第32話 検死

 沈黙の中、律がリモコンを手に取った。

 そして、恐る恐る再生ボタンを押す。

 だが、画面は暗いまま。何の映像も音も流れない。

「……壊れた?」

 律がぼそりと呟く。

 マリアは眉をひそめ、しばらく考え込んだ後、ゆっくりとテレビの電源を切り、もう一度つけ直した。

 だが、何も変わらない。ただの黒い画面がそこにあるだけだった。

「これ以上はなにも映らないみたいね。もう出ましょう」

 マリアは静かに言った。

 彼女の言う通り、これ以上何も映らないのなら、ここにいても意味はない。

 律はため息をつき、ゆっくりとテレビから視線を外した。

「……そうね、行きましょう。欲しい情報は手に入ったわ」

 二人は静かに部屋を後にした。

「廊下に出ると、先ほどまでの薄暗い部屋の雰囲気が嘘のように感じられた。

 律は無意識に肩の力を抜き、深く息をつく。

「……なんか、妙に疲れたわ」

「部屋にあった尾張の死体の事とか、黒井の映像についてどう思う?」

 マリアの問いに、律は少し考え込んだ。


「尾張の死体……あれ、本当に本人なのかしら」

「どういうこと?」

「尾張の死体は痩せ細っていて、本人かどうかわからない状態だったわ」

「そうね……ここが尾張の部屋だからといって、ここにいるのが尾張とは限らないわね」

 マリアの言葉に、律は黙り込む。

 確かに、あの死体が尾張本人だと決めつけるのは早計かもしれない。

「ねぇ、マリア。検死ってした事ある?」

 律の問いに、マリアは少し眉をひそめた。

「……正式なものはないけれど、それなりに知識はあるわ。なんで?」

「もし、あの死体が本当に尾張なのか確かめる方法ってあるの?」

 マリアは少し考え込むと、静かに頷いた。

「簡易的なものならできるわ」

「やる価値はあるわね」

 律はにそう言った。

「あまり気は進まないけどね」

 マリアはため息をつくが、すぐに真剣な表情に戻る。

 二人は再び、薄暗い部屋へと足を踏み入れた。


 律は死体のそばにしゃがみ込み、改めてその様子を観察した。

 痩せ細った体、骨ばった指先、顔はやせ衰え、ほとんど判別がつかない状態だった。

「……律。床に死体を寝かせてくれない?」

 マリアの低い声が、静まり返った部屋に響く。

 律は一瞬ためらったが、すぐに頷き、慎重に死体を横たえた

「律。男性の体に触るのは初めてかしら?」

 マリアが静かに問いかける。

 律は一瞬言葉に詰まり、視線を彷徨わせた。死体の冷たさと軽さが手に残っている。

 マリアは慎重に死体の顔へ手を伸ばした。

「……よく触れるわね」

 痩せ細り、頬はこけ、皮膚は青白く乾燥している。

 目元は落ちくぼみ、唇はひび割れていた。

「……面影がほとんどないわね」

 律が呟く。

 尾張本人かどうかを判断するには、あまりにも特徴が失われすぎている。

「眼球も耳もないわね。あるのは歯と舌くらいかしら」

「どうしてこんな事を……?」

 律が不快そうに眉をひそめる。

「……これは、単なる殺害じゃないわね」

 マリアは淡々と検死を続けながら言う。


「じゃあ、何なの?」

「……そうね。これが二階堂の''遊び道具''だったんじゃないの?」

 マリアの言葉に、律は背筋が冷たくなるのを感じた。

「……''遊び道具''どういう意味?」

「''玩具''ってことよ」

 マリアは淡々と言い放った。

「二階堂は人間を弄ぶのが好きだった。苦痛を与えて、その反応を観察するのを楽しんでいたのよ」

 律の背筋に冷たいものが走る。

「そんな……まさか」

「この死体の状態を見ればわかるでしょう?」

 マリアは死体を指さした。

 眼球と耳が失われ、痩せ細り、皮膚には無数の傷跡。まるで”限界まで試された”かのような姿だった。

「つまり……これは”殺害”じゃなくて”実験”ってこと?」

「ええ。二階堂は”人間の耐久度”を測るのが好きだったみたいだから」

 律は思わず息をのんだ。

「……信じられない」

「でも、これが現実よ」

 マリアは淡々とした表情で死体の観察を続けた。

 律は唇を噛みしめながら、再び死体を見つめた。

「……つまり、二階堂はこの人を生かしたまま弄んで、限界が来たから捨てたってこと?」

「そういうことね。殺すつもりじゃなくても、いずれ壊れることは分かっていたでしょうけど」

 マリアの声には一片の感情もなかった。まるでこの結論が当然であるかのように。

 律は吐き気を覚えた。冷たい部屋の空気が余計に胸を締めつける。

「こんなの、ただの拷問じゃない……」

「拷問と実験の違いなんて、やる側の意識の問題よ。二階堂にとっては遊びだった。それだけのこと」

 律は拳を握りしめた。


「……許せない」

「感情的にならないで。今、私たちがすべきことは感情を爆発させることじゃないわ」

マリアは冷静に言った。

「じゃあ、どうするの?」

「まずは、この死体が本当に尾張なのかを確認する。歯が残っているなら、過去の記録と照合できるかもしれないわ」

 律は黙って頷いた。

「じゃあ、歯を一本抜くわよ」

 マリアは淡々と言いながら、尾張らしき者の歯を一本抜く。

 死体が腐敗していたのですぐ抜く事が出来た。

「これで、身元の確認ができるかもしれないわね」

 マリアは抜き取った歯を慎重に袋へ収めながら言った。

 律は死体の顔をじっと見つめる。

 腐敗が進んでいるせいで、やはり本人かどうかの判断は難しい。

「……でも、本当に尾張なのかしら」

「それを確かめるための作業でしょう?」

「……そうね。ここでもうすることはないわね」

 律はゆっくりと立ち上がり、死体をもう一度見下ろした。

 尾張本人かどうかはまだ分からないが、ここでの調査は十分だろう。

「じゃあ、行きましょう」


 廊下の静けさが、部屋の中での不穏な空気を少し和らげた。

 二人は無言で歩きながら、今までの出来事を頭の中で整理していた。

「じゃあ帰ってジェイムスに聞いてみましょう」

 マリアが静かに口を開いた。

「うん、私もそれがいいと思う」

 律は歩きながら頷き思考を巡らせる。


 あの死体が尾張である確証が得られなかったこと、それに加えてあの死体が受けた傷の数々。それが示唆するものは一体何なのか。

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