第9話 - 利己的な遺伝子

そよ風のささやきの下、須川は呼吸ごとに強まる胃の痙攣を感じた。酸っぱい感覚が喉まで込み上げ、両手で腹部を押さえながらよろめいた。


まるでつい先ほどの苦痛の記憶が物理的に具現化したようだった。めまいはすぐに制御不能な吐き気へと変わった。


「ぶえっ!」

ひどく湿った不快な音と共に激しく吐いた。その音は静寂の中に響き渡った。必死に咳き込みながら息を取り戻そうとし、体は震えていた。


嘔吐の反響が消えても、彼の体は震え続けた。まるで食物以上の何かを吐き出したかのように。


途方もない努力の末、ようやく体を起こし、展望台の金属製手すりによろめきながら寄りかかった。顔面は蒼白で、表情は恐怖と消耗の入り混じったものだった。


キィ...!


しかし、ドアが開くきしむ音で彼は我に返った。


二人の人影が入り口に現れた。背が高く少し不格好な少年と、探るような目をした髪をまとめた少女が、じっと彼を見つめていた。心配そうな視線の奥には、気まずさが隠せていないようだった。


「あ、やっぱり君だったのか!階段を上がっていくのを見かけたんだ」少年は、少し場違いな熱意を込めて叫んだ。


少女は眉をひそめ、批判的な口調で彼の耳に囁いた。

「そんな言い方したらストーカーみたいだよ、バカ」


「そんなこと言うなよ!」少年は憤慨して友人に向き直ったが、すぐに態度を正し、須川を真剣な表情で見た。


「なあ、今は話したくないかもしれないのは分かる。正直言って俺たちも必要じゃなければここにいないんだけど…」

少年・伊達は、須川の虚ろな表情、足元の嘔吐物、そして震える手に気づき、言葉を切った。


「助けが必要か?」

慎重に尋ねた。表情は嫌悪感に歪んでいたが、それでも彼に向かって手を差し伸べた。


須川は顔を上げたが、その目には焦点が合っていなかった。伊達の声も、圭子の心配そうな表情も、彼には届かないようだった。ついに、彼は手で顔を覆い、まるで返事をするための仮面を探しているかのようだった。


「戻ってきた…」

疑念と恐怖に満ちた声で、彼は呟いた。


少女の圭子は何か言おうと口を開けたが、須川の小さな仕草で沈黙させられた。彼は深く息を吸い、落ち着こうとした。ようやく口を開いた時、その声ははっきりしていたが、明らかな不快感に染められていた。


「これを掃除するものを取りに行く」


出口に向かって数歩歩いたが、突然の衝動に足が止まった。振り返って二人の若者を見つめ、暗い声で付け加えた。


「学院から出る方法を探した方がいい…できるだけ早く」


返事を待たず、須川は階段へと歩き、急いで降りていった。体はまだ震えていたが、廊下を巧みに進んでいった。


ついに、彼は寮の部屋に辿り着いた。


散らかった部屋を無視し、須川は真っ直ぐに伊達のベッドに向かった。しゃがみ込み、クラスメートが普段使っていた中くらいのリュックサックを引きずり出した。


「すまない…」

リュックを開ける前に一瞬ためらい、彼は呟いた。中を探る指は震えており、触れる物ごとに罪悪感が重くなっていくようだった。


「すまない…すまない…すまない」


伊達にとって不運なことに、彼はこの世界に転移した日、しっかりと装備を整えたリュックを持っていた数少ない一人だった。


罪悪感に押し潰されそうになりながら、須川は部屋を出て浴室へと向かった。


ある個室の中で、翔は胸に鞄を抱きかかえて座っていた。バッテリー節約のためオフにしていた携帯電話を取り出し、電源を入れて時刻を確認し、時間を計算した。


『まだ時間はある。みんなが中庭に集まってIDカードを受け取るまでには』


『馬なら1日...歩けばおそらく3日か』目的地までの移動手段の詳細を、頭の中で素早く整理していく。


そうして二、三の考慮を重ねた後、彼は最初の考えに戻り、ハンマーで殴りつけられるような罪悪感に襲われた。


クラスメートたちを裏切っている──そんな思いがした。だが脳裏には、破壊された荷馬車、引き裂かれた遺体、そこら中に広がる血の海が強烈に浮かぶ。首と胴体が分かれたエリサンドラの姿が...背筋に寒気が走った。


