第3話 天使は寝て待て
サービスエリアからバスを走らせること1時間半。目的地である那須高原は既に目と鼻の先。
リズムよく、ガタンガタンと定期的に揺れるバスは微妙な乗り心地だった。なんとなく、人のしゃっくりに巻き込まれているような感覚で嫌になる。
だが時間は有意義だった。同じ周期で揺れるバスの中、その時間を楽しいと感じられたのは全て日比谷翼のおかげ。彼女がいろいろ話してくれたし、俺もいろいろ話した……気がする。あまり自分の話をするタイプではなかったと思うが、日比谷と話していると自然と躊躇なく自分の話ができた。聞き上手なんだと思う、彼女。なかなかいない、稀有な才能の持ち主である。何に対しても好奇心旺盛な彼女と話している時間が、慧にとってそれなりの癒しにもなっていたのは紛れもない事実だった。
「やっと着いたね!」
プシュー、と音を立てて止まったバス。開いた口から続々と生徒たちは降り立った。降りたと同時にうーんと大きく伸びをする日比谷。
「なんか肌寒いな」
その少し後ろで、慧は捲り上げられた学ランから見えている前腕を摩った。
東京ではもう初夏の風さえもチラチラこちらを見ていたが、この高原地ではそんなことはないらしい。むしろまだ冬の残香がする。数ヶ月前の気温なのに、もう懐かしく感じるから己は案外、寂しがりやなのかもしれない。慧は捲っていた袖を僅かに下ろした。「高原地だからね」と言う日比谷の笑みに、慧も目を伏せて微かに笑みを浮かべている。
「よしみんないるな、この後のことを説明するぞー」
野田先生が声を張り上げ、高原の冷めた空気を振動させた。すごい、メガホンもないのにこの声量。いいや、もしかしたら心が綺麗な人間にしか見えないメガホンとかあるのかもしれない。きっとそうだ、そうに違いない。メガホンなしにこの声量を出せるのは人間ではないと思ったから。なるほどな、通りで俺には見えないわけだ。
野田先生が説明した内容を簡単にまとめると、この後はクラスごとに行動するらしかった。まず慧たちのクラス――1年1組は酪農体験から。牛の乳を搾って、その牛乳を頂くらしい。その後は豚たちを見る。これは……多分、いや、なんでもない。やはり今言うのはやめておく。野田先生は全てを説明し終えると、他クラスの担任達と目配せをした。その後で生徒達の先頭に立ち、濡れたアスファルトを歩いて行く。それに続いて行く生徒たち。
「雨降ってたのかな」
日比谷が濡れたアスファルトを見つめた。
「霧だろ、高原地帯の」
「そっか、標高高いもんね」
自分で言うのも何だけど、割と自分は知識のある方だと思う。それに対してこう、当たり前のように言葉を返せる日比谷って意外と博識だなと思う。だから話していて楽しいのは十分にあり得る……いや、意外というは少し失礼だったかも。慧は「だな」とだけ頷き、そのまま彼女の隣を歩いていた。
「高原ってやっぱり森?」
「森っていうか、山じゃねえか?」
「あっ、そっか」
だって「高」原だもんね。日比谷は己の発言にくすくすと笑みを浮かべていた。私ってば何を言っているんだろう、なんて言わんばかりにどこか楽しそうにしている。その様子に慧もまた、気がつけば微笑みを浮かべていた。
「山で迷ったら、終わり?」
遭難したらってこと?
