第6話

 ふたりの間をサッと風が通り抜ける。すかさずパッシーが流れるような仕草で、百合香の肩にブランケットをかけた。

「ありがとうございます」小さく頭を下げた百合香。

 海のほうをみつめるきりで、口を開かないパッシー。妙な静けさに百合香は耐え切れず、陽気なトーンで口を開いた。

「……やぎ座ですってよ、キッカさん」

「そうか。でも、君は間違いなく牡羊座だろう」

「誰から聞いたんですか」図星を当てられ、たじろぐ百合香。

「フフン。まっすぐで、物怖じしない、思い込みも強いけど、誰にでも優しい。ボクが好きになるタイプは牡羊座が多いのさ」

「ウフフ、吟遊詩人はそうやって女の子を口説くんですか」

「そう聞こえたなら、それが答えだ」

 海に向けられていたパッシーの視線が百合香に落ちる。

「吟遊詩人の前って、どんなことしてたんですか」

「どんなって、ボクには謡うこと、詩をよむことくらいしかできないから」

「ずっと、吟遊する詩人だったわけ?」

「そうだよ。打ち明けたとおり、転生するたびに吟遊詩人として生きてきた」

「顔がマジになってますよ。もう大丈夫ですってば、ここはわたしたちしかいないんだからコンセプトつらぬかなくても」

 百合香は酔ったいきおいなのか、気安くパッシーの肩を叩いた。

「……ボクはこの海の向こうから来たんだ」

 パッシーのやわらかな声音は変わらなくとも、なにやら告白めいた調子に、百合香は口をつぐんだ。

「何度目の転生か覚えていないけど、目覚めたのは誰もいない島だった。歌う相手がいなかったので、ボクは小舟を作って海へ出ることにした。その途中、トビウオやウミガメに歌うことで気を紛らわせていたんだけど、しばらくして小さな漁船に出会った」

 なにか思い出したのか、パッシーの口元がかすかにゆるんだ。 

「もちろん、歌う相手に恵まれたボクは喜んで同乗させてもらった。そのまま漁師になろうかと思うほど、漁船の暮らしは楽しかったよ。ところが、港へ帰ろうって頃になって海が荒れてきた。ひどい嵐でね。波に揺れる船から落ちないようにするのが精一杯で、ボクは次の生まれかわり、つまり死を覚悟した」

 いつになく真摯な眼差しに、百合香は相槌すら打てない。

「ところが、漁船の船長が勇敢なことこの上なかった。戸惑うことなく嵐の真っ只中に進んでいったんだ。右に左に舵をきって、誰ひとり船から落ちることもなく港へ帰り着くことができた。あの海の彼方から、富津の港が見えた時の喜びといったらなかったよ」

「じゃあ、船長さんは命の恩人ってわけですね」

「ああ、陸にあがった時には抱き合って喜んだ。あんな素晴らしい女性には初めて出会ったよ」

「え、船長は女性だったの?」

「そう、君のおばあちゃん、ホノカさんだ」

 きょとんとしていた百合香がいきなり吹きだした。

「まったくもう、信じかけちゃいましたよ」拳を握って、軽くパッシーの腕を叩く。「やぎ座といい、ホノカちゃんといい、適当すぎてウケるわ」

「適当だなんて、人聞きが悪いな」

「あのですね、ミスター吟遊詩人、よく聞いてくださいね。わたしのおばあちゃんは、ホノカでなく、サトって名前ですから」

「いや、ボクがホノカの顔を見間違えるわけがない。君は……君はホノカの生まれ変わりなんだ。ならば、あの時に叶えられなかったことを……」

 ぎゅっと目をつぶるパッシー。肩は小刻みに震えている。百合香にも思いは伝わってくる気がしたものの、どう対処していいか戸惑いだけで言葉が出てこない。

「……パッシーさん、もうちょっと飲みましょうか」

 うなだれているパッシーの顔を覗き込む百合香。なにかを言おうと、パッシーの口元が動いた。

「大丈夫、パッシーさん。きっとパッシーさんなら叶えられますよ」

 思いついた言葉はこれだけだ。が、その時にパッシーが見せた安堵の表情ほど百合香の心を揺らしたものはなかった。


 だが、そこから先の記憶はおぼろげにしか残っていない。

 百合香は打ち上げの輪に加わってキッカと飲み、またすすめ上手なスタッフとも酌み交わし、それこそ空が白むまで浜辺にいたかもしれない。予約してあった近くのホテルに、どうやって帰ったか思い出せないのも無理はなかった。

