第42話 日下部との会話

 夜の帳がゆっくりと街を包み始めるころ、三人は裏東京のD3地区の南地区へと来た。

「この辺りよ。彼女がいるとしたら……たぶん、あの建物の中」

 律が指さしたのは、窓が割れ、外壁に弾痕の残るコンクリートの建物だった。そこだけが妙に静かで、まるで音が吸い込まれていくようだった。

「警備は……見当たらないな。だが油断は禁物だ」

「中に入るわよ。あくまで“話し合い”に来たんだから」

 マリアはそう言いながらも、手を腰の銃に添えたままだ。

 律が先頭に立ってドアを押すと、錆びついた蝶番がギィ、と不快な音を立てる。


 その瞬間——

「……誰だ?」

 中から低い声が響く。暁律は冷静な声で答えた。

「日下部に会いたいの」

 しばらく沈黙が続いた後、扉の向こうから重い音がして、扉がわずかに開いた。中にいるのは短髪の若い男で、目つきが鋭く、腰には銃が装備されている。

「日下部に用がある?何の用だ?」

 男の視線が暁律を値踏みするように動く。

「私は彼女と話がしたいだけよ」

「……まぁいい。判断するのは日下部だ」

 男は軽く肩をすくめ、重い扉の方へ向かって歩き出した。

 やがて、男は一枚の鉄製の扉の前で立ち止まり、軽くノックをした。中からは微かな物音が聞こえるだけで、人の気配は感じられない。

「入れ。あとはお前たち次第だ」

 男は扉を開け放ち、暁律に中へ入るよう促した。

 薄暗い部屋の中には、机の上に並べられた銃器と、それを手入れしている女性の姿があった。

 彼女は黒髪をきっちりまとめ、冷たい瞳で暁律を一瞥した。


「あなたが生きてるってことは、まだ''幽霊''を殺せてないってことか」

律は、その言葉にわずかに眉をひそめながらも、動じずに答えた。

「ええ。まだ“幽霊”は生きている……というより、まだ正体すら掴めていないわ」

 日下部は鼻で小さく笑った。

「……らしいわね。あいつは簡単に死ぬタマじゃない。あんたがまだ生きてることも、そいつが生きてる証拠だ」

 律は一歩、彼女に近づく。

「だから来たの。あなたなら何か知ってると思った。黒井のこと、幽霊のこと、そして——あなた自身のことも」

 日下部の目が鋭くなった。だが、次の瞬間、まるで何かを覚悟したように、彼女は小さく息を吐いた。

「質問は一つずつにしな。……で、どこから話す?」

 律は迷わず答えた。

「——黒井のことから」


 日下部は無言で手を止め、手入れしていた銃から視線を外し、律の目をじっと見つめた。

「黒井恵……あいつの名前を、ここで聞くとは思わなかったわ」

 しばらくの沈黙のあと、彼女は机に銃を置き、椅子の背にもたれかかる。

「……黒井は、優しすぎた。ああいうやつは、この世界じゃ長くは生きられない」

「彼は私を逃がしたわ。あのとき、撃たれるのは彼だったのに」

 律の声は静かだったが、その奥には確かな感情があった。

「あいつが初めて任務で初めて躊躇したのはいつだったかな……。''佐倉有希''の女子高生の任務に行った時だ」

日下部は手元の作業を止めずに、懐かしむように目を細めた。


「……佐倉有希。あのとき黒井は、命令を一度だけ無視した。ターゲットは確かに危険な可能性があったが、まだ“発火”してなかった」

 律は静かに耳を傾けながら、日下部の言葉に含まれた重みを感じ取っていた。

「あいつはその場で判断した。“撃たない”という選択をした。結局、任務失敗で上からは詰められたが……私は、あいつの目を見て思ったよ。あの男は、もうただの兵器ではいられないってな」