「"そうなん"じゃね」
「遭難だけに?」
「遭難だけに」
こんな時くらい、ふざけたって、寒い親父ギャグを言ったって許されるだろ。遠足マジックが通用すると思っているし、実際そうらしい。日比谷は、あはは!と軽くお腹を抱えて笑っていた。「"そうなん"だーっ」なんて続きを言うから慧も思わず声をあげて笑ってしまった。心底くだらない。だが、これが楽しい。こういう側から見たらつまらないことで笑い合える関係って、なんか、いいよな。悪くない……って言うか、俺は好きだ。
「じゃあ、私が遭難したら……茅西くんが見つけてくれる?」
目尻に滲んだ涙を人差し指の中腹で拭き取りながら、日比谷は横に並ぶ慧の顔を見た。
「すぐ見つけられる自信、あるな」
「おっ、頼もしいね!」
任せとけ、なんて大見得を切ってみる。どこにいても俺が見つけてやるから、なーんてくさい映画のセリフがあったよな、とか思い出す。まあそこまで行かなくても捜索くらいはもちろんするよ。そもそも、この集団行動中にそんな遭難イベント、ないに決まっているのだが。
「茅西くんといると安心安全!だね!」
「なんだそりゃ」
全く都合がいいやつめ。慧は無意識に歩く速さを日比谷に合わせていた。
「なあ、男水入らずで話そうぜ」
落合はそうとだけ言うと、悪巧みをするようにニッカリ笑って見せた。頬まで上げられた口角のせいで口元が気味の悪い三日月みたいになっている。
あれから、酪農体験は難なく終わった。牛乳は思ったより搾りにくかったし、調整する前の牛乳はなんか……ちょっと普段と違った。普段飲んでる牛乳って意外と作った味なんだな、という新たな発見。もちろん、牛さんありがとうの気持ちもある。その後の豚観察会は……言うまでもない。これから食べられて行くであろう豚達に同情した女子達は哀れみを浮かべ、男子達はそんな女子達をどこか笑っていた。慧はそのどちらでもなかった。どちらでもなかったが、これは生態系の頂点に立つ生き物しか見られない光景なんだろうなと思った。それだけ。
それからホテルに移動。ご飯を食べ、風呂を済ませた。露天風呂付きの風呂は何とも豪華だったし、涼しい高原の風がとても気持ちよくて病みつきになりそうだったのをまだ覚えている。
そして今は自由時間。部屋に戻った各々は就床まで好きに過ごして良いことになっている。
「どうしたんだよ急に」
その時間の中で、落合は急に畏まった雰囲気を作り出した。落合の不気味な三日月に中野は眉間に皺を寄せている。中野だけではない。原木や竹橋も訝しげな表情を浮かべていた。もちろん、慧も。
「お前ら、おっぱいとお尻、どっち派?」
「おっぱい」
「尻だろ」
「俺どっちも〜」
この部屋ってアホしかいねえのかな。慧は呆れたように息を吐いた。自分以外のみんなは胸と臀部の話で盛り上がっている。
「なあ慧は?どっちなんだよ」
俺に話を振るんじゃねえよ。落合は期待の眼差しをむけているが、そんなことは慧の知ったことではなかった。
「別に。どっち"で"も」
「どっちも!?茅西って欲張りさんだあ」
「おい竹橋」
「わかるぜ〜慧。俺と同じだな」
「テメェ中野」
言ってねえよ。慧がそう否定するたびに彼らはまた面白がってふざけ合う。それをまた慧が否定して……面白がられて……その繰り返し。
全くくだらない!……でも、不思議と悪い気はしなかった。もちろん、あらぬ誤解をわざと生まされたのはなんとなく心外だったが、まあでも、男子高校生ってこんなもんだろ。俺も含めて。
「これ明日翼ちゃんに言おうぜ」
「はあ!?なんで日比谷さんが出てくんだよ!」
よりにもよってなぜ彼女?いや、彼女じゃなくてもこの部屋のメンバー以外に伝わることだけは避けたい。思ってもねえのに、誤解されたくないだろ。慧は思わず声を荒げた。
「だって、慧って翼ちゃんと仲良いじゃん。うぜえよお前、ふざけんな」
「言い過ぎだよ。なんか可哀想だろ俺が」
原木の目は本気だった。思わず入れてしまった慧のツッコミも、彼の本気の目に蹴落とされてしまう。
「あのなあ、日比谷さんとは……別に話すけど、仲良いとかそう言う感じじゃねえよ」
「じゃあどう言う感じなんだよ?」
落合が血眼で聞いてくる。よく見れば他のメンバーもまるで飢えたライオンのような目に変わっていた。怖いんだよそれ。慧は少しばかり怯むと小さくため息を吐いて言葉を続けた。
「友達。それ以上でもなんでもない。少なくとも俺は彼女を特別に思っていない」
全て本当である。日比谷は数ある友人――そんなに多くはないが――のうちの1人だし、クラスメイトの女子。みんなが思うほど、俺は彼女に興味がない。……それは、建前だけど――本当はもう少し仲良くなりたいと言う気持ちはある。まあそれはともかく、とりあえずお前らが期待するような感情は一切ない。残念ながら。
「じゃあ俺、翼ちゃんのこと本気で好きになっていい?」
中野がまっすぐ慧を見た。
「本気だよ、俺」
誰も疑ってないけど。
「……いいんじゃね」
