第14話 都内、風松本家②

 現在、風松かぜまつ本家を取り仕切っているのは、風松祝子ときこという女性である。風松眞一しんいちの母親で、亡くなった風松楓子ふうこの妹でもある人物だ。


「……荒れているな」


 眞一の案内で風松邸に上がり込んだ錆殻さびがら光臣みつおみは、開口一番そう言った。眞一は肩を縮め、


「呪いが……」

「単に家庭内を清潔にする努力を怠っているわけではなく?」

「そ──それは違います! 母はそのような人間では……!」

「まあいい。俺たちは風松祝子ときこ氏に面会する必要があるのか? それとも」


 と、光臣は肩越しに響野きょうこ憲造けんぞうを見遣り、


「移動中にこの記者から聞いたが、呪われているという女性の話を聞くべきなのか?」

「それは──」


 答えに迷う様子の眞一に、「兄さん」と声をかけた人物がいた。念の為光臣の革靴と自分のスニーカーをビニール袋に入れて引っ提げる響野の視線の先には、眞一とどことなく似た面差しの女性と、まったく似ていない顔立ちの男性が立っている。「兄さん」は女性の声で発音されたような気がする。つまり。


「あずさちゃん……光臣さん、いえ、光臣先生。従姉妹の時藤ときとうあずさです。彼女は……」

「時藤」


 小首を傾げた光臣が、平坦な声で呟く。


「時藤叶子きょうこ氏のお身内ですか」

「母です。……こっちが、夫のたけしです」

「初めまして」


 横柄な口調で適当な挨拶をした光臣が、しきりと目配せを寄越してくるのが分かる。「何か感じるか?」と問いたいのだろうが、そんなことを聞かれても返す言葉を響野は持たない。錆殻光臣がであるのと同じように、響野憲造もただの雑誌記者でしかないのだから。

 やはり本物を──市岡いちおかヒサシかその兄の稟市りんいちを引っ張ってくるべきだっただろうか。稟市は本物である上に本職が弁護士なので、こういった場に連れ出すとなると結構な大金が必要になるのだが──


「人形に呪われている、と聞きました。ですが具体的な話はまだだ。あなた方の娘に、何が起きているんです?」

「の、呪い、です」


 時藤あずさが震える声で繰り返す。光臣が小首を傾げる。口の中で小さく舌打ちをしているのが、響野にだけ伝わる。


「見て……いただけますか、光臣先生」

「ええまあ。そのために来たわけですし」


 光臣に現場を──呪いの現場とはいったい何なのだ──を見せたところで何も好転しないのだが、風松家、時藤家の人間に「彼は本当は偽物なんですよ」と伝えてもそれこそ何の意味もない。錆殻光臣は凄腕の霊能者、としてテレビをはじめとするメディアで有名で、人気があるのだ。風松楓子の身内たちが何かを隠しているとして、それが呪いに関わる事象であるとするならば、ただ一度風松楓子にインタビューをしただけの雑誌記者である響野よりも光臣に対しての方が素直に口を開くだろう、と思って彼を連れてきたのだ。光臣とて、その点については承知している。


(それにしても)


 室内の空気がひどく澱んでいる。先ほどの光臣の言葉を借りるならば『荒れている』。外から見ている分には立派な日本家屋といった雰囲気だったのだが、室内のこの暗さはいったい何事だ。


「……光臣さん」

「灯りは? 廊下が薄暗い」


 阿吽の呼吸、とでもいえば良いのか。光臣の察しの良さには舌を巻く。小脇に抱えたコートを軽く引っ張っただけで、響野の欲しい言葉を光臣は口にする。「それは」と一同を先導する時藤武──呪われているらしい時藤叶子の父親が顔を顰める。


「娘が……嫌がるもので……」

「何を? 電灯を?」

「いえ、光、全般を」

「なるほど。だから雨戸もすべて締め切っている」


 顎を撫でながら、光臣は唸るように続ける。この家の異様な暗さはそういうことか、と響野も遅れ馳せながら合点する。時藤叶子に直接関係のない部屋の雨戸もすべて締め切っているせいで、玄関にも、廊下にも、どこにも光が入らない。


「あなた方は」


 背中を丸めて歩く武、その側に寄り添うあずさ、更には従姉妹夫婦に付き添うように足を進める眞一──そういえば全員光臣と同世代ぐらいに見える──を見下ろしながら、光臣は言った。