「やっちゃった」

 ホテルのベッドで目を覚ますと痛むこめかみをおさえていた。気づけば、ゆうべの服を着たままだ。むろん、メイクも落としていない。奇妙なうめき声をあげながらバスルームにむかうと、潮風でべとついた髪にへきえきしながらブラシをあてる。

-それにしても、地酒ってヤバいわね。サクサク飲めちゃうの、危険すぎる。

 自らに言い訳しながら、記憶を取り戻そうとする。

-キッカちゃんと飲んだまではよかったけど、スタッフさんと乾杯しつづけたのがマズかったかな。

 ぐずぐずしながらシャワーを浴び、髪を乾かすころになって思い出した。

-そうだ、前世の恋人ばあちゃんとも話したっけ。

 パッシーが親し気に話していた老婆のことだ。が、なにを話していたのか皆目見当もつかない。

「それより、どうやって帰ったんだろ……」ぽつりとつぶやく。

 ふとテーブルの上を見て、百合香は目を丸くした。

 そこにあったのは、ホテルのグラスにさされた一輪の花、うす紫の野菊だった。


「富津はどうだった? お祭りはにぎやかだったろ」

 帰宅した晩、食卓につくと百合香の父親、和也が新聞越しに聞いてきた。

「盛り上がってたよ。もう、わたしが知ってる岬まつりとは世界が違うかも」

「だろうな」薄いリアクションをしながら、新聞の脇からアジの干物に箸をのばす。百合香が駅前で買ったみやげものが早速並べられたのだ。

「ねえ、パパ、おばあちゃんてどんな人だったの?」

「どんなって、おまえも知ってるとおりのばあちゃんだろう」

「わたしが知ってるばあちゃんじゃなくて、ずっと前のこと。パパなら知ってるでしょ」

「墓参りをさぼりすぎて、あの世から叱られたりしたか」面白がる目が百合香に向いた。

「そんなわけないし。若いころのおばあちゃんて、どんな人だったか知りたくなったの!」

「そういう気の強そうな言い方、ばあちゃん譲りだ」和也が新聞をたたみ、百合香へ向いた。「まあ、勇気があるというか、物怖じしないというか、昔の女性にしては強さにあふれていたと思う。厳しいところは百合香も覚えてるだろうけど、優しくないと思ったことは一度もなかったよ」

「強いってさあ、もしかして漁船の船長だったから?」

「なに言ってんだ、船長なんかしてなかったよ。ウチは網元だったけど、母ちゃんが船に乗る姿なんて一度も見たことない」

「……じゃあ、サトって名前も間違いないよね」

「おまえ、富津でなに食べてきた? ばあちゃんの名前を確かめるなんて、熱でもあるんじゃないのか」

 いぶかる和也に、百合香は小さくかぶりをふってみせた。胸につかえていた「もしかして」という思いはなぜか吹っ切れない。いくら小さくなっても、その思いは消えることなく胸のうちのどこかに居残りそうだ。百合香は釈然としないまま、食事を終えた。

 そして、ベッドに入ろうとした矢先、スマホにメールが届いた。

「定期演奏会のお知らせ」のタイトルを目にすると、-もうそんな時期か、と天井を見上げる。

 絹神音大で年に一度開催される在校生たちの演奏会。思い起こせば、さまざまな出来事が頭をよぎる。友だちの少ない学園生活だったとはいえ、定期演奏会は今思えば充実した時間だった。

 モヤっとした思いにとらわれていた百合香は、思い出深い演奏会に出向くことで-気分もアガるはず。と自らに言い聞かせ眠りについた。


 しばらく経った日曜日、定期演奏会の会場についた百合香は驚いていた。

-なんなの、この派手なお花は! 

 華やかな生花スタンドがところせましと並べられ、あたかも一流アーティストのコンサート会場か高級レストランの開店祝いを見ているかのようだ。普段の定期演奏会は卒業生や関係者しか招かれない地味なものだけに、花が飾られていたことなど一度もない。

 花に添えられたプレートを見ると、一様に「絹神理事長さん江」と書き込まれている。ホールの中に入れば、理事長のいくらか若い写真が立てかけられ、花束とともに「ありがとう! お疲れさまでした」のメッセージが大きく描かれていた。

 そして、入口のアーチに「絹神理事長引退記念コンサート」と控えめな看板が掲げられたのを見て、ようやく百合香は事の次第がのみ込めた。すると、「三嶋さん、久しぶり」と親し気に肩を叩かれた。気さくな声をかけてきたのは講師の小川紀子だった。

