第7話 - 偽善

須川は視線を落としながら、かすかに聞こえるほど小さな声で呟いた。

「お前は本当に……救いようがないな」


翔は、周囲から投げかけられる嘲笑の視線に耐える伊達の能力に感心した。しかし、彼は恥じ入るどころか、ただ数回まばたきをした後、眉をひそめた。


「俺の職業を信じてくれないのか!」

彼は芝居がかった様子で翔を指さしながら叫んだ。


予想外の勢いで翔を指差し、続けて宣言した。

「俺が有名なパン屋になったら、お前には絶対に俺の作品を味わわせてやらないぞ!」


須川はかすかに微笑み、楽しげな眼差しで仲間を観察した。だが、それはまるでサーカスの猿の芸を見ているかのようだった。


「確かに、それはとても尊い仕事ですわ、伊達」

レディ・エリサンドラが軽く頷きながら介入した。

「私はあなたを信じてますわ」


優雅にカードを差し出した。伊達がそれに触れると、鮮烈な深紅の輝きを放ち、一瞬にして場の注目を集めた。


須川は興味深そうにカードの色を観察した。人によって色合いが異なることに気づき、その意味について短い推測を巡らせた。


だが、自分自身がカードを手にするまでは、明確な答えは得られないと悟っていた。


伊達が退出しようとした時、翔はさりげなく声をかけた。

『もう少し友好的に接した方がいいかもな。さっき、こいつはちょっとだけ俺の朝を明るくしてくれた...ほんの少しだけど』


「伊達...この世界でピザを再現してくれるのを期待してるぜ」

親指を立てるジェスチャーを添えて。


「馬鹿にしてるのはわかるけど、ただ待って見てろよ」

伊達は決然とした口調で返した。


『...冗談じゃないんだが』

誤解されていることに、須川は軽い焦燥感を覚えた。


圭子の方へ歩きかけた途中で、伊達は振り向きざまに叫んだ。

「そういや、ピザの作り方全然知らねえぞ!」


須川は、一度に何個もの脳細胞を失ったような顔で彼を見た。

「別に…気にすんな」

内心では避けがたい考えが浮かんでいた。

『さっきは冗談だと思ってたんじゃないのか? なんで今になって真に受けてる? こういうからこそ、変な奴とは関わるべきじゃない…』


心底恥ずかしくなり、須川は首を振って話題を変えようとした。


いよいよ自分の番だ。一歩前に出て、須川はエリサンドラを見つめた。ほんの一瞬、顔が赤らんだかもしれなかったが、深呼吸して変に思われないよう落ち着かせた。


「お名前は?」

エリサンドラは楽しげな表情で尋ねた。おそらく、まだ伊達の騒動の影響を受けていたのだろう。


「須川翔と申します」


エリサンドラはその名を記憶すると、質問を続けた。

「では、翔。ここに来る前は、どのような職業を望んでいましたか?」


須川は数秒間考え込んでから、落ち着いたが決意に満ちた声で答えた。

「警察の刑事になりたい」


周囲にざわめきと好奇の視線が広がった。「警察」――それは命を守り、危険に立ち向かい、人々を守る、尊敬される職業だった。さらに「刑事」となれば、肉体的な面だけでなく、精神的・心理的な要素も求められる、より一層の威信を伴うものだ。


