第9話 複雑怪奇な人間関係

 その日、私は王妃様のお話の相手をして、御主人様のレイモン殿下のお勉強に付き合わなかった。


「反省するまでレイモン一人にしておいたほうがよろしい」


 そうおっしゃって、夕食まで私を引き止めていらした王妃様だが、それが吉と出るか凶と出るか、私にはわからない。

 ただ「母」の思いにかけてみることにした。


 夜はうつらうつらしただけで、午前のお茶のあと、私は急いで御主人様の部屋を訪ねた。

 腕には一応今日勉強してもらう予定の教科書を抱えている。


 軽く咳払いしてから、三階にある御主人様のお部屋の扉をノックした。


「おはようございます、御主人様」

「……」


 御主人様は黙って窓から外をながめている。どうもかなり不機嫌そうだ。


 そりゃそうでしょ。


 私がお風呂のぞき未遂の件を王妃様にお伝えしたために嫌と言うほど叱られ、大好きなマルク男爵と遊ぶことも禁止された。


 私が王妃様に伝えるのを、御主人様はスカートの中ですっかり聞いてしまった。


 告げ口した本人と会うのが楽しいはずはない。


「昨日は失礼いたしました」

「……」


 返事が無い。

 やっぱり、直接聞かせるべきではなかったかもしれない。


 王妃様、どうしましょう。


 沈黙に耐えきれず、今日の勉強は中止して御前を下がろうかと思い始めた時だ。


「……アデリーヌは、僕が嫌いになってしまったの?」


 ポツンと御主人様は意外な言葉をもらした。


 まあっ!


「いいえ! いいえ。アデリーヌは御主人様のことが大好きでございます」

「なら、なんで今まで許してくれた僕の悪戯を、今度は母上に言いつけたの?」


 母君たる王妃様にそっくりな、澄んだ青い瞳。

 

「ええと……」


 ここは慎重にならなければならない。


「これまでの御主人様の悪戯は、そこまで他人を傷つけるものではありませんでした」


 御主人様の顔がパッと輝く。


「けれども、のぞきは、女性たちの尊厳をおとしめ、深く傷つけるものです」

「……そんなにか?」

「はい、そうです。特にここのところ、のぞき魔が出るとみんな神経質になっておりましたので」

「そんなに嫌なのか?」

「嫌、でございます」


 私は膝立ちになり、御主人様の目の高さに自分を合わせて、ハッキリとさとした。


「女性たるもの、好いた殿方以外の男性にあられもない姿を見られるのは、とても嫌なことでございます。殿方にはその思いを尊重していただきたいのです」

「マルク男爵は、そうは言っていなかった……」

「では、なんと?」


 御主人様は目を伏せ、もじもじと金ボタンをいじりながら、


「男が女性の裸を見たいのは当たり前だと……」


 あの居候いそうろう男爵、まだ子どもの御主人様になんてことを!


「現に、マルク男爵に声をかけられた侍女たちは喜んでいるではないか」


 私は心のなかでスカしたマルク男爵の顔に大きなバッテンをつけた。

 爵位にも御主人様にもふさわしくない人物。


「御主人様、マルク男爵と御主人様とでは、お立場が違います。御主人様はいずれ一国の王となられるお立場、行動はくれぐれも慎重になさってください」


 いずれ、身分の釣り合った令嬢か王女と結ばれるはずの王子である御主人様。

 親である侯爵のスネをかじってふらふらしている三男坊のマルク男爵とは月とスッポンほど違う。


「自由な立場のマルク男爵がうらやましいな」

「それは……」

「僕はマルク男爵みたいにはなれないんだな」


 七歳にして知る王者の孤独か……。

 私は少し同情する。


「御主人様、御主人様はまだ子どもでいらっしゃいます。まだまだ、宮殿を駆け回って悪戯をなさっても大丈夫です」


 思わず言ってしまった。


「そうか……」


 御主人様は、ニイッと笑う。


 やばい!


