第20話 月明かりの下で

「心配して損した気分……」


 詩桜が懐に忍ばせていたイチゴ飴をあげると、灯真はいくらか落ち着いた。腹の虫は、深夜に近所迷惑なほど騒いでいるけど。


「仕方ないだろ。動くと腹が減るし、傷を負えば身体はそれを治そうと、力を余計に使うんだ」


 二人で土手に座り、飴を舐めながら月を眺めた。たまに風が、着物の袖を揺らすように吹く。詩桜はそのたび、妖し風かと不安になったが、重く淀む気配はしなかった。


「……助けてくれて、ありがとう」


 散々心配させといて、腹が減ったと言い出した灯真に対し、文句が先に出てしまったけど、灯真がいてくれなければどうなっていたか分からない。


「なにをしにここへ来たんだ? いつも以上に無防備で」


 言い淀んでしまう。巫女の誓い刀を奪われてしまったなんて大事だ、言いづらい。


「どうして口籠る……まさか、お前」

「な、なに!?」


 刀を奪われたことがばれてしまったのかと、詩桜の心臓がバクバク騒いだのだけれど。


「またあの男と逢引か」

「はい?」

「はいって……随分と潔く認めるんだな」

「ま、待って。落ち着いて。灯真は、なにかとてつもない勘違いをしていると思うの」


「ふん、せいぜい喰い捨てられないよう気をつけるんだな。お前の血がどんなに極上だろうと、そのうち飽きられ……ダメだ、飽きるわけがない。俺は一生お前の血しかいらないのに……」


 怒りだしたかと思えば、今度はへこんだ声でなにやらブツブツ言っている。


 なんのことやら。会話が噛み合ってないと思いながら、灯真がこれ以上暴走しないよう、詩桜は仕方なく重い口を開いた。


「ぬ、盗まれてしまったの」

「お前の心がとかいうオチなら聞きたくない」

「そんなものより重要な、誓い刀が! ……盗まれてしまったの。アカツキという人に」


 ヤケクソになりながら事情を説明した。

 自分は刀を盗んだ犯人を追って、こんな場所まで来たのだと。


「なんだ、そんな理由か」

「そんな理由って……そういう灯真は? どうして、突然現れて助けてくれたの?」

「それは、屋敷に帰ったらお前がいなかったから、お前の美味そうな匂いを辿って」

「そっか……」


 暫しの沈黙が続く中、灯真の腹の虫はいまだ鳴り止まない。


「……ずっと、思っていたことなのだけど」

「なんだ?」

「灯真は、その……モテるでしょ。灯真のために、自分の血を差し出してくれる女の子だって、たくさんいるのに……」


 学校の生徒にも、詩桜が知っているだけでたくさんだ。


「なのに、どうして、いつもお腹を空かせているの?」


 どうして、わたし以外の血で、空腹を満たそうとはしないのだろうと、ずっと疑問だった。


 灯真は少しの沈黙の後、静かに答えてくれた。


「……お前以外、喰うわけないだろ。俺は、言うならば、偏食のおちこぼれ吸血鬼なんだから」


 突然、自分がおちこぼれだなんて。灯真には似合わない言葉だと思った。

 ちょっぴり型破りな性格を除けば詩桜にとって灯真は、すべてにおいて完璧だから。


「おちこぼれっていうのは、わたしみたいなのを言うんだよ。誰にも認められず、挙句の果てに誓い刀を敵に奪われてしまって」

「……俺たちは、似たもの同士だ。そうだろ?」

「似たもの同士? あなたとわたしが?」


 首を傾げる詩桜に、灯真は苦笑いを浮かべる。


「前に、お前が言ったんだぞ」

「わたしが?」


 どこかでそんなセリフを言った気が、しないでもない。けれど過去の記憶を辿っても、昔に灯真と出会った記憶はない。


 だから、おそらく灯真が言っている、その言葉を言った少女は本物の……。


「まだ思い出せないのか? 昔、お前は俺を助けてくれた」


 優しく目を細める灯真を見れば、それが彼にとって、どれほど大切な思い出なのかが伝わってくる。

 だから余計に詩桜の胸は苦しくなった。


「俺は一族の落ちこぼれだから……何度もやさぐれそうになったけど、お前の隣に立つのにふさわしい男になりたくて、守護者になったんだ。そのためなら、血を吐くような努力も苦じゃなかった」