しかし、いくつかの笑い声が厳かな空気を破った。


「ファンタジー世界で刑事? 騎士になりたいって素直に言えばいいんじゃない?」

誰かが奥の方から叫び、笑いと同時に不満げな囁きも引き起こした。


『別に面白くもないのに…何がそんなに可笑しいんだ?』


須川は少し顔を赤らめたが、動じる様子はなかった。


『警察志望だと笑われるのに、冒険者志望のあいつは笑われない…結局、世界が変わっても人間は変わらないんだな』


「警察...」

エリサンドラは思索に沈んだように呟いた。

「その言葉には馴染みがありませんが、探偵という仕事の意味は理解しています。この世界には、私立探偵もいれば、王国騎士団の指揮下にある者たちもいます」


「分かりました...では、騎士団の探偵を目指すのが最も近い選択肢ということですね」


その言葉を聞いたエリサンドラの瞳は、興奮の輝きを帯びた。


「そうですか...それなら、いつかきっとお会いできるかもしれませんね」


彼女が手を差し伸べると、須川はわずかな躊躇いの後、それを受け取り握手を交わした。


「翔、どうして探偵になりたいと思ったのですか?」


少年は一瞬ためらった。自分の話をすべきかどうか迷っていたが、結局、悪いことではないし、少し自慢してもいいだろうと考えた。


「父が警察官です。私は父を尊敬して育ちました。そして、父よりもさらに優れた者になりたいと願っています」


エリサンドラは感心した様子で微笑みながら頷いた。


「素晴らしい志ですね。いつか共に働ける日を楽しみにしています」


エリサンドラはカードを差し出し、須川は素早くそれを受け取ると、もう一方の手でカードの発光を隠すように覆った。しかし、この動作はエリサンドラに見抜かれ、彼女の唇にいたずらっぽい微笑みが浮かんだ。


須川は、カードの色をはっきりと確認した——深い紫がかった赤だった。


一瞬、彼は呆然とした。


『カードの色は能力値の総合評価を反映していると思っていたのに...』D+の銅色を他人に見られるのは恥ずかしいと思い、カードを隠していたが、どうやらその前提自体が間違っていたらしい。


それでも、須川はベンチで待っていた伊達と圭子のもとへ歩み寄った。


「本気で警察志望なのか、須川?お前、パン並みに立派だな!」

伊達はそう冗談を言いながら、須川の首に腕を回した。


翔は伊達に返事をしようとしたが、群衆の中から聞こえてきた声に思案に暮れた。


「私の名前は、谷村ナ(たにむら))です」


須川はその声を即座に認識した。


「ここに来る前は、どのような職業を希望されていましたか?」


「以前は文筆業を志しておりましたが、今は…」


少女は一瞬黙り、眼鏡が光を反射させた。そして、決然と言い放った。

「魔術師になるべきだと考えます」


その時初めて、周囲の人々は谷村の存在に気づいた。


「ほう、魔術師を志望する理由は?」


「私のユニークスキルは魔術に関わるものです。活用しないのは浪費だと判断しました」


教官は理解を示し頷くと、彼女にカードを手渡した。


しかし、須川を含め周囲の人々は、谷村もまた器用に両手でカードの色を隠してからしまう動作に困惑した。


その動作を目にした少年の瞳が、わずかに収縮した。


「ほう、魔術師を志望する理由は?」


「私のユニークスキルは魔術に関わるものです。活用しないのは浪費だと判断しました」


教官は理解を示し頷くと、彼女にカードを手渡した。


しかし、須川を含め周囲の人々は、谷村もまた器用に両手でカードの色を隠してからしまう動作に困惑した。


その動作を目にした少年の瞳が、わずかに収縮した。


須川は、その少女が人混みから抜け出ていく様子を観察していた。彼女の歩みは遅く、注意力散漫な足取りで、どこにも行き着かないような虚ろな眼差しをしていた。


しかし、彼女の目と、前方にいた一人の少年の目が合った。すぐに、彼女は伊達の熱烈な抱擁に囚われたままの須川に気づいた。


背が高いわけでもなく、華奢な体つきは脆く見えた。少し手入れされていない黒髪は腰まで柔らかく垂れ、青白い顔を縁取っていた。覇気のないその目は謎めいた雰囲気を秘めており、世界との間に壁を築くかのような眼鏡の反射に隠されていた。