 つかつかと私の側に寄ったと思うと、バサァッと、メイド服のスカートがめくられた。


「きゃあっ!」


 突然のことに、思わず声が出た。


 他に見ている人はいないし、下にはドロワーズをはいているから、実質無害だけれど……。


「御主人様、さっき申し上げたばかりなのに、何をなさいます!」


 私は……思わず御主人様を打つ真似をした。

 これだけ言って分からない暗愚なら、体罰も仕方ない……クビ覚悟ですけれど。


 御主人様は避けもせず、私の右手が繰り出す平手打ちを頬に受けた。


「あっ!」


 かすかな手ごたえ。


 ごく軽いものだったけれど、御主人様に手を上げるとは、なんたる失態。

 家庭教師失格。


「……申し訳ございませんっ」


 平謝りする私を前に、御主人様は私の右手が触れた頬を押さえながら、


「アデリーヌが僕を好きになれば、許してもらえるのかな」


 は? なにを言ってらっしゃるんでしょう?


 頭の中は大混乱です。


「申し訳ございませんが、私めは御主人様を恋愛対象とは考えておりません」


 ちょっと言葉が厳しかったのか、御主人様はがっかりした顔をする。

 あれ?

 そんなにがっかりすること?


「でも、御主人様としては大好きでございます」

「その好きとこの好きは、違うのか?」


 難しいことを。


「……違う……と思います」


 いや、私だって恋愛経験は無いし、適切な返事になっているか怪しいものだ。


「そうか。アデリーヌには違うことなんだな」


 その寂しそうなお顔はどうなさったのでしょう?


「今日の勉強はなんだ?」

「時間割表をお渡ししているはずです」

「これか……計算問題とある」

「はい、その通りです。計算は国の豊かさや軍事力を測る統計学の基礎となります」

「ふうん。で、今日は?」


 あれ?

 調子が狂う。


 御主人様があれこれ理由をつけて勉強をサボらないと、いつもの調子が出ないわ。


 王妃様のお言葉がよほどこたえたのかしら?


「では、二桁どうしの掛け算の問題です」

「掛け算は得意だ!」


 すんなりと勉強机に向かい、教科書を広げる。

 おやまあ、これでは御主人様は悪い子を返上ですわ!!


 


 スカートめくりはあったものの、御主人様はビックリするほどおとなしく授業を受け、満足した私は、教科書を抱えてお部屋から退出した。


 王妃様のおっしゃる通りでしたわ。

 御主人様は心を入れ替えられたようです。


 軽く鼻歌を歌いながら自分の部屋の前まで来た時、私は笑いを含んだ声に呼び止められた。


「アデリーヌ、僕を遠ざけて満足かい?」

「マルク男爵! メイドたちの住む区画までわざわざいらっしゃって、なんの御用でしょう?」


 昨日の報復かと、私は身構える。

 

「御主人様にマルク様と遊ばないようにとおっしゃったのは、王妃様のご判断です」

「そんなことは、どうでも良いんだ」


 あら?


「君の御主人様と遊ばなければ、僕には一人の時間が増える」

「……そうですね」


 マルク男爵は右腕を伸ばし、私の左肩スレスレの壁を、ドンッと叩いた。


 ひいっ!


「その時間を、君と過ごしたい」


 え、え、え、待って、男爵、なにを言ってらっしゃるの!


 バラバラッと教科書が床に散らばる。


「君にはメイド服は似合わない。教育に一生懸命なのは良いけれど、そうだな、優しい黄緑色のドレスなんてどうだろう? 君の髪と瞳にピッタリだ」


 優しい声……私、もしかして男爵のことを誤解していた?


「……わ、私は御主人様の家庭教師として、王妃様からお給金をいただいている身です。第一にそれを考えませんと……」

「一生懸命なのがかわいいよ。アデリーヌ嬢」


 ぽうっ……。


「君が宙を飛んで僕たちの前に着地した初対面の時から、僕の心は君のことでいっぱいなんだ」


 これは、告白?


「……答えは急がない。僕が伯爵家の婿むこにふさわしいかどうか、ゆっくり考えてくれたまえ」


 それだけ言うと、マルク男爵は悠然と去って行った。


 心臓はドキドキ止まらない。

 御主人様にふさわしくないと断罪したはずのあのマルク男爵が、私に告白?


 御主人様は良い子になるし、人間関係って難しい。

 神様、十七歳の乙女に、こんなのあんまりです。

 

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