それは……中野の自由。まあその気持ちが報われるかどうかは日比谷次第ではある。でも、恋心を抱くのは……自由だ。
中野はかっこいいし、サッカー部希望だし、モテる。俺なんかよりもずっと、人望も熱い。
「頑張るわ」
中野は本気だ。その目はさっきまでの流れと違った。男の目、熱い目、まるで獲物を定めた黒豹みたい。サバンナで1番会いたくないタイプ。俺なんか、すぐに負けてしまう。きっと。
「じゃあ応援しないとね」
竹橋の言葉に皆が大きく頷いた。慧と……落合を除いて。
✴︎
女の子ってみんな可愛い。だって、お風呂上がりでこうやってお話ししてるだけでキュンキュンしちゃうんだもん!私もこの中にいていいんだって思うと女の子に生まれてよかったなあって思う。翼は布団の中に潜り込んで、ルームメイト達の話を聞いていた。
「えー落合って絶対リカのこと好きだよね」
「ないない、あいつ私にばっかちょっかいかけてくるし」
「それが好きって証拠じゃーん!」
マユミは布団の中で、ニヤリと笑みを浮かべていた。他のメンバーもそうだよ!と肯定の意を見せている。
「リカちゃんはどうなのー?落合くんのこと、きらい?」
落合と直接話したことはまだなかったが、リカとよく話しているのは見かける。2人で頻繁に言い合い――多分落合がリカにちょっかいかけているだけ――をしているたびに夫婦喧嘩するなと周りから言われているのは、もはや日常茶飯事。それをまた2人同時に否定するから、本当に仲良しなんだなと思う。そんなリカと落合の関係が、翼にとって少し羨ましくもあった。
別に、男女じゃなくてもいい。女の子の友達でも誰でも、そうやってふざけ合って息ぴったりで、俗に言う親友って関係、すごく憧れる。いいなって思う。親友ってどうやって作るんだろう?
「……嫌いじゃないよ、……」
リカはどこか恥じらいながら視線を逸らした。いつも堂々として、女子たちの味方になってくれるリカ。そんな彼女が恥じらいを見せ、どこか頬を赤らめていると言うのは本当に、本当に……
「リカ可愛いーっっっ」
アキがそう叫ぶと、他のメンバーもうんうん!と大きく頷きを見せた。翼ももちろん、リカのそんな姿に胸を高鳴らせている。
「そ、そう言う翼だってどうなの!最近茅西とよく話してるらしいじゃん?あと入学式の時一緒に帰ったとかね」
「わっ私……!?」
突如リカから話を振られ、翼はびくりと身をこわばらせた。まさかこちらに矢印が向くとは思ってもいなかった。マユミもアキもカヤもみんなこちらに目を向ける。
「私……」
茅西くんとは何もない。別に……目があったら挨拶をして、たまにおしゃべりするだけの仲。今回はたまたま座席が隣になったからそれで……たくさんお話しできた。
茅西とはどうなの?そんな風に聞かれたらなんて答えたらいいのかわからない。だって、何もないもん。でも、それってちょっと寂しい。
「私……茅西くんともっと仲良くなりたいの」
リカと落合の距離感じゃなくてもいい。だけど、もっと気軽にお話しして一緒に帰ったり、ご飯食べたり、そんな風になりたい。もっと仲良しの、お友達になりたい!
「でも、茅西くんってちょっと大人じゃない?だからね、どうやって仲良くなったらいいかわからないの……」
あの子はとても博識だと思う。先ほどのバスの中でも、己の疑問のほぼ全てに答えてくれた。好奇心を剥き出しにしてしまう自分に対して嫌な顔せず、一つ一つ教えてくれた。だから、話していて楽しい。この人の見ている世界をもっと見てみたいと思ってしまう。
「その気持ちをそのまま伝えたらいいと思う」
カヤはそれだけを言った。それだけ。
「他人に仲良くなりたいですって言われて、嫌な気分になる人間の方が少ないでしょ」
確かに。だって私だったらそうやって人に言われたら嬉しくてたまらなくて、それでやったー!って思っちゃう。この人と仲良くなりたい!って私も思うと思う。翼はカヤの言葉に大きく頷いた。その通りだと思う。
「でもまあ、側から見れば茅西もずいぶん翼に甘そうだな〜とは思うけどね?」
「と言うと??」
「んー」
翼のきょとんとした顔に、マユミは少し上方に目を向けた。それから少しだけ間を空ける。
「たとえば、それこそ普通に話しかけた時。私がこの間呼んだら何も言わずに振り向かれた」
「冷てえな〜っ」
リカがなんとも苦笑いを浮かべている。
「でも、この間翼が話しかけた時はちゃんと『どうした?』って翼の目を見てた!とかね」
マユミはリカと目を見合わせて苦笑いを浮かべると、すぐに翼に向き直った。
でもそれって、たまたまじゃない?それだけで甘そうって言うのはずいぶんと虫が良いようにも思える。その時の彼の気分とか調子とか……多分そう言うのもあるよ、きっと。
「まあこれは一例。だけど言葉に表せない何かがあんのよ、なんか」
「わかるな〜それ。翼ちゃんは当の本人だからわからないかもしれないけど、側から見てると結構わかるかも」
そう言うもの……なのかな……?
