3

 ニケは勝利の女神であり、しばしばアテナ神に従う。

 サモトラケのニケ像は、1863年にサモトラケ島で発掘された。当初から頭部と両腕は不明であった。紀元前190年頃にロードス島で作成されたと推定されているが、諸説ある。大理石製、高さは244cm。


 ではその首はどれほどの大きさなのだろうか、ハンナが解剖学的に説明してくれるのを横に聞きながら、俺はアテネ行きのフライト・チケットを予約する。

「ねえ、マリクは私が説得するから、やめときなさいよ」

 が闇オークションに出るなんてマユツバものよ、今更世論の大勢は変わらないわ。なんでそんな不確定情報のために技術班から人を派遣しなきゃならないの。ハンナはきれいに引かれたルージュを引き締めて言う。

「特別捜査官が皆出払っているからですよ、ハンナ。それに俺が希望したことです」

 ゼノには聞き取り調査や情報提供で助けられましたから、何かお返しがしたいんです。正直そんな闇オークションがあるなんて半信半疑だったけれど、捜査という取っ掛かりができて運が良い。努めて平静に言ったつもりだが、ハンナは気の毒そうな目でこちらを見た。

「深く関わっては駄目よ。ゼノだって、最後まで隠して、あなたと友人でいたかったはずなのだから」


***


 ごつ、と携帯電話が頭上に落下し、俺は目を覚ました。カウチから慌てて起き上がると、頭部と腹部とあちこちの痛みで息が詰まる。呻めきながら、既に随分高く日が昇っているらしい明るい窓辺に立つ影を見上げた。

「何度も鳴っているぞ。心配性なママンだな」

 午前の光を受けて、男は天使のように美しい。下にスウェットしか着ていないが。今しがたシャワーを浴びてでもきたのだろう、昨夜想像した通り、薄く筋肉のついたしなやかな輪郭だ。俺は血圧が急激に上がりすぎて、声が出ない。

「……上着着て下さい」

「ここは私の取った部屋だがな」

 貴様にそんな甲斐性が有れば、服を着ていてもいなくても関係なかろう、そもそも私に手を付けられるとも? せせら笑われても昨日ひっぱたかれた顔面から鼻血が出そうである。

「いいんですか?」

めろ、と言っている」

 床で再び鳴り出した携帯電話をのりのろと拾い、俺はシャワールームに閉じこもった。防音はあまり期待できないが、気分の問題である。

(ベネット! 大丈夫なの)

 非通知からのコールはハンナだ。さてどう言ったものだろう、と濡れたバスタブに座り込む。もうさんざん蹴飛ばされてパンツもシャツもズタボロなので、気にしない。

(報告も無いし、掛けても出ないから)

「申し訳ありません、接触はできたんですが、潜入できるかは微妙で」

 さすがに軟禁されているとは言えない。自分の失態には間違い無いが、支部の他の人間が救援にやってくる事態は避けなければならない。この忙しい時期に迷惑をかけたくないのもあり、リヴィオの警戒を更に頑なにするのも考えものだ。もっとも俺たちのことなど煩わしい小蠅くらいにしか思っていなさそうだが。

「詳細は夜に……明日報告します。そちらは変わりなく」

 はあ、とハンナが呆れ半分諦め半分に溜息をつくのが受話器越しに聞こえる。

(向こうの内部で揉めているみたい。マリクが頭を抱えてるわ)

 話しながら歩いているようで、マリク、と名を呼びオフィスに入る気配がする。時差は7時間、NYは真夜中過ぎのはずだ。つまりこの人たちはまだ職場にいるのである。スピーカーに切り替わり、大音響の『High Hopes』が流れてきて、携帯を耳から離す。マリクはデスクワーク中もの凄い音量をかけているのが常だ。

(ベネット、連絡が取れて良かった。安全かね? しばらく待機してくれ)

「政治的な問題が?」

なのでこちらも大声を張り上げることになってしまう。

(どちらも法廷案件を抱えているからな。全く……)

「私は“めろ”と言ったはずだが」

 シャワールームの扉に寄りかかり、タイルの壁に向かって声を張り上げている俺のパントマイムを見ながらにやにやしていたらしい男が、やっと口を挟んだ。俺は慌てて携帯のマイク部分を手で覆い、掛け直します! とだけ言って切る。

「賑やかだな」

 涼やかな目元にまた見惚れそうになるが、折角やっと手元に戻ってきたのであろう携帯を離すまじと身構える。体格と打たれ強さだけはあっても、殴り合いになれば全く勝ち目は無いことは実証済みだ。ハンナは俺たち技術班のマネジャー、マリクは支部のナンバー3で、ふらふらしていた俺を雇ってトレーニングしてくれた。だから俺はあの人たちとあの人たちが助けたい人たちのために働くのであって、組織がどうとか政治的対立がどうとかは二の次の問題だと思っている。

「貴様らの事情には興味がない。まずはシャワーを浴びろ」

 虚勢を張る俺を一瞥し、リヴィオは上品に言い捨てると出ていった。睡蓮の残り香が鼻先を撫ぜて俺は低く唸り、頭を冷やすためにシャワーを捻った。


 バスローブを引っ掛けて出てくると、新しい衣服が一式揃えられていた。スタンドカラーシャツにテーパード。恐らくイタリアの名ブランドだが、そちらの方面には詳しくないし、普段はポロかネルシャツを着回している。ラップトップを開き優雅にコーヒーを飲んでいる男が視線で促してくるのでしぶしぶ身につけると、ぴったりである。どうして俺のサイズを知っているのか、恐ろしくて訊きたくはない。

「さて、開催は明日だ」

 腰掛ける男の前に、俺はそれこそ競りにかけられ吊るされている魚のごとく立ち惚ける。絶対的な支配者に観察され、手も足も出ない。

「明日……? 偶然ですか、それとも?」

「投票日前に開催する予定は通告済みだ。詳細な日時は直前に決定される」

 魅惑的な声が淡々と説明するが、俺をもう一度見ると、態とらしく溜息を吐いた。そのあこぎさまで美麗なのだから、どうしようもない。

「貴様のもせねばならんからな」

 しかしマリクに『待機しろ』と言われているので、出席してもよいものだろうか。と思考が滑ったところで、またもや予測に反する文脈が出てきて、俺は盛大に眉を顰めた。

「“俺の”“お披露目”?」

「そうだ。ゼノは貴様に『コロスの一席』を譲ったのだからな」

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