第8話 日下部の訓練所

 暁律は冷たい夜風を受けながら、D3地区の南へと足を進めた。道中、街の空気はさらに荒々しく、無法地帯のような雰囲気を漂わせていた。

「ここが……地図に書かれていた場所ね」

 暁律は目の前にそびえる古びた建物を見上げた。外壁はひび割れ、窓は板で塞がれているが、中からはかすかな明かりが漏れていた。慎重に扉に近づき、ノックをする。

「……誰だ?」

 中から低い声が響く。暁律は冷静な声で答えた。

「日下部に会いたいの。ここにいるって聞いてきたわ」

 しばらく沈黙が続いた後、扉の向こうから重い音がして、扉がわずかに開いた。中にいるのは短髪の若い男で、目つきが鋭く、腰には銃が装備されている。

「日下部に用がある?何の用だ?」

 男の視線が暁律を値踏みするように動く。

「……銃を習いたい」

「我流で撃ってたのか?」

 男は片眉を上げ、少し皮肉めいた口調で続けた。

「いいえ、一度も」

「ここに来る奴で、一度も撃った事もない奴は初めてだな」

 その声には呆れと興味が入り混じっていた。

「まぁいい。判断するのは日下部だ」

 男は軽く肩をすくめ、重い扉の方へ向かって歩き出した。

 やがて、男は一枚の鉄製の扉の前で立ち止まり、軽くノックをした。中からは微かな物音が聞こえるだけで、人の気配は感じられない。

「入れ。あとはお前次第だ」

 男は扉を開け放ち、暁律に中へ入るよう促した。

 薄暗い部屋の中には、机の上に並べられた銃器と、それを手入れしている女性の姿があった。

 彼女は黒髪をきっちりまとめ、冷たい瞳で暁律を一瞥した。


「こいつが、銃を習いたいって言ってる奴だ」

 男が簡潔に説明すると、女性───日下部は手を止め、ゆっくりと顔を上げた。その視線は冷たく鋭く、暁律を見透かすようにじっと見つめている。

「銃を覚えたい?それで、何をするつもりだ」

 低く響く声が部屋の中に広がる。その問いには、真意を見極めようとする重みが込められていた。

「二階堂透を殺す」

「お前には無理だ」

 日下部は即答した。

「やってみなきゃわからない」

「あの幽霊を殺すのは不可能だな」

 日下部は腕を組み、静かに息をつきながら続けた。


「幽霊……?彼がそう呼ばれているのは、何か理由があるのね」

 暁律は冷静に問い返す。

「理由も何も、奴は自分の過去の痕跡を一切消している」

 日下部は静かに答えた。

「過去の痕跡を消す……具体的にはどういうこと?」

「奴の存在を示す記録は一切残されていない」

 日下部は冷たい声で説明を続けた。

「どうせあいつのことだ、家族も殺したんだろう」

「家族まで……」

 暁律の声がわずかに低くなる。

「そうだ。奴にとって家族は弱点だったんだろうな。だから切り捨てた。ただの道具みたいにな」

 日下部は淡々とした口調で続けるが、その言葉には二階堂透への深い憎悪が滲んでいる。

「弱点……そんなものまで消さなければならないなんて」

 暁律は目を伏せながら呟いた。その心には、家族という存在をあっさりと切り捨てた透の非情さへの疑問が浮かぶ。

「それが奴のやり方だ。自分の計画に障害となるものは、たとえ血の繋がりがあっても排除する。それがどれだけ冷酷なことかなんて、奴には関係ない」

 日下部は険しい表情を浮かべながら話を続けた。

「そんな人間に、どうやって近づけばいいの?」

 暁律は目を上げ、真剣な瞳で日下部を見つめた。

「それが分かれば苦労しない」

 日下部は冷たく言い放ちながらも、暁律をじっと見据えた。

「奴は自分を守るためのネットワークを完璧に構築している。情報も人も全て管理下に置いて、隙を見せることはない。だからこそ幽霊と呼ばれているんだ」

「でも、どんな人間にも隙はあるはずよ」

 暁律は静かに言葉を返した。

「隙か……。お前は二階堂透という人間をわかっていない」

 日下部は一瞬間を置き、低い声で続けた。

「お前は二階堂透という人間を全くわかっていない」

「どういう意味?」

 暁律の眉がわずかに動く。