「さっきの酪農の時もさ!茅西が絞った後すぐに『日比谷さん、こっち』って呼んでたよね!」
「見てましたよ私それ!!」
なんだか好き勝手話して、茅西くんに悪い気がする。でも不思議、なんか、……すっごく、
「……お?翼、顔赤いな?」
「わたし……」
なんでこんなに嬉しくてどきどきしちゃうんだろ?今すぐにでも茅西くんにあって、君と仲良くなりたい!って伝えたい。もっとね、もっとたくさん君を知りたいの。
「みんな……茅西くんとの仲良くなり方、教えてくれる……?」
翼は己の熱った両頬を白い手のひらで包んでみせた。少し冷めた手のひらがひんやりと頬の熱を覚ましていく。まるで熱さまシートだ。熱の時に貼るやつ。
「もちろん!」
「任せな」
翼の言葉にルームメイトたちは次々頷いて見せた。まるでドミノみたいに、その頷きが伝染していく。……そう、1人を除いて。
✴︎
次の日の、最終日の朝は早かった。
慧は朝に弱い。すこぶる弱い。話しかけられてもうんとかああとか、何も言わない。ただ頷いたり首を振ったり、その程度の意思表示しかできなくなる。別に機嫌が悪いわけではないが、なんとなくこちらの顔色を伺いまくっていたであろう落合には申し訳ないことをした。違う、別に怒ってるんじゃない。頭が回らねえんだよ。
さて、最終日。今日はあらかじめ決められた班に分かれてカレーライスを作るらしい。そう、豚肉の。なんとも無慈悲すぎる。本当に人の心がないらしい。これ企画したのってどの教師なんだろう。
「いいだろ、カレー作り!これでクラスの絆も深まるな!さすが、企画者の俺だ!良い企画だろう!」
野田先生なんだ、これ考えたの。あんまりこの人を怒らせるようなことをするのは控えておこう。最も、元から最低限しか関わる気はなかったが。慧は眉間に皺を寄せたまま、先生の指示に従った。落合や中野たち、ルームメイトと共に指定されたテーブルに移動する。
「うわ、あんたと一緒かよ」
「うげえ入谷リカじゃねえか」
「うげって言うな!あとフルネームやめろ!」
入谷の言葉に落合がまたさらに揶揄ってみせる。それに入谷がまた反応するから、落合も面白がってまた揶揄う。その繰り返し。これが1組名物、夫婦喧嘩である。
「はいはい夫婦喧嘩やめろよ」
「「違うから!!!!」」
中野の仲裁にまた2人して声を揃えるのだから面白い。コントでもやっているのか?周りの女子らも堪えきれずにふふっと吹き出していた。あれ、入谷がいると言うことは……
「茅西くん、また一緒だね!」
当然日比谷もいた。日比谷と入谷、広尾は仲が良いからよく3人でいるのを知っている。今回はこの3人に女子数名が加わっている形。
「だな」
穏やかなメンツそうで安心した。尚、落合と入谷の関係を除いて。慧は笑いかけられた日比谷に安堵の笑みを浮かべ返した。
「そしたらまず野菜切っていこっか」
広尾は机の上にあらかじめ用意されていたジャガイモを手に取った。それを水で洗うよう男子たちに指示を出す。女子はどうやらそれを切ったり剥いたりする係らしい。俺も洗うことにしよう。慧は1番手前の、そこそこ小さいサイズのジャガイモを手にした。それをテーブルに付属した流し台の前に持っていく。水を出す、当然冷たい。ひんやりした空気がさらにそれを冷やしていく……けど、こう言うのは男子の仕事である。別に格好つけてるわけじゃない。
「茅西くん、それもらっていい?」
ある程度泥が落ちたジャガイモを目にした日比谷が隣で口を開いた。握られている包丁からして、彼女はもう準備万端だったらしい。
「うん。じゃあよろしくな」
あとはこいつを日比谷に託そう。大丈夫、彼女なら上手いことやってくれるはずだから。慧は濡れたその根菜を日比谷の白い手に握らせた。泥はもうちゃんと落ちているはず。
「こういうの、性格でるよね。ふふっ」
日比谷は手元のジャガイモから目を離さずに、どこか楽しげだった。器用に包丁を使いながらまるでリンゴの皮を剥いているみたいにクルクルとジャガイモを回している。これはきっと魔法だ。天使の魔法の一種。