どれだけ考えても、たとえ警告したとしても、彼らにとって別の結末を想像することはできなかった。それでも罪悪感は影のように彼にまとわりつき、振り払うことができない。


顔を手のひらに埋めると、涙が溢れ出した。震えを抑えながら、翔は声を殺して嗚咽した。


時はあっという間に過ぎた。


ポケットの中で携帯電話がかすかに振動した。合図だ。須川は慎重にトイレを出て、廊下を抜けながら食堂へ向かった。到着すると、角から様子をうかがった。警備の者は誰もいない。ドアは閉まっていたが、鍵はかかっていなかった。そっとドアを開け、中に入った。


中ではまだ食べられる状態の食料を見つけた。素早い動きでリュックからビニール袋を取り出すと、好みに関わらず役に立ちそうな物を片っ端から詰め込んだ。


どんな物音も耳をつんざくように感じられ、数秒ごとにドアの方へ振り返らずにはいられなかった。誰かに見つかってしまうのではないかと恐れながら。


その場を去る前に、水筒に水を満たし、ドアは元通りに閉めたことを確認した。


廊下を進みながら、彼は整列してIDカードを受け取る皆の姿をかすかに見た。安全な距離から、圭子の順番が来るのを観察していた。何かが彼を引き留め、耳を傾けさせた。


「すみません、あなたのルームメイトについて何か知っていますか?」

エリサンドラは明らかに彼の不在に当惑しながら尋ねた。


「お腹を壊しているんだと思います。今もトイレにいるかもしれません」

圭子は真摯な口調で答えた。


須川は歯を食いしばり、その言葉が胸に突き刺さるのを感じた。どちらがより残酷かわからなかった――彼が何をしているのか知らずに自分をかばってくれることか、やがて自分が彼らを置き去りにしたと気付くことか。


彼はただ一瞬目を閉じ、息を吐いた。


さらに階段を数段降り、ついに施設の正面玄関から外へ出た。その日、幸いにも警備のいない敷地を横切りながら、新鮮な空気が彼の顔を撫でた。


すでに数時間が経過していた。真昼の太陽が森の影と溶け合い、まだそんなに遅くないのに、まるで夕暮れのように見えた。須川は不安定な足取りで進んでいた。足元で枝が軋み、森の湿った空気は、一呼吸ごとに彼をさらに息苦しくさせるようだった。


かすかな明かりは、時折時間を確認するために点ける彼の携帯電話の画面からしか得られていなかった。時間は、まるで道が進むのを拒んでいるかのように、引き延ばされているように感じられた。


須川は一瞬立ち止まり、自分の呼吸が重くなるのを感じた。震える指でリュックを探り、水のボトルを見つけた。冷たい液体が喉を流れ下った。


ゴクン、ゴクン、ゴクン……


彼は静かにボトルをしまい、一瞬空を見上げた。


『正しい方向に進んでいるのか?』

頬を撫でる涼しい風が、ささやくように肯定の答えを返してくるようだった。それでも、安堵は束の間だった。


不気味な音が静寂を破った。木々の間で反響する遠くの軋み音のようなものだった。須川は体を硬直させ、呼吸が乱れた。すると、暗闇から低く引きずるような声が響いてきた。


「ほう……逃げようとする虫けらか?」


恐怖が彼の胸に棘の結び目のように絡みつき、鼓動が耳元で鳴り響いた。


後ずさりしようとしたが、足が動かない。意志を食い尽くすような恐怖に凍りついてしまったのだ。


反応する間もなく、今度は女性的で嘲るような、歪んだ愉悦を含んだ声が立ち上がった。


「ライフェン、この可哀想なネズミをどうしてあげようかしら?


森の影が不気味に揺らめき、突如として湧き上がった灼熱の熱気に合わせて踊りだした。灰が空中を漂い、旋回しながら燃え盛る輝きを放つ人影を形作っていく。


炎の中から現れたのは、まるで周囲の空気を飲み込むような存在感を放つ人物だった。その女性的なシルエットは優美さと危険を等しく醸し出し、見つめすぎれば焼けつかれるのではないかと思わせるような、強烈な輝きを放つ瞳は、目をそらすことを許さなかった。


鮮やかなオレンジ色の髪はストレートに腰まで伸び、片方のターコイズブルーの瞳はサファイアのように煌めいている。もう片方の目は、一房の反抗的な前髪に隠れていた。


彼女はオレンジと赤のシルエットを強調したタイトなドレスをまとっており、黒い精巧な刺繍が施されていた。手には不自然に大きな扇子を持ち、その威圧的な存在感をさらに引き立てている。