「奴は隙というか……他人の心の隙間に入り込む天才だ」

「心の隙間……?」

 暁律は眉をひそめながら問い返した。

「そうだ。奴は相手の心理を読み、必要とする言葉や態度を完璧に計算して利用する。だから奴の周りには、忠誠心を持つ部下や利用されているとも知らない協力者が絶えない」

「そんなことができる人間が、本当にいるの?」

暁律の声には微かな驚きが混じっていたが、日下部は冷静に頷いた。

「いるさ。それが二階堂透だ。奴の言葉や態度は全て計算されている。人を操るための言葉を武器にしているんだ。しかも、操られている本人にはその自覚がない。奴の計算通りに動きながら、あたかも自分の意思だと思い込むんだよ」

「……恐ろしいわね」

 暁律は低く呟いた。

 恐ろしいだけじゃない。奴に近づけば、いつの間にかお前自身も利用されている可能性がある。それほどのカリスマと計算力を持っているんだ」

「それでも、近づいてみせる」

 暁律は毅然とした態度で言い切った。

「それだけの覚悟があるなら、まずはここで体を鍛え直せ」

 日下部は腕を組み、厳しい目で彼女を見据えた。


「体を鍛え直す……具体的には?」

 暁律は冷静に問い返した。

「基礎体力、格闘術、ナイフの使い方、そして銃の扱いだ。どれも中途半端じゃ通用しない。二階堂透の組織と戦うには、それら全てが必要だ」

「わかったわ。全て覚える」

 暁律は即答し、鋭い目で日下部を見つめた。

「いいだろう。それなら始めるぞ。まずは体を動かすことからだ。今のお前じゃ、私の仲間の動きにすらついていけない」

 日下部は冷徹な声で言い放ち、腕を組んで暁律を見下ろした。

「仲間たち……?」

 暁律は日下部の言葉に少しだけ眉をひそめながら問い返した。その視線が仲間たちを見渡す。彼らの鋭い目と引き締まった体からは、戦闘の経験が滲み出ていた。

「そうだ。彼らは皆、私が鍛えた。二階堂透の組織と戦うにはこれぐらいが最低限必要だ」

 日下部は軽く顎で合図を送り、一人の仲間が前に出てきた。その男は無表情ながらも鋭い動きを見せ、縄跳びを手に取り、あっという間に滑らかに跳んで見せた。

「これが基礎の基礎だ」

「これが基礎……?」

 暁律はその滑らかな動きを見つめながら小さく呟いた。

「そうだ、基礎だ。二階堂透に挑むならこれぐらい出来て当たり前だ」

 日下部は冷たい声で言い放ちながら、暁律を見据えた。

目の前の仲間は、正確で無駄のない動きで縄を跳び続けている。その動作にはブレがなく、リズムも完全に一定だった。それを淡々とこなしている姿に、暁律は圧倒されそうになったが、すぐに気を取り直した。


「本当にこれだけで、あの二階堂透に近づけるの?」

 暁律は冷静に問いかけたが、その声にはどこか焦りも感じられた。

「これだけ?お前はまだわかっていないな」

 日下部は冷たい視線を向けながら、きっぱりと言い切った。

「基礎体力が出来るまでは、何もやらせるつもりはない」

 暁律はその厳しい言葉を受け止めつつ、少し眉を寄せた。

「それだけ体力が必要なのね……わかったわ。鍛えるわよ」

 毅然とした口調で返す暁律に、日下部は冷ややかな微笑を浮かべた。

「いいだろう。その言葉、後悔しないことね。基礎体力がなければ、いざという時に体が動かない。それが命取りになる」

 日下部は暁律に縄跳びを手渡した。その縄はしっかりとした作りで、無駄のない道具だと一目でわかる。

「まずはこれだ。一日中跳び続けられるくらいの体力を身につける。これができなければ、先には進めない」

「一日中……?」

 暁律はわずかに驚きの表情を見せたが、すぐに気を取り直し、縄を握り直した。

「そうだ。それが最低ラインだ。戦場で息切れして動けなくなった奴に生き残る道はない。さぁ、始めろ」

 日下部の冷たい声が響く中、暁律は深く息を吸い込み、縄跳びを回し始めた。


 厳しい訓練の日々が、いよいよ始まろうとしていた。

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