「ピーラーあるよ」
いくら料理が得意だとは言え、ピッ!と指を切ってしまったら元も子もない。楽しいはずのカレーライスが痛くてたまらない思い出になってしまう。慧は流し台の奥に置いてあるピーラーに目を向けたが、日比谷は手元から目を離さなかった。
「こっちの方が剥きやすいの。丸いから」
スッス、と丁寧にそして効率よく日比谷はじゃがいもの皮をひたすら剥き進めている。彼女の手からは螺旋状になったじゃがいもの皮が重力に従って伸びていた。すごいな、料理人の知り合いも同じ剥き方をしていた記憶があるが、まさか彼と同等のスキルを持っているとは。
「怪我しないようにな」
「心配してくれてるの?」
「そりゃ……まあ」
友達……だし、なんてな。そんな小っ恥ずかしいこと言えるわけがない。そう思っているのは俺だけかもしれないし。
「優しいんだね」
慧はそれ以降口を噤んだが、日比谷はどこか楽しげだった。遠くではまた落合と入谷が何か言い合っているが、慧は聞かないことにした。さて、俺も他の野菜を洗うとするか。今度は人参を掴み取ると、慧はそれを水で流し洗った。そして日比谷に渡す。今度はピーラーを使っていくらしい。なるほどな、人参は丸くないからか。そうして皮を剥き終わった奴らを広尾や他の女子に渡していく。他の男子――中野たちはと言うと、すでに飯盒の準備をしていた。
そしたら皿が必要だよな。皿は前にまとめて置いてあったはずだから取りに行こう。野菜は一旦キリがついたので、この後は任せて良いだろう。
「あっ、茅西くん」
慧が後ろを向いたところで、か細い声が彼を引き留めた。何?と振り返ると自分よりもかなり背の低い目線がそこにあった。君は確か……上野さんだっけ。上野アキさん。さっき日比谷と一緒に野菜の皮、剥いてくれていた気がする。何?慧がまっすぐ彼女に問うと、彼女の視線は少し泳いだ。
「お皿……一緒に取りに行ってもいい?その、コップとかスプーンもあるから……多分1人じゃ、持てないと思うから……」
「あー。もちろん、一緒に行こう」
落としてしまうくらいなら数名で一緒に行ったほうが良いに決まっている。慧は素直に、上野に頷いた。その方が効率も良いしな。
「……茅西くんって、日比谷さんと仲良いの?」
当然の上野の問いに慧はなんとなく身を強張らせた。
「え、なんで」
みんなして同じ質問をするんじゃねえよ。とは思うが、彼女が冷やかしで聞いているようにも思えない。そう言う人でもなさそうだし、何か理由でも?慧は視線だけを上野に向けていた。
「なんか……最近、2人よく話してるなって、思って」
そうか?バス隣になったからその流れで……それだけだと思うけど。まあ確かに、この学習合宿を通して前よりも話すようになったのは事実かもしれない。
「まあ、普通に……友達だよ。俺はそう思ってる」
大切なのはあくまでも俺はそう思っているよ、と言う事実。相手がどう思っているかは、さておき。皿置き場に着いた2人はお互いに何か言うでもなく、皿とスプーン、コップをそれぞれ手分けして手に取った。それを崩れないように胸元でうまく抱え込む。
「そっか……あの、それで、」
上野が途中で皿を拾い上げる手を止めた。プラスチックの容器は上野の腕の中で少し形を変えている。
「茅西くん、って、その……彼女、いるの?」
脈絡のない問いかけに慧は思わず持っていたプラスチックのコップを滑らせた。おっとっと!慧は捕まえられようとしてバウンドするコップをうまくキャッチした。逃げ回るんじゃない。お前はこれから俺らに使われるんだよ。……。
「いねえけど……急すぎねえか」
「えっ!あっ、ごめん!そう、だよね!!変なこと聞いちゃった!」
本当に変なことだと思う。悪いけど。流石にそんなことは言わなかったが、慧は上野を凝視した。上野はどこか慌てている様子にも見える。が、なんとかそれを隠そうと取り繕っている様子も見てとれた。正直、よくわからない。なぜそんなことを、今?このタイミングで?
