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 子どもの頃の世界は小さく、俺はいつも路地裏に縮こまって憤っていた。腕っぷしが強いわけでも、口が立つでもなく、自分の無力さが歯痒くて、ただ親父の体罰のせいか打たれ強くはあったかもしれない。両親はよく喧嘩をしていたが、仕事や人間関係で嫌なことがあると、やはり互いにしか捌け口を求められないので一緒にいる、みたいな関係に見えて、そんなだから特別優秀でもない息子に向ける注意力など無い。姉の方が成績も良かったし、手伝いもよくしていたが、今考えれば彼女もそうするしかなかったのだろう。さっさと結婚して、さっさと家を出ていった。時々連絡をくれる。西海岸で平穏に暮らしていてくれるといいと思う。


 ゼノとは、とある捜査で知り合った。年は親子ほど違うし、こういう言い方は好きじゃないが、俺はこんなでも権力側にいる人間で、ゼノは低賃金労働者として扱われていて、でも話さないだけでゼノは博識だし思慮深いし、俺にも丁寧に接してくれた。きっと、困難な過去を生き抜くために身につけたものなのだろう、俺は自分の浅はかさが恥ずかしくなったけれど、ゼノは俺にも子どもたちにも分け隔てなかった。


「こんな若造を寄越すとは」

 恐らく人払いがされていた。男―リヴィオと名乗った-は俺の質問に答える代わりに、優雅な身のこなしで鳩尾に一発入れ、ふいのことで受け身が取れず、膝を着いた俺の顳顬こめかみを蹴りとばした。酒精のせいもあり、もしくは何か盛られていたのかもしれないが、俺は昏倒し、目が覚めたのはベッドの上だった。このところずっと夢見が悪いが、今夜は最悪だ。古いが堅牢なつくりの部屋は、俺の取ったホテルではない。窓から差し込む月光に晒され、俺をベッドへ縫い付けているのはリヴィオだ。ジャケットは脱いでいるが、ジレとシャツの上からでも細身ながら鍛えられた筋肉が見て取れる。夜気に仄かに匂い立つ、生きた彫刻のように美しい男だ。

「地中海は貴様らの領域ではない。まずブリュッセルに礼儀を通せ」

 長い脚が蛇の如く体幹を締め上げ、ハンドナイフで首筋をはたかれる。口の中を切ったのか、錆びついた味がする。ロードスにはヘリオス神の巨像伝説があるが、尊きものにへりくだり、支配される陶酔感というものを少し理解しかけた気がした。まったく危うい。

「“ニケの首“の会員に国籍は関係ないでしょう」

「個人の国籍はな。だが国が金を出すとなると話が変わる。ベネディクト・レシ技官」

「別に会員になりたいわけじゃない。ゼノの手紙を渡したい相手がそこにいるはずなんです」

 なんと甘美な対面であることか、殴られたせいか薬のせいか、思考が泡立って霧散していく。“ニケの首“はもともと、イタリアのマフィアが仕切っていた小さな闇市場から始まったのだと聞く。今や地中海沿岸で最大規模の闇オークションとなったのは、もちろんニケの首が看板商品であるためと、主催者の手腕も大いに貢献しているだろう。非正規のルートで流出した美術品や宝飾品を扱ってきたが、最近ではそれこそ“アート“つまりと呼べるものなら何でも、某国防省やメガバンクのデータベースアクセス、武器の密売契約書、鉱山開発の権利書、新型のサイバーウイルス、DNA解析情報、要人のスキャンダル等々、数億ドルから数万ドルで取り引きされる。この男はその幕内におり、何でも持っていて、何でも知っている。ただそれを日の光の下で享受することは叶わない。まるで冥王ハデスだ。

「貴様の欲するものはここに無い」

「目の前にある。あんた、なんで会いにこなかったんだ」

 身体は重く動けないが、俺はこれ以上ない嫉妬と怒りで男を睨めつけた。蔑みの視線は失せて、リヴィオの海底のような瞳に僅かな光がほとりと映る。

「……ゼノがいつも見上げていたのは“自由の女神”じゃないって、気づくのが遅すぎた」

 俺は脱力して枕に頬を擦り付ける。上質なリネンだ。子どもの頃寝ていた汗臭くてぺらぺらのものとは大違いだ。

「手紙は上着の内ポケットです。もうご存じかと思いますが」

 不貞腐れて顎をしゃくり、闇オークションの主催者にまで上り詰めた男を使ってやる。俺の首元にナイフを突けたまま、リヴィオは冷たく乾いた指先で俺の脇腹をまさぐった。かりそめの主人すらいなくなった陰気な部屋には、黄ばんだマットレスとヒビの入った衣類箪笥、摩耗したティーテーブルに椅子が一脚、それとスケッチブックしかなかった。俺宛てのメモもそこに挟まれていて、あとは年月を経て淡くまどろんだ描線で笑う人。

「だから城壁で、あんただと直ぐに分かった」

 俺のほとんど泣き言みたいな呟きを無視し、リヴィオは封を切って手紙の内容を確認しているようだった。勝手に開ければいいものを、自分宛てだと知っていただろうに、それとも何か恐れていたのだろうか。だとしたらいい気味だ。

「読んだか」

「そこまで無粋じゃない」

 いつの間にか完璧な平静を取り戻し、リヴィオは俺に尋ねた。良心というより、ゼノが俺に隠していたことを、これ以上知るのは辛かった。リヴィオは少し考えるように薄い唇を撫ぜ、俺の上から退いた。椅子に掛けられていたジャケットを取り、押さえは無くなったが遅れてやってきた全身の痛みと疲労で這いつくばるしかできない俺を残し、ドアへ向かう。取手に手をかけたところで振り向いた。

「次の開催から出席を認める」

 不様に足元に縋る俺を見下ろし、リヴィオは若干渋った声音で宣言した。俺のぐらつき始めた思考では一瞬理解できず瞬きすると、もう一度蹴とばされた。

「戻るまで寝ていろ」

 後は踵を返すとさっさと出ていってしまう。外側からドアに鍵の掛けられた音がした。俺は織りの見事な絨毯の上でひとしきり泣き、眠りに落ちた。

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