「……それが、彼の転機だったのね」

「そうかもな。佐倉の件をきっかけに、黒井は変わった。そして……お前を逃がしたあの日、完全に“人間”として動いた」

 沈黙が部屋に落ちる。机の上の銃器だけが、過去の名残のように鈍く光っていた。

「律。あいつの“変化”は、無駄だったか?」

 その問いに、律はしっかりと顔を上げ、迷いのない声で答えた。

「いいえ。あれがあったから、私は今もここに立ってる。あのときの彼の選択が、私の“今”を作ったの」

 日下部は微かに頷き、そしてぽつりと呟いた。

「……ならいい。あいつも、少しは報われるだろうさ。他に聞きたいことはあるか?」

「……じゃあ、次は」

 律は少し間を置いてから、慎重に言葉を続けた。


「''幽霊''のこと」

日下部は少しだけ表情を変え、静かに律を見つめた。その言葉に含まれた重さを感じ取ったのだろう。彼女は手にしていた銃の部品を無意識にいじりながら、ゆっくりと答えた。


「……’‘幽霊’’のことか。」

 律は頷きながら、言葉を続けた。

「その存在は、私たちにとっても解決しなければならない最も重要な問題の一つよね。あれが何なのか、どこから来たのか」

日下部はしばらく黙っていたが、やがて重い声で答える。

「二階堂透がどこから来たのか……彼だって親がいることは確かだろう」

 日下部の言葉に、律は思わず息を飲んだ。

 予想外の方向からの答えに、少し驚きながらも彼女はその先を促すように問いかけた。

「親がいる?でも、二階堂透に関する情報はほとんど出ていないはず。彼の過去を知っている人間がいないのに、どうしてそんなことを?」

「当たり前だ。二階堂透だって人間なんだ、土から生まれるわけはないだろう」

 言われてみればそうだ。二階堂透だって同じ人間なのだ。

「……じゃあ、なんで私たちは二階堂透を見つけられないの?」

 日下部は少し黙り込んでから、ゆっくりと答えた。

「それは、二階堂透が完全に姿を消したからだ」

 彼はため息をつき、しばらく目を閉じて考え込んでいた。

「彼が二階堂グループを率いていた頃、彼の存在は常に影に包まれていた。裏社会の人間であれ、合法的なビジネスであれ、彼は常にその両方の顔を持っていた。だが、今はもうその姿はほとんど消えている」

 律は眉をひそめた。

「消えるって、どういう意味?」

「つまり、彼が黒井を殺してから、周囲の誰もが彼の足跡を消すために動いた。二階堂グループは表向きには正常に見せかけて、実際には透の影響を完全に消すための手段を講じている」

 日下部はゆっくりと視線を上げ、律の目を見つめた。

「透が姿を消すことによって、彼の存在は裏側でだけ語られることになり、表に出てくることはほとんどなくなった。だから、見つけられない」

 律はしばらく黙ってその言葉を噛み締めた。

 二階堂透が姿を消し、周囲の者たちがそれを徹底的に隠している。彼がどうしてそんなことをしたのか、そしてその目的は何なのか、それを突き止めるには、一筋縄ではいかない。

「最後にもう一つだけ、聞かせてちょうだい」

 日下部は少しだけ振り向き、律を見つめる。

 その目には冷徹さが宿っていたが、どこか哀しげなものも感じられた。

「何だ?」

 律は深呼吸を一つしてから、静かに問いかけた。


「……あなた自身のことよ」

日下部はしばらく黙ったまま律を見つめていた。その瞳に一瞬、複雑な感情が浮かんだが、すぐにそれを隠すように視線を逸らした。


「私自身のことか…」

 彼女は軽く肩をすくめ、どこか冷徹な笑みを浮かべた。

「私はただ、必要なことをしているだけだ。お前が思っているほど、私に計画や目的なんてものはない。」

 律はその言葉をじっと聞き、しばらく黙って考えた。

「でも、あなたが関わっている限り、何かしらの意図があるんじゃないかと思う。それを知りたかったの。」

 日下部は静かに笑った。

「私がどんな意図を持っていようと、今は関係ない。お前が私に何を求めているのか、それを考える方が重要だ。」


 その言葉には何かしらの含みがあった。律はその意味を理解することはできなかったが、日下部が言いたいことを察するには、もう少し時間が必要だと思った。

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