須川は唾を飲み込んだ。彼女の美しさに言葉を失ったのではなく、周囲の生命力を吸い取るかのような、彼女から発せられる重苦しいオーラのためだった。


「一日中付き合ってられないわよ、ハイス」

――軽蔑をたたえた男声が再び響いた。

「灰にしてしまいなさい」


その言葉は須川翔の魂を凍りつかせた。すでに麻痺していた体がさらに硬直し、現実を受け入れられない脳が必死に抵抗していた。


「お、お願いです…!殺さないで…! 殺さないでください!」

不器用な足取りで後退りながら、何とか言葉を絞り出した。


ハイスと呼ばれる女性は、些細な珍品を鑑定するように軽く首を傾げた。嘲笑的な笑みを浮かべながら、その瞳には純粋なサディズムが輝いていた。


「血の渇望だけで狂ってしまったようね」

飄々とした声が嘲るように付け加えた。


女性の笑い声が不気味に反響した。混乱した須川は周囲を見回し、彼らが何を意味しているのか理解しようとした。


その時、気づいた。


ポタッ… ポタッ…


呼吸は乱れ、頭の中の圧力が耐え難くなり、無意識のうちに自らの爪が皮膚に食い込んでいた。


粘りつくような血の温かみを感じた時、初めて深く刻まれた傷跡に気付いた。視界がぐらつき、制御できない震えが全身を駆け抜けながら、よろめくように後退った。


「あっ…!」

息をのんだ翔は、尻餅をつくように後ろに倒れ込んだ。


ハイスはゆっくりと彼に近づいた。一歩一歩が、須川の心を叩くように響いた。彼女の瞳は須川を貫くような強度で見据え、まるで彼の意思を飲み込むようだった。


「人間の虫けらは本当に脆いわね…」

半分嘲笑い、半分興味深そうな声で続けた。

「ペットとして飼ってみたくなる…でも残念ながら、もう一匹いるのよ」


須川翔は地面を這うように不器用に後退り、恐怖に押し潰されそうだった。


「離、離れてくれ!」

声はますますかすれていった。


「ミスター・ライフェン、この人間、向こう側の者のようです。本当に…怖がってるみたい」

須川のズボンに広がる異様な液体を見て、前よりもさらに大きな笑みを浮かべながらそう言った。


「やめろ!近づくな!近づくんじゃない!」

残されたわずかな精神力を振り絞って、彼は叫んだ。


震える手で顔を覆おうとする彼の目から、涙が溢れ出た。焼けつくような熱気が空気を満たす直前、聞こえたのは女の笑い声だけだった。


「今日は運がいいわね、小さいの。ライフェンが手早く済ませたいらしい。苦しむことは…そう長くないわよ」


ハイスは鋭い歯をむき出しに口を開け、瞬く間に彼を包み込む炎の奔流を吐き出した。


百万本の針のような熱が彼を貫き、息を奪い、叫び声を引き裂かれた喘ぎへと変えた。苦悶の永劫のように引き伸ばされた一秒一秒が過ぎ、ついに暗黒が彼を迎え入れた。


「がぁああっ…!?」


痛悶に噎せ返る叫び声が森全体に響き渡った。おそらく須川翔の人生で最も長い数分間だろう。そしてついに、彼は炎の中で焼け死んだ。


世界は変わった。


須川は学院の高い場所、朝日がようやく空気を温め始めた離れの場所にいた。


風の音が優しく吹き抜け、遠くの人々のざわめきを運んでいった。ここから見る水平線はオレンジと薄紫のパレットのようで、散りばめられた雲はあてもなく漂い、まるで空が物思いに耽っているかのようだった。


膝をつき、地面に手を突いた彼は、ただ泣きじゃくっていた。体は震え、途切れ途切れの唇からは意味のない言葉が零れていた。


体は無傷なのに、痛みの残響がまだ全身の隅々に響き渡っているようだった。


彼の目の前には、システムウィンドウが浮かんでいた。


【死者の回帰者:5回の死亡を記録】


須川が死ぬのは、これが初めてではなかった。

二度目でもなかった。


止めどなく流れる涙の中、かすかに呟いた。

「どれだけ頑張っても…奴らはどこにでもいる…」


「クッ…!」


風が彼の言葉を奪い、遥か遠い水平線へと運んでいった。そこには虚無だけが、その声を聞く者として存在していた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る