「あー、持つよ、それ。落ちそうだし」
「えっでも、」
上野が何か言い終わるよりも前に、慧は上野の腕の中から皿を数枚奪い取るようにした。それを己の腕の中に収める。なんか……今の彼女、危なっかしいし。
「あ……あり、がとう、」
別に……と言いかけたが、慧はその言葉を胃袋の奥底にしまい込んだ。どういたしまして。慧と上野はそれっきりテーブルに戻るまで、何か話すことはなかった。どさっとテーブルの上に崩された皿類を2人して分けていくが、特にこれと言った会話も……ない。
「うわあ!いい匂いしてきたねえ〜」
竹橋がくんくん、と鼻を鳴らしてうっとりした表情を浮かべる。確かに言われてみればそうだ。カレーの美味しそうな匂い……この、甘辛いような香ばしいルゥの香りは人間の三大欲求の1つを無性に駆り立ててくる。真っ白でほかほかなご飯によく合うであろうことは言うまでもない。ざく切りにされたホクホクのジャガイモや人参が高原の風に冷やされた体を芯から温めてくれることは間違いなさそうだ。
「なあ……悪い、ご飯、がさ……」
不意に中野が青ざめた顔を表した。え、何?他の班員たちも皆中野や、その後ろで必死に火を弱めている原木に目を向ける。
「お粥みたいになっちゃった」
要するにまあ、炊きすぎてしまったと。
「仕方ないよ、でもご飯ないより全然いいよね!」
日比谷は2人を宥めることなく、その持ち前の明るさを発揮した。彼女の明るい表情に周りの班員たちもそうそう!と同意を示していく。慧もうんうんと小さく頷いていた。これもまた味だろう。案外合うかもしれないぞ、カレーお粥。……多分。
「ありがとう翼ちゃん、みんな」
中野はぐすぐす鼻を鳴らしつつ、その粥をお皿に盛り付けていった。
「あっ、思った以上にドロドロなんだね」
日比谷はたまに、空気が読めない。
慧の腹はかなり満たされていた。
いや、慧だけではない。班員みんなの腹は幸せと友情でお腹いっぱいだったらしい。お粥カレーも言うほど悪くはなかった。いつもより水に近い米は、ルゥと混ざり合いやすかったし、まろやかで。少なくとも俺はそんなに嫌いじゃなかった。意図して作るかは……別として。しかし、それは他の班員もそうだったらしい。あと少しで底を尽きそうなカレー鍋がその何よりの証拠である。その中にこべりついたルゥを入谷はかき混ぜていた。
「あと1杯分あるけど食べる人?」
「俺食うー」
どんだけだよ。落合はのびのびと右手を挙手するとその皿を入谷のところへ運んで行った。体育会系男子のいる家系って食費が笑えなそうだな。
「ニャー」
ニャー。……にゃー?
「あれ?君、どこからきたの〜?」
不自然な声のする方に目を向ければ、そこにはとんでもなく小さな毛玉がいた。薄汚れた白と茶色の二毛。猫だ、子猫がいる。日比谷の足元で必死に小さな声帯を震わせていた。怯えている様子はないが、何かを訴えている?
「お母さんと逸れちゃったの〜?」
確かに、母猫の姿はそばにないし、それらしい音もしない。カレーの匂いにつられてきたのか?まさか。隣や向かいの席では広尾や竹橋が可愛い可愛いと声をあげているが、なんとも呑気だなと思う。まあ……確かに、かわいいけど。
「母猫が迎えにくるといいけどな」
流石に合宿中に猫を持ち帰るわけにもいかないし、かと言ってここに1匹置き去りにするのもなんとなく心が苦しい。慧の言葉に、日比谷は「うん……」とだけ小さく頷いた。その視線は子猫から逸らさずに。
「私……お母さん猫探してくる」
「探すって言ったって……近くにいるとも限らないよ?」
広尾の言う通りだと思う。彼女の言葉に、日比谷も少し怯みを見せた。が、それは一瞬だけ。
「でも、いるかもしれない」
それも一理ある。いるともいないとも断言できない。だが、少し無謀な気もする。
「すぐ戻るね!」
日比谷ってこう言う時、思い立ったらすぐの性格らしい。その後の自分のことを考えない……でも、それってある意味彼女の強みでもあると思う。慧は日比谷の背中が遠のいて行くのを見届けていた。全く自分に関係ない人物――それも猫――に必死になれると言うのは彼女の心が優しいから。優しすぎるから。それが毒になる日が来ないといいけどな。
「じゃあ、猫は翼に任せるとして……私たちは、片付け始めますか」
