第22話 船上にて

「なによあいつ、人のこと呼ぶだけ呼んでいなくなっちゃうんだからっ」

 ラッシェルの後ろ姿を見ながら不満気に呟くフラッフィー。

「……でもフラッフィーはラッシェルが好きだろ?」

 ロェイとしては、ごく普通に聞いたつもりだった。のだが……

「なっ、何を言ってるのよっ! どうしてあんな男っ。あたしはっ」

 あたしは……。

 あたしはロェイのことが、と喉まで出掛かる。


「……ん?」

「あたしはああいう軽い男は嫌いよ。人のこと『チビ』だなんて失礼極まりないわっ」

 言える筈もない。

 ロェイと一緒にいたかったからついてきた、なんて。ロェイのことが好きだなんて。

 ……言える筈もない。


 だってロェイはきっと迷惑だと思っているのだから。でも、優しいから、それを口に出せないでいるに違いない。フラッフィーはオルガが羨ましかった。歳の近い彼女は、特別な力を持っている。必要とされて、ここにいる。危険の伴う旅に、足手纏いとなる子供を連れ歩くのは出来れば避けたいだろうに、サントワはオルガを連れもう一年以上旅しているのだと聞いた。けれど……フラッフィーには特別な力などない。無理矢理ロェイの後を追っているだけだ。それがなんだか、とても悲しいことのように思える。


「……ロェイは……」

「ん?」

「やっぱりエリスみたいな人がいいの?」

「え?」

 急にエリスの名が出てきたことに、ロェイが驚く。フラッフィーは耳を赤く染め、遠くを見ながら口をとがらせている。これはつまり、嫉妬……なのだろうか?

「あっ、ううん、なんでもないっ。やだなあたしってばなに言ってるんだろ」

 慌てて、否定するフラッフィー。

 一体何を聞こうとしていたのか、フラッフィー自身、よくわからなかった。


「エリスがどうかしたのか?」

「あ、ううんっ、エリスってすごく綺麗だから、やっぱり男はああいう女性に惹かれるのかなぁ、って思って」

「まぁ、人それぞれだろうな。実際ラッシェルなんかはメロメロなわけだし。でも俺は特別どうとも思わないけどなぁ」

「……そうなの?」

「確かに彼女は綺麗だけど、それが全てじゃないさ。それに、なんだか問題を抱えてるみたいだしな、彼女」

 天を見上げ、ロェイ。と、

「そうなのっ!」

 力を込め、フラッフィー。その勢いに驚き仰け反るロェイ。


「あたしねっ、エリスに笑ってもらいたいのよっ」

「……笑って?」

「エリスの笑顔ってそりゃあ素敵なのよっ」

 その後、白熱したフラッフィーはエリスの笑顔がどれだけ素敵かを熱く語りはじめた。ロェイはそんなフラッフィーの姿を眺めながら、改めて自分の持つ力に対し、不安を胸に抱いてしまう。


 凪の力というのは強大だ。

 使い手が正気を保っている分には問題はないが、精神が不安定になったりすると、この上なく恐ろしい力となる。コントロールが効かなくなり、暴走した力は周りの人間を傷つける。もしも自分がそうなってしまったら……フラッフィーを、皆を傷つけることになるかもしれないのだ。だから「凪」の力を持つ人間は人との交流を避け、道具として一生を終えるのだ。愛する者などいなくていい。自らの手で壊してしまうかもしれないのなら、愛する者などいなくていい。


 ──愛する者など


 何かが、過ぎる。

 それは強く心を支配している想い。


「ロェイ?」

 フラッフィーが肩に触れた瞬間、意識が引き戻される。頭を過ぎった「何か」は、また記憶の彼方へと消えていった。


「どうかした?」

 一点を見つめ黙り込んだロェイを心配し、フラッフィーは声を掛けた。まるで魂がなくなってしまったかのような、ロェイの虚ろな表情。共に過ごしていたときにも幾度となく見せた顔。そのたびにフラッフィーはロェイを失うかもしれない不安に胸かき乱されていた。そして、今も……。