「小川先生! お久しぶりです」

「やっぱり社会人になると、雰囲気も変わるわね」

 目を細めた小川は、百合香にとって数少ない心を開ける人物だった。五十年配のはずだが、少女のような張りとツヤがあり、エレガントにウェーブした黒髪やシックな装いも手伝って、とてもその歳には見えない。

「音の子書房に入ったと聞いたけど、お仕事はどう?」

「ええ、なんとかやってます」あいまいな笑みを向けた百合香。

「そう、よかったわね。これから大変になるかもしれないけど、しっかり頑張るのよ」

「これから、大変て? どういうことでしょう」

「だって、ほら」周囲をはばかるように小声になった。「理事長は音の子の会長も引退して、まりあさんが跡継ぎになるの。わかるでしょ、私が言いたいこと」

「すみません、ピンとこないんですけど」

 小川は講師とはいえベテランで、学内の事情にも大いに長けていた。

「こう言えばわかるかしら。理事長は音楽を心から愛しているけど、まりあさんは別のものを愛しているって」

「えーと、音楽でなく別のものってなんですか?」

「もう、じれったいわね。まりあさんはお金儲けに熱心で、芸術なんてこれっぽっちも興味がないの。そんなひとに音大なんて任せられるもんですか」

 口惜し気な小川と挨拶もそこそこに別れ、客席についた百合香。理事長の体調はもとより、音の子書房の行く末や、自らの将来に不安を抱き、せっかくの演奏もまったく耳に入らなかった。


 数日が経つと、音の子書房でも会長の交代は誰もが知る事実になっていた。

「けど、会長が代わるって言ったって、娘さんだろ。むしろ考え方とか方向性が若返ってナイトビートの予算が増えたりすんじゃね」

 小田原がスナック菓子をつまみながら言うと、古賀が机に赤ペンをぴしゃりと打ちつけた。

「わかってないね。これまで会長は収支を度外視するような経営、つまり『芸術で大儲けなど言語道断』みたいな考え方だったけど、娘さんはもっと現実的って噂よ。利益があがらない雑誌はポイポイ切り捨てられるに決まってるじゃない」

「だったら、ナイトビートは安心じゃね。ここんとこ実売部数も上がってるし」

「バカね。実売部数といったってたかだか数千部じゃ、シンフォニーやカラオケの売り上げに到底追いつかないじゃない。このままだと、よくて隔月刊とか季刊誌になるか、最悪は休刊だってありえるわよ」

「かくげつかんとか、機関車ってどういう意味ですか?」

 よくない意味に違いないだろうが、百合香は初めて聞く単語に戸惑った。

「そっか、聞いたことなかったんだな」小田原が眉をハの字にした。「隔月刊ってのはふた月に一冊、季刊は年に四冊の発売ってこと。年間の発行部数は減るかわりに、制作費はおさえられる。広告の収入が現状をキープできれば、利益は増すって理屈なんだけどね」

「とはいえ、月刊誌が隔月や季刊になると、たいてい勢いがなくなっちゃうわ。そうすると、広告をだしてくれるクライアントだって減る。季刊なんて書店にならぶ時期を読者が忘れちゃうから、販売部数だって減少傾向。雑誌が休刊になる典型的なケースってこと」

「休刊というと、お休みってことですよね。しばらく休んだら、またエナジーチャージして復活できたりしませんか」

 思わず力んでいた百合香に、古賀が諭すようにいった。

「休刊って表現は出版業界の習わしなの。復活する見込みのない廃刊ってことでも、休刊あつかいにすれば雑誌コードが手元に残る。このコードはなかなか手に入れるのは難しいし、別の雑誌を創刊するときにも流用できる。紛らわしいけど、休刊して復活した雑誌なんて滅多にないわ」

「てことは、わたしたちはクビってことですか?」

「そうはならないはずよ。どこか他の編集部に異動になるとか、書店営業に回されるとか、会社だってそこまで冷たくはないでしょう」

「それともなければ、新しい雑誌の創刊なんてのもありだよな。ギックリ腰の西川編集長のためにも〈すこやかビート〉とか〈レッツ健康〉みたいな雑誌、もちろんオレが編集長ってことでさ」

 小田原の冗談で古賀は表情をゆるめたものの、百合香は眉間にしわをよせた。

-せっかく仕事も覚えてきたっていうのに、それはないわよ。レッツ健康ですって? 冗談じゃない!

「とにかく、噂を信じてあたふたしても仕方ない。今は目の前にあるDJバトルの取材、頑張ってきてよ。寝込んでる西川さんの代打で悪いけどさ」

 小田原に肩をポンと叩かれ、百合香はしぶしぶ席を立った。


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