立ち上がる入谷に続き、みんな続々と腰を上げた。プラスチックと紙の入れ物は楽だな。簡単に捨てて、それで終わる。地球に優しいとか優しくないとか……それは、また、別だけど。慧は班ごとに配られた大きなゴミ袋の中に己の容器を突っ込んだ。他の班員もそれに続く。後はこのでかい鍋とお粥炊いた飯盒を洗うだけ。
「ねえ、翼ちゃん遅くない?」
洗い物は全て終わった。他の班も続々と後片付けを終えているようで、まだ片付けている班の方が少なかった。今はその少数を大多数が待っている状態。とはいえ、ほとんどの班がみんなおしゃべりに夢中になっていたから、自由時間に近い。いつもなら喋りを咎める野田先生も今日ばかりはチョコレートみたいに甘かった。その中で、中野が日比谷の帰りを案じたのだった。確かに、遅すぎる。
「まさか……迷った?この中で?」
周りは木、森、山。時刻は13:30くらいと昼過ぎではあるものの、山で遭難すると言うのはどの時間帯でも望ましいことではない。それは不審者云々もそうだが、動物の危険性だってある。猿も熊も裸の老人もいるだろう。山だから。
「なあ俺……」
「探してくる」
「ちょ、慧!!」
中野の声が引き止めようとしてくる。しかし今の慧にとってそのブレーキはなんの意味もなかった。まるで首輪から放たれた飼い犬のように、慧はその場を飛び出していた。振り返ることなく、慧は走り出す。加速する。地面を蹴る足が軽やかにリズムを奏でていた。
今は、何か考えている暇はない。わからない、なんでこんなに日比谷に対して必死になっているのか。でもなんか、俺が行かなきゃって思った。それだけ、本当に。探して、見つけてやらないとって……思った。
『じゃあ、私が遭難したら……茅西くんが見つけてくれる?』
だって、約束したから。見つけてやるよって。すぐに見つけられる自信があるって言ってしまったから。俺が見つけてやらないと、日比谷はどこかで泣いているかもしれない。怪我をして倒れているかもしれない。どちらにせよ、1人で心細い思いをしているであろうことはなんとなく想像ができた。
だけど、どうやって見つけ出そうか。周りを見渡すも、目に入るのは木、木……木。辛うじて遠くに生徒たちの人集りが小さく見えているくらい。それにしても、土が泥濘んでいてあまりいい気がしないな。汚れるのは好きじゃない。
「……ん?」
泥濘?慧はそっと己の足元に目を落とした。
『雨降ってたのかな』
『霧だろ、高原地帯の』
なるほどな、そうか、そう言うことか。慧は理解したように己の今歩いてきた道を目で辿った。やはりそうだ。足跡が残っている。同時にその先をずっと目で辿ってみる。……ああ、やはりそうだ。俺以外の足跡がある。ここが高原地帯で助かった。慧はその、見知らぬ足跡を辿り、また歩いた。天使って、空を飛ぶんじゃないんだな。
「……な、言っただろ」
そうして見つけた目の前で小さくなっている天使。
「すぐに見つけられる自信あるって」
慧は地面に膝をついた。大丈夫、この場所はそんなに泥濘んでいない。そうして背丈を合わせて、まるで子どもをあやすみたいに、天使に近づく。
「茅西く、……」
その姿にゆっくりと顔をあげる日比谷。目尻は赤く、濡れた袖口から彼女が一体どのくらいの時間、目元を濡らしていたのかは考えるまでもない。
「やっぱり迷ったんだろ?あれはフラグだったんだな、まさか本当に遭難するなん……」
ぎゅっ、と不意に慧の首元にぬくもりが触れる。包まれる。優しく、悲しく、寂しそうに、安心したように。それら全ての熱が日比谷を伝って慧に直接触れ合ってくる。日比谷の回された細い腕は、震えていた。慧の頸椎にその振動を伝えてくる。
「う、っ、うう、」
ぐすぐすと鼻を鳴らしている彼女。まるで迷子になった赤子が母親をやっと見つけた時のように、日比谷は甘えていた。甘えていたと言うよりは、堪えていた寂しさが溢れかえっていた。それを慧は全て受け止める。余すことなく、全て。全てをその体で受け止めていた。
「……怖かったな」