「……ごめん、少しボーっとしてた」

 そう言って微笑むロェイの顔は、いつも同じ。優しくて、温かい。フラッフィーはロェイの服の裾をきゅっと掴んだ。いなくならないで。あたしの側からいなくならないで。その言葉を飲み込みながら。


「霧が出るかもしれないわね」

 そう、声を掛けてきたのはエリスだった。

「エリス……」

 ほっとした顔で、フラッフィー。

「どうしたの? そんな顔して」

 エリスが不思議そうにフラッフィーを見つめた。フラッフィーはエリスに向かって両手を伸ばし、甘えた声でこう言った。

「ぎゅ、ってして」


「ええっ?」

 驚いたのはロェイである。今までフラッフィーがこんな声を出すのを聞いたことがない。いや、誰かに甘える、という行為自体、彼女はした事がないのだ。それをこんなにストレートに……。

「ぎゅ……って?」

 エリスも面食らっているようだ。

「早くぅっ」

「いつからそんな子供になったの? フラッフィー……」

 戸惑いながらもエリスは膝を付き、フラッフィーをぎゅっと抱き締めた。

「エリス、いい匂いね」

 フラッフィーは気持ちよさそうに目を閉じ、エリスにくっついている。と、エリスの顔が少しずつ変わりはじめたのだ。まるで小さな蕾がみるみる間に大輪の花を咲かせるかの如く……ゆっくりでありながら大胆に。


「……う、わっ」

 思わず声にもならない声を出してしまうロェイ。慌てて手で口元を抑え、顔を背けた。今までにお目にかかったこともない極上の微笑み。神の子と称される聖人の、本当の姿がこれだというのか? なるほど、フラッフィーが彼女を笑顔にしたいと話していた意味が、分からなくはない。


「ありがとぅ」

 フラッフィーがそっとエリスから離れる。と、エリスの表情もいつものそれに戻った。

「エリス、片付け終わったの?」

「終わったわよ」

「他の人達は?」

「ラッシェルがうるさいから、サントワにあずけてきちゃったわ」

「ぷっ」

 吹き出すフラッフィー。


「あなたはラッシェルと古い付き合いなんでしょう、ロェイ? よく平気ね」

 真顔で問われ、真顔で返す。

「俺だって平気じゃないさ。それに、古い付き合いっていっても、どのくらい古いのかは知らないしな」

 まだバクバクと鳴っている心臓を必死に抑えつつ、顔を逸らし、ロェイ。

「知らない?」

「あのね、エリス、ロェイは記憶が一部ないのよ」

「……そう、なの?」

 口元を抑え、エリス。ロェイは軽く笑うと答えた。

「ま、そうなんだ。だからラッシェルのことも実はよく知らない。……知りたくもないんだけどさ」

「思い出さない方がよさそうよね」

 真顔でそう言うエリスに、今度はロェイが吹き出す。

「確かに」


「ね、エリス、さっき『霧が出る』って言ってなかった?」

 空を見上げ、フラッフィー。

「ええ、言ったわよ」

「こんなに星が出てるのに?」

 空には満天の星。霧など出るような雰囲気はないのに……。

「海の女神が船を惑わせるための青い霧」

「え?」

 ロェイがエリスを見た。呟く彼女の横顔がなんとも神秘的で、つい、見とれてしまう。視線を外すことが出来ないほど、圧倒的な美しさ。ラッシェルが夢中になるのも無理のない話だ。今更そんなことに気付く。


「青い霧? なぁに、それ?」

 フラッフィーが目をぱちくりさせた。

「そんな言い伝えがあるのよ。今日みたいに穏やか過ぎる海は、かえって危ない、って」

「なんだ、言い伝えか」

 ホッと息をつくフラッフィーに、エリスは少し声のトーンを落とし、言った。

「あら、言い伝えでも噂でも『嘘』ではないのよ? 船を惑わし、人々を恐怖に陥れるという青い霧。用心に越したことはないわ」

 そう言って、きびすを返す。フラッフィーが慌ててその後を追った。怖い話は、好きじゃない。


 ロェイもまた、立ち上がると二人の後に着いて船へと戻っていく。


 甲板にはまた、静かな夜が訪れたのである。


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