第16話 吸血鬼を惹き付ける血

 詩桜がよく行くのは、あまり生徒の寄り付かない東棟の屋上。


 中央棟の屋上は、四季折々の花々が花壇に咲き誇り、ベンチなども用意されているので、屋上へ向かう生徒は大抵中央棟の方に足を伸ばし、ここの屋上は静かなのだ。


 けれど詩桜にとっては、ここが校内で一番のお気に入りの場所だったりする。ベンチも花も用意されていないけれど、星翔村を見渡す景色は少しも中央棟に引けを取らない。


 瓦屋根の家が並ぶ景色。近所に高層ビルなどはないが、南西にあたる地区では開発が進み、遠くの方にチラホラ高い建物も頭を出している。南東の方では山々が連なり自然豊かな星翔村を一望できる。


 最近気付いた。自分が思っていたより、この村はずっと美しく広かったのだと。だからこの先に違う町があり、海を越えれば異国の土地が存在するなど、まだ想像ができない。


 ちっぽけな自分になにができるか分からないけど、改めてこの村を守りたいと思えた。そうしたら、心が少しずつ晴れてゆく。


「屋上に来て、正解だったな」


 あとで遥にお礼を言おうと思っていると、詩桜の後ろになにか気配が降りてきた。せっかくの気分転換が台無しだと思いながら警戒する。


「人気のない場所で無防備だな……甘美な娘」

「っ、あなたは」


 振り向けば昨日噛み付いてきた、あの謎の吸血鬼が、嫌な笑みを浮かべ立っている。


 校内は関係者以外立ち入り禁止のはずなのに、男はいとも簡単に進入できるようだ。


 まるで誰かの手引きでもあるみたいに……。


「なんの用でっ」


 言い終るまでもなく、男は目的を行動に移す。

 詩桜は肩を掴まれ、身体をフェンスに押し付けられた。


 カシャンと、フェンスが軋む無機質な音が、二人だけの屋上に響く。


「分かるだろう。貴様の味が忘れられない……昨日の続きをしに来たのだ」

「っ!!」


 咄嗟の出来事ではあったが、そう何度も易々と吸血されるつもりはない。


 詩桜