こんな時、自分ならどうされたいか考える。怖くて怖くてたまらなくて、やっと誰かに会えた時。小さい頃の俺ならこうして甘えていたかもしれないし、そんな時……じいちゃんにギュッとされたらすごく嬉しかったのを覚えている。だから、多分。今俺がこうして日比谷の背中に軽く手を回しているのは、そのせい。まるで小さな子山羊みたいに震えている彼女を安心させてあげたかった。自分じゃ力不足だとしても、少しだけでもいいから。慧はとんとん……と優しく日比谷の背中をゆっくりと叩いた。大丈夫、もう大丈夫。
「ニャー」
ふと、傍から毛玉の鳴き声。慧がそちらを見れば、毛玉が2つに分裂していた。小さな毛玉と、大きな毛玉。同じ色をしていて、大きさ以外はよく似ている。
「お前も見つけたんだな」
母猫だろう。くりっとした目でこちらをじっと凝視していた。礼ならどうか日比谷に言ってやってほしい。そんな慧の気持ちなど当然知ることもなく、毛玉の親子は草むらに消えていった。地面に可愛らしい足跡を残して。
「茅西くん、ごめんね、ありがとう。私……だめだね。結局君にも迷惑をかけちゃった」
少しでも役に立ちたかったんだけど。日比谷は困ったように泣き笑いを浮かべた。まるで霧が晴れた高原地の快晴みたいに、彼女の顔は晴れ渡っていた。
「だめじゃない。あいつは日比谷さんがいなかったら母親と離れ離れだったと思う」
現に、ここまで日比谷があの猫を連れてきたからこそあの親子は再会できた。放ったらかしにしていたらきっといつか腹を空かせて力尽きていたかもしれない。そうさせなかったのは紛れもなく日比谷の判断。だから、だめなんてことはない。
「それに、別に俺は迷惑なんて思ってねえよ。最初に約束したこと、守っただけだし」
立てるか?と慧は日比谷に手を貸した。慧の細長い手を掴み、日比谷もぐっと立ち上がった。見る限り怪我などはしていなそうだ。
「茅西くんって、かっこいいね」
「恥ずかしいからやめろ」
「えー?本当のことだよ?」
くすくすと楽しそうに笑う日比谷。慧は彼女がどこかいつも通りになったようで内心安堵していた。俺がかっこいいかは、さておいて。
「……ねえ、茅西くん。ありがとね、私のこと……見つけてくれて」
周りで聞いたことのないような鳥が囀る。それが嫌にメルヘンチックな雰囲気を醸し出していたが、今は不思議と、そんなに悪い気はしなかった。慧はそんな日比谷の言葉に気にするなと頷く。特に、日比谷の方は見なかった。だが歩く速さは日比谷に合わせたまま、少し泥濘んだ土を踏んでいた。
「それでね、……慧くん、って、呼んでもいい?」
ハッとしたように、慧は思わず日比谷の方を見た。少しばかり開いた瞳孔は光の中の彼女をしっかりと映し出している。まるで、絵画みたいに彼女はそこで生きていた。
「いい……けど」
否定する理由は……特に、ないし。好きに呼んだらいい、と思う。
「慧くん!」
あははっ!と日比谷は最上級に笑んでいた。ちょうど今の、頭上に広がる雲ひとつない青空と同じように、澄んだ空気に彼女は溶けていた。
なんか、不思議な感覚だ。人とこうして距離を縮めるのって……いつぶりだろう。もしかしたら、無意識に避けていたのかもしれない。ほら、俺って人見知りだから。それを突き破って来たのが日比谷だったが、不思議と悪い気は一切しなかった。慧はそんな彼女に目を綻ばせる。心を撫でる冷たい風さえも、今は心地よかった。……俺も、もう少しこの人を知りたい。
「じゃあ、……翼」
そう思うのは、果たして許されるだろうか。でも今くらいは、許してほしい。
「うん!翼!!」
嬉しそうに隣でぴょこぴょこ跳ねている彼女。土はもう泥濘んでいなかった。だんだんとアスファルトのような土質に変わっていく。同時に、人の気配も増えていく。
「あーっ!やっと帰って来たー!!」
最後の木を潜り抜けたところで、2人は盛大な出迎えを受けた。もちろん、野田先生の小言付きで。
「えへへ!慧くんが見つけてくれたのー!」
「困った天使だよ、翼は」
全く、本当に手のかかる天使だ、なんて。それでも彼女の明るさに虜になってしまう。もっと彼女の光を見たいし、いずれ……描きたい。そう思うのはもしかしたら彼女が天使の魔法を使っているからかもしれない。慧と翼は顔を見合わせて思わず笑い合った。今はこれでいい、これが楽しいのだから。
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