 だから、再会できた日、気持ちが押えくれなくなったのだと灯真は言う。


「けど、お前は本気で……俺との記憶を自分の中から消したくて、俺のことを忘れてしまったのかもしれないな。それほど吸血鬼を憎んでいるなら」


「あ……」


 だとしたら、お前の前に再び現れるべきではなかったと言われそうで、それは違うと伝えたいのに。


 やっぱり言えない。自分一人の問題じゃないから……と言うのは言い訳なのかもしれないけれど、詩桜は口を噤んだ。


(ごめんなさい、灯真……わたしは偽物だから、覚えていないんじゃなくって、知らないだけなんだよ。あなたと本物の星巫女との思い出を……)


 灯真は、複雑な表情を浮かべた詩桜には気付かずに、話を続ける。


「俺は、人の血が飲めない偏食のおちこぼれだった。そんな俺が唯一美味いと思ったのが、お前なんだ。だから、他の女から血を貰うなんて、無理に決まってるだろ」


「わたしの血しか……」


「他の奴の血は、血生臭くて飲めたものじゃない。口に含むだけで吐き気がする。お前だけだった。後にも先にも、甘美で俺を酔わす味の持ち主は」


 それは吸血鬼にとって、致命的なことだと詩桜にも分かる。特に純血種に近い吸血鬼ほど、血とは自らの魔力を維持し、強靭な肉体と寿命を保つのに必要なもの。


 本当は今、左腕や頬に負っている傷だって、純血種ならば治癒能力により、とっくに治っている程度のものだ。


「俺は、ここ数年、人間と同じ食事しかとっていないからな。この肉体は、すでに魔力の殆どを失い、人間と対して変わらない」


 通常の食事により、灯真は普通に成長してきたように見えるが、魔力の宿っていない肉体は、吸血鬼にとっての普通ではない。


 吸血鬼は、人間のいう成人の頃になると、身体の成長速度が急激に緩やかになる。そのことで、人間の何倍もの年月を生きるし、若さを保つのだ。


 けれど、今の話を聞く限り灯真は、成人を迎えても、他の吸血鬼より早く老いていくのだろう。


「だから、いつもお腹を空かせていたの?」


 灯真の腹の音は、普通の空腹で鳴るものとは違う。魔力を失いかけた身体が、からっぽになってゆくのに、悲鳴をあげる警告音のようなものだったのだ。


「ごめんね……」


 詩桜は灯真に頭を下げると、自ら近付き目の前で正座した。


「なんだ、突然」

「ごめんなさい。血、わたしのでいいなら飲んで? そうしたら、その怪我も治るでしょう?」


 灯真が求めているのは、本物の星巫女の血だけなのかもしれない。


 けれど詩桜のことも、いつも美味しそうだと言ってくるから、本物ほどじゃなくとも、灯真が受けつけられる血である可能性は、あるのではないかと思った。


「震えているぞ」

「だ、だって、痛いのは怖いもの。それに吸血されるのは……苦手なの。昔のトラウマが蘇るから。でも、我慢する」

「……俺が怖いのにか?」


 そう問われ詩桜は、改めて灯真を見つめ考えてみた。


 金の瞳はとても綺麗で魅惑的で……頬に滲む血は、先程自分を捨て身で守ってくれた証。自分と同じ、赤い血が流れている。


「怖くない……とは言えないけれど、灯真のことは、嫌いじゃない、と思う」

「ふーん」

「だから……吸血されてもいい」

「じゃあ、少しだけ」

「ひゃっ!?」


 いきなり右手を掴まれ、掌を舐められたので悲鳴をあげてしまった。その瞬間、じりじりと痛みを感じ、自分も怪我をしていたのだと思い出す。


 先程、吸血鬼の者たちとの戦いで、手や肘やあちこちにできた擦り傷を、灯真はまるで癒すように丁寧に舐めとる。肌を這う舌がくすぐったくて、緊張したけど怖くはなかった。


 すると詩桜の出血なんて微々たるものだったのに、それを舐めただけで灯真の頬の傷は癒え、腕の傷も随分と浅いものへと塞がれてゆく。


「やっぱり、美味い。お前は最高の果実だ」

「本当?」

「俺はお前に嘘なんて吐かない。どんなに拒まれても……俺には、お前だけだ」


 肌にかかる熱い吐息と眼差しで、詩桜の頬はいっきに朱色へ染まった。


(よかった……偽物のわたしでも、灯真の役に立てるんだ)