「何を根拠に呪いが発生していると?」

「根拠?」


 弾かれたように顔を上げたのは、あずさだった。切長の目を吊り上げて、挑みかかるかのように長身の光臣を睨み据える。


「そんなの、決まってます! 伯母が──楓子が……!!」

「風松楓子さんは既に亡くなっている、と認識していますが」

「亡くなる前に、あの、あの人はっ……叶子に……私の娘に呪いを……!!」

「あずさ、やめよう。せっかく光臣さんが来てくださったんだ、見てもらった方が早いよ」


 今にも噛み付きそうな勢いのあずさを、武が生気のない声で制する。「亡くなる前に」と光臣は相変わらず平たい声で繰り返し、


「『』と『』」


 唐突に口にした。風松楓子の血縁者たちが鋭く息を呑むのが分かる。

 響野は、言葉とともに足を止めた光臣の背中にぶつかって転びそうになった。そうでなくてもその場で引っくり返りそうな気持ちだった。


 この男は先程も『祝』と『禍』と口にした。冷静に考えてそれらの言葉はまだ、切るべきカードではないはずなのに。


「光臣先生、先ほどは聞きそびれてしまいましたが、いったいなぜ……」

「どういうことなの、眞一くん」

「心当たりがおありで?」

「心当たりも何も──……!!」


 あずさが声を張り上げた刹那。空気の色が変わった。

 色だけではない、匂いも。

 霊能者でもなんでもない響野にも分かるほど、禍々しい匂いだった。

 目の前に立つ光臣の顔を見上げると、「あれか」と大きく舌打ちをして何かを睨んでいる。

 視線の先には、扉があった。日本家屋にはどこか相応しくない、洋式の、飴色に磨かれた木製の扉だった。


 扉の前には、人形が置かれていた。


 一体や二体ではない。

 十体や二十体でもない。

 数え切れないほどの人形たちが、整然と並んでこちらを見──


「み、光臣、さん」

「ああ」


 目が無い。

 光臣が抑揚のない声で言う。


 そう。人形たちには目玉がない。


 眼球を取り外せるタイプの人形の眼窩は闇と同じ色。

 日本人形のように目を描くタイプの人形は、目が描かれているはずの場所に穴が空いている。

 さらにはぬいぐるみ、テディベアのボタンの目は取り外され、アミューズメント施設で手に入れることができるマスコットのプリントされた目はそこだけ丁寧に切り取られている。


「叶子……」


 あずさが絞り出すように娘の名を呼び、その場に膝を付く。

 はあ、と光臣が露骨にため息を吐く。


「演技はおやめなさいよ。俺には通じない」

「な……」

「あの扉の奥にお嬢さんが? 失礼する」


 光臣が──大きく足を踏み出して飴色の扉に近付く。響野は息を止めて、その背中をじっと凝視する。

 何が起きる。

 何も起きなければそれで良いのだが。


 ──音がした。

 ザザ、と。硬いもの同士が擦れるような、厭な音だった。


「光臣さ──」

「ああ、大丈夫だ、……いや駄目だ」


 扉を開けることなく、触れることもせずに光臣が体ごと響野を振り返る。

 その端正な顔のど真ん中、形の良い鼻から真っ赤な血が滴っている。

 うわあ、と悲鳴を上げたのは武だった。眞一は言葉もなくその場で腰を抜かしている。気丈な表情で真っ直ぐに光臣を見詰めているのはあずさだけだ。


「血だ」

「見りゃ分かりますよ光臣さん! なん、で、急に……!」

「だから言ったじゃないですか! 呪いだって! 娘は今、!」


 悲鳴ではない。ただ──まるで飴色の扉の向こうにも届けと願うかのような大声で、時藤あずさが叫んだ。


「だから……娘を呪いから解放するために……返してください、『祝』と『禍』を!」

「そういうことか」


 くちびるの上にまで滴ってきた鼻血をぺろりと舐めた光臣が、うんざりとした様子で吐き捨てた。そうして、


「帰る」

「帰る……えっ光臣さん!? ここはこのまんまで? 帰るんですか?」

「俺にできることはない。今のところは」


 あずさの肩を左手で押し退けた光臣は右手をスラックスのポケットに突っ込み、


「あなた方もこの部屋にはあまり近付かない方がいい。特にお母さん、あなたはこの中にいるモノに餌を与えていますね? 必要ないですよ。腹が減ったら勝手に出てくる」

「え、餌……!」

「残念ながら一日程度しか効果はありませんが」


 と、光臣がポケットから掴み出したのは、


「塩!」


 粗塩だ。透明のビニール袋に無造作に詰め込まれた塩を、光臣はその場にいる全員──あずさ、武、眞一に振り掛け、


「また来る。おい、


 ついでのような手付きで飴色の扉の前にも振り撒くと、踵を返してすたすたと玄関に向かう。

 光臣は、一度も飴色の扉を振り返らなかった。

 だが響野には聞こえていた。


 ザリ、ザラ、という、苛立ちを示すような不穏な音が、飴色の扉の中から響いている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る