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絶対の勝利を得られるならば、幾ら出す?


 淡く透き通って輝くエーゲ海を臨み、ワインを傾けてリヴィオが囁く。ニケは勝利の女神、『サモトラケのニケ』の首を手にしたものは、なにものをも凌駕する勝利を得られると言われている。


 昨日着替えてから連れ出され、ロードスの街中を歩き回って店先をひやかし、小さなギャラリーの一つで“ロザファ“の仮面をつくってもらった。

「“ロザファ“?」

 さすがのリヴィオもロザファは知らなかったようだ。住民と雑談しているリヴィオは、明朗で気さくな老紳士という雰囲気である。昨夜の様子からはかけ離れているが、むしろこちらが本質なのかもしれない。アルバニア出身のギャラリー主と俺は顔を見合わせた。

「ロザファっていうのはアルバニアのお伽話に出てくる女性です」

「ほう。女性なのか」

「倒れない城を建設するために、胸壁に埋め込まれたんです。人身御供ですね」

 ふん、とリヴィオは批判的に鼻を鳴らした。貴方も他人のこと言えませんよね、俺は店主とリヴィオの話を聞きながら心中呟く。

「赤子がいたんですよ。だからロザファは、自分を壁に埋めてもいいが、半身は露出させて子どもに乳をやらせてくれ、って願うんです」

 店主はペタペタと布に女性の顔を描いてくれる。子供の頃から聞いている物語だ。ロザファは詠う、『城が強くなりますように、息子が幸せでありますように……』


 マンドラキ港のカフェで遅い昼食を取りながら、そう問うリヴィオの声音は、どこかロザファのように聞こえた。俺はタラモサラタのバゲットを咀嚼し飲み込んで、リヴィオを見る。

「想像がつきませんね、そもそも、そのは何を意味するんです」

「さあな、人によって異ってくるだろう」

「俺にとっては日々メシが食えて、安全に住む場所があることですよ。それから、俺の親しい人たちもそうであること」

「それが満たされたら次は、富、権力、名声、武力、そういったものだろうか」

 静かに話す銀色の髪が潮風にほつれる。正反対だと思っていたけれども、やはりゼノに似ている。どこか寂しくて、寂しいから人に優しい。違うのは、ゼノは何も持っていなかったけれど、リヴィオは何でも持っている、ということだ。などと考えていたら、見透かされたように意地悪く笑われた。

「ゼノが貴様に譲り渡したものはな、『ニケの首』の一部だ」

「は?」

 あの野郎、本当に何も言わなかったんだな。押し付けやがって。見た目からはあり得そうにない悪態を噛み潰し、リヴィオはワインをあおった。俺は取り分けたイェミスタを落としそうになる。

「勘違いするな、女神の顔は完璧だ。分割債権のことを言っている」

 分割債権! つまり『ニケの首』を“所有“している者が複数いるということだ。ロードスの美しい風景と爽やかな気候の中にいて、俺はぞわりと背筋に悪寒が走る。絶対の勝利を得るには、分割された債権を全て回収しなければならない。

「我々が50%以上を保有しているが、その他は11に分割されている」

「それが“十二人のコロス”なんですね」

「そうだ。本来の持ち主はゼノだが、あいつが分割して売り払った」

 あいつがそちらでどういう暮らしをしていたのか、私は知らない。だが貴様を見れば予測がつく。幾らでも豊かに生活できたろうに。こんなに早く逝ってしまうとは。リヴィオの視線から光が失われる。呼吸ができないとでもいうように、言葉が空回りする。あいつこそ、何もかも持っていってしまったんだ。栄誉を売り払って、罪でさえ。


***


 ロードス島の城壁は、十字軍のヨハネ騎士団が築いたものである。俺はリヴィオについて石畳の道を歩く。拘束されているわけでもないし、監視されているようでもないので、逃げ出すこともできると思うが、どうしたらよいか分からなかった。ゼノが俺にニケの首の債権を譲った、総額までは聞いていないが、相当なものなのかもしれない。実感はわかなかった。だって、そうだろう、欲しかったのはそんなものじゃない。ゼノの寂しさを何とか埋め合わせたかったし、それが俺ではできないことに憤っていたし、悲しかった。今目の前に、ゼノがずっと必要だった男がいる。けれどこの男も、一番大切なものを失ってしまった。ニケの首が何になる。誰も勝利などしていないではないか。


 城壁には幾つもの門がある。ダンボワーズ門を潜って、リヴィオの肩越しに木漏れ日が揺れるのを眺めながら、俺は尋ねた。

「ゼノは何故、“ニケの首”を売らなければならなかったのですか」

 金のためだとは思えない。それにニケの首こそ、ゼノがリヴィオと一緒にいられる理由だったのなら、何故手放さなければならなかったのだろうか。騎士団長の館に入ると薄暗くなり、足元のモザイクからひたひたと冷気が昇ってくるようだった。石と煤の匂いがする。ここには何百年の歴史が息を潜めている。

「……15年前」

 闇と影が溶けて混じりそうだ。リヴィオの声が石の壁に反響するようで、俺はその小さなさざめきと煤色の染みの中に閉じ込められる。

「祖国のために、必要だと言ってきた」

 15年前のギリシャ、と考えて、俺は小さく息を飲んだ。ゼノの祖国でもあるが、ニケを生んだ国だ。還さなければならない、とゼノなら思っただろう。2009年、ギリシャを発端とする欧州債務危機の始まりである。

「支援の枠組みは取り敢えずできた。裏から資金を流し続けた者がいる」

 支援総額は2500億ユーロを上回る。そのうちどれだけがニケの首への対価なのか割り出すことは不可能だ。ゼノはそれまでも、経済格差や自然災害、戦後復興にどうやったら金を回せるのか考えていたから、ギリシャ危機は実行に移すきっかけに過ぎなかったのかもしれない。我々の親組織ファミリーは反対し、ゼノは身を隠した。私はあいつの片棒を担いだだけだ。

「闇オークションで出回る金は、正規の経済活動からあぶれたものだ。使い道がある」

 その声に満たされた水底に沈められ、全身へ浸透してくるような感覚に、俺はかぶりを振った。

「“勝利”とは何か? 金で得た勝利も武力で得た勝利も、すぐに失われる。貴様の言った『毎日食えて安全なこと』を万人に永続的に実現たらしめること、それが我々の勝利だ」

 俺は拒絶する言葉を持たない。メデューサのモザイク画が薄暗い視界に浮かび上がっている。そうだろうか? まるで『神』のような言い草ではないか。俺がゼノを想うのは、そんな大それたことをしたからじゃない。日々市井で殴られても馬鹿にされても、優しく賢くあることを諦めなかったからだ。研究者崩れが掘り出した人類の至宝と、マフィアの末端で燻っていたチンピラが出会って、世界をコントロールできるほどの金を動かす闇オークションを創り上げた。けれども、行き着く先はどこだと言うのだ?

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