 俺にはお前だけだなんて。血の事を言われているだけなのに、勘違いしてしまいそうになる。


 けれどその勘違いだけはしてはいけないと、詩桜は自分を戒めた。

 自分はどんなにがんばっても、偽物でしかないのだから。


「……いや、だったか? 泣きそうな顔してる」

「っ……」


 不安げな顔をしている灯真へ、首を横に振って答える。


「今日は、ごめんなさい……ひどいことを言って。吸血鬼なんか、いなくなってしまえばいいなんて、横暴にも程があることを」


 いまさら、言い訳がましいかもしれないけれど、詩桜は今、自分が伝えられる限りの正直な気持ちを、全部彼に伝えたくなった。


「確かにわたしは、吸血鬼たちのせいでひどい目に遭ったことも、一度や二度じゃないから。正直に言うと、吸血鬼が怖いの……。自分から清めに向かっているくせに、凶鬼は身が竦む程に恐ろしい。でもね、だから吸血鬼が消えてしまえばいいなんて、本気で思ったりはしていない。平和に共存できる世界を願っているから、微力だけれどわたしは舞う道を選んだの」


 そうだ。最近、焦ることばかりで忘れていた。初心の時、心に誓った想いを。


「昼間は、言い過ぎました、ごめんなさい。反省してます。だから、お願い。一緒に帰ろう。灯真がいない夕食……とっても、寂しかった」


 口に出して初めて気がつく。灯真に半日会えなかっただけで、自分はこんなにも寂しかったのだと。


「ごめんなさい、嫌いなんて言って」


 詩桜は、たどたどしく顔を上げ、灯真の表情を窺った。すると灯真は笑っていた。優しげな笑みだった。


「そうだ。あんなおぞましい台詞、二度と俺に吐くな」

「ふふ、おぞましいって」


「笑いごとじゃない。言って良い言葉と悪い言葉がある。お前に嫌いって言われるのは……俺に、鉄バットで後頭部を殴られるより衝撃的で、後を引く痛みを与えるんだぞ」


「えぇっ!?」

「言われた瞬間、眩暈でおかしくなるかと思った」


「そ、そんなに?」

「お前の言葉は、俺の心に触れるものなんだ」


 そう言って、灯真の手は詩桜の頬に触れた。親指の腹で唇を撫でられる。


「とう、ま……?」


 人を惑わす吸血鬼の優艶な眼差しは、娘一人虜にするなど容易いこと。だが、分かっていても魅入ってしまう。


「そんな女、他にはいない。だから……無性にお前が欲しくなる」

「それは、お腹が空いているからじゃなくて?」

「どっちでも同じだろ? 俺が執着するのは、この世でお前だけだ……詩桜」


 かなり分かりづらいけど、でも灯真なりに詩桜の価値を、認めてくれているのかもしれない。そんな不器用さは、どこか愛おしかった。


「灯真……」


 自然に、引き寄せられるように、互いの顔が近付いて……けれど触れる前に我に返る。


「なんだか顔が近すぎですがっ」

「当たり前だろ。くちづけしようとしてたんだから」

「な、なんてことしようとするの!?」

「今のは明らかに、お前だって乗り気だっただろ」

「そ、そんなわけないっ。灯真が顔を近付けてくるから、うっかり目を閉じかけてしまっただけでっ」


 そう、まるで、催眠術にでも掛かってしまったかのように。


「つまり乗り気だったんだろ? 続きをしよう」

「し、しません!?」

「じゃあ、味見だけ」

「灯真の味見は、結局キスってことでしょ。しませんってば!」


 静かな河川敷には、詩桜の悲鳴と灯真の腹の虫が、いつものように響き渡っていたのだった。

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