確かに、彼女は前日高校の教室にいたあの少女だった。この世界に来ることを承諾する前、須川翔が自分の考えに没頭していたため完全に無視していたあの子だ。


ナオは何かを言おうと口を開けたが、言葉が出る前に、甲高い声が静寂を破った。


「ああ、やっとまともな奴を見つけた!こいつら全員が夢想家ばかりかと心配してたぜ」

嵐太研が威圧的な足取りで現れ、高慢ちきな表情を浮かべていた。


『こいつまだいたのか?』

須川は思わず眉をひそめたが、その表情は研に見逃されなかった。彼は面白がって、嘲るような笑いを漏らした。


研の顔がこわばった。反論しようと口を開けたが、まだ笑みを浮かべたままの須川に機会を与えなかった。


「お前の夢は長く続かねえよ、例え面白いスキル持ってたとしてもな。この世界はそんな遊びに付き合ってくれるほど甘くねえ。恥をかく前に目を覚ませよ。そう思わねえか?」


研は歯を食いしばり、作り笑いが徐々に消えていった。拳が微かに震えている。一瞬、須川を殴りかかるんじゃないかと思わせるほどだった。


『こ、こいつ…殴る気か?』

須川はそれに気づいたが、緊張を押し殺し、姿勢を崩さなかった。


「マジかよ」

須川は片眉を上げながら言った。

「この世界に来てからまだ半日も経ってないのに、話す代わりに戦おうってか? 随分早く変わったもんだな」


一瞬、研は爆発しそうな様子だったが、突然高笑いを始めた。嘲笑と挑戦が混ざったような響きだった。


「ハハハ……調子乗ってんじゃねえよ、須川」


翔は一ミリも引かずに視線を維持した。一方の研は、偽りの興味を装って首を傾げた。


「お前を眺めてて思うんだがな……井の中の蛙ってやつだ。空の広さも理解できねえくせに、この世界が元の世界と同じルールで動いてると思い込んでやがる。その考え、隠せてるつもりか? 地球にすら適応できなかったお前みたいな奴が、ここでやっていけるわけねえだろ」


その言葉は効いた。少年は軽く震える拳を握りしめ、顔を赤らめたが、反論することを拒んだ。この様子は研に見逃されるはずもなく、彼は翔自身の言葉を逆手に取る好機と捉えた。


「この世界に来てからまだ半日も経ってないのに、話す代わりに戦おうってか? 随分早く変わったもんだな、須——川——」


研は小さな勝利に満足したように、くるりと背を向けた。


そしてそうして去っていき、残された者たちに気まずい沈黙を残していった。


「……」

須川は思索に沈んでいたが、ある声が彼を現実へと引き戻した。


その緊張を破ったのは、ナオだった。


「須川くん、先ほどおっしゃった嵐太さんの夢が長続きしないという話ですが…それ以上の意味があるのでしょうか?」

彼女の声には好奇心が滲んでおり、ほとんど分析的な響きがあった。


『くん?』

須川はまばたきし、驚きと軽い不快感の間で板挟みになった。

『谷村はいつから俺のことをそう呼んでたんだ?』


「もちろんです。谷村さんは考えたことがないんですか?」

須川は複雑なことを説明するかのように、大げさな身振りを交えて返した。


ナオは眼鏡を調整し、軽く首を横に振った。


須川は目を細め、彼女の態度に何か違和感を覚えつつも、答えることを選んだ。


「我々地球からの人間は皆ここにいる。歴史は置き去りにされたかもしれないが、何世紀分もの知識を持ち込んだのだ」

少し間を置き、少女の反応を窺ってから言葉を続けた。

「この世界が完全に変わるのは時間の問題だ。革新、発見、進歩……我々が知る全てがこの地を変えるだろう」


ナオはまばたきをし、一瞬、理解の色が顔をよぎった。


「つまり、人間の知識によってやがてあらゆる面で革命が起きるとおっしゃるのですね」

彼女の声には確信が込められており、ほとんど興奮気味だった。


須川は笑みを浮かべ頷いた。


「その通り。冒険者も騎士も、やがて時代遅れになる。少なくとも、特別な存在ではなくなる。だからこそ、嵐太さんの夢は持続不可能だと考えるのだ」


ナオは軽く首を傾け、須川の言葉を評価するように聞いていた。


「ごもっともです。ご意見ありがとうございます、須川くん」

彼女は少し会釈すると、機械のような歩き方で去っていった。


須川は彼女の後姿を見送った。

『また"くん"か? 俺はちゃんと"さん"を使ってるのに…』

この新世界が彼女の中の何かを引き出しているのかと疑問に思わずにはいられなかった。しかし、いくら考えても有用な手がかりは浮かばない。


「須川翔さん!他の女友達がいたなんて聞いてないわよ。最初から4人で話せたじゃない」

圭子は明らかに不機嫌そうに腕を組んだ。


須川は伊達の抱擁を解きながら首を振った。

「違う。彼女は俺の友達じゃない」

その言葉はそっけなかったが、率直だった。

『実際のところ、君たちもそうじゃないがな』と心の中で付け加えた。


圭子は信じられないという表情で彼を見つめ、不快そうに腕を組んだ。しかし何か言おうとする前に、須川が普段より速い足取りで立ち去るのに気づいた。


「どこへ行くの!?」と彼女は慌てて尋ねた。


「寮に」

圭子も、須川と研のやり取りについてまだ考え込んでいる伊達も、須川の手にわずかに生じた震えには気づかなかった。

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