯端末が震える

 透はそれを無言で見つめたまま、ボタンを押すことなく、画面を閉じる。

「……この街のどこかに、まだ残ってるのかな。善意とか、希望とか」

 それは自分に問いかけているようでもあり、誰かへの呟きでもあった。

 雨が降り始めた。

 街の残響も、血の臭いも、全てを薄めるような静かな雨だった。


 透が“静けさ”を好むようになったのは、まだ幼い頃だった。

 彼には父親がいなかった。

 母親はいたはずだが、顔も名前も、記憶の中には霞がかかったように曖昧だった。

 唯一残っていたのは、自分が「透」と呼ばれていたこと。

 けれど、その名前が誰に与えられたものかすら、透には分からなかった。

「君は全然喋ろうとしないんだね?」

 透は顔を上げることなく、ただ黙っていた。

 話しかけてきたのは、近所の老人だった。

「まぁいい、話したくないこともあるだろう」

 そう言うと、老人はゆっくりと透の隣に腰を下ろす。舗道のコンクリートは冷たく、背中には小さな風が吹き抜けていた。

「だからせめて、誰かと“居る”ことが大事なんだと、私は思ってる」

「……なんだね。坊や?」

 透はポケットから飴を取り出して、老人に差し出した。

 老人はゆっくりと地面に崩れ落ちた。まるで糸が切れた人形のように、抵抗もなく。

 透の表情は変わらない。ただ、どこか遠くを見るように、静かに呟いた。

「……僕はもっといいことを思いついたから。もういいんだ」

  舗道には、転がった飴玉がひとつ。包み紙が風に舞い上がり、夜の空へと消えていった。

 それはまるで、透の過去がひとつ、確かに終わったことを告げるかのようだった。


 銃声が途切れたのは、ほんの一瞬だった。

 律は壁に背中を預け、息を整えながら周囲を見渡す。

「……また銃声、きりがないわね」

 律が苦々しげに呟く。声をひそめていても、その疲労と焦燥は隠しきれない。

 街はまるで、暴力という名の病に侵されたかのようだった。

 悲鳴や怒号が遠くで混じり合い、それをかき消すように、また銃声が空を裂く。

「ジェイムスどうするの?一般人も銃を持ってるわよ」

「律とマリアはここに居てくれ、すぐ戻る」

 マリアが問いかけた。

「……私たちはまだ、その辺の区別はつく。律、マリア。お前たちの銃を貸してくれ」

マリアは一瞬だけ眉をひそめたが、すぐに自分の腰に差していた拳銃を抜き、ジェイムスに手渡した。

 律も無言のまま、慎重に銃を渡す。

「ありがとう。……無駄にはしない」

 ジェイムスは二丁の拳銃を確かめるように手の中で回し、まるで古い友人にでも触れるような眼差しを向けた。

「ジェイムス、無茶はしないで」

 マリアが低く、だが確かな声で言った。

「しないさ。……これは計画だ。無茶じゃない」

 そう言い残して、ジェイムスは足早に角を曲がり、闇の中へと姿を消した。

 残された律とマリアは、再び背中合わせに身を寄せる。


 街はまだ、終わりの見えない夜に沈んでいた。

 ジェイムスは、銃を手に路地裏を駆ける。

 空気が重い。どこか、硝煙と血の匂いが混ざっている。

 足音をできる限り殺し、彼はゆっくりと角を覗いた。

「……出てこい」

「……う、撃たないでくれ。俺はこの街の人間だ」

「指揮している人間はどこだ?」

「え?」

 出て来た男は肩を撃たれて地面に転がった。


「透はどこにいると聞いているんだ」

「……ろ、六本木。六本木の中心にある二階堂ビルに居る」

 ジェイムスの目が細くなる。

「に、二階堂ビル……」

 彼は繰り返すようにその名前を呟くと、男の肩に手を当てて圧迫止血を始めた。

「……動くな。そのまま朝までじっとしていろ。無事でいたければな」

 男はうなずくしかできなかった。

 ジェイムスは男から視線を外し、再び夜の路地を見つめた。風が冷たい。

 だが、それ以上に胸の奥が冷えていた。

 透――。

 あの少年が仕掛けた“実験”が、ここまで街を壊すとは思わなかった。

 いや、予感はあった。だが希望もあった。止められるのではないかと。

甘かった。

 ジェイムスは深く息を吸い込み、確かに感じる硝煙と血の匂いを肺に満たした。

これが現実だ。夢想で癒えるものではない。

「……必ず終わらせてやる」

 そう呟いてから、彼は再び走り出す。目指すは六本木の中心、二階堂ビル。


 夜の闇が濃くなるほどに、そこだけが異様なほど明るい――まるで何かを誇示するかのように。

 人工の光が灯るそのビルは、まるで狂気の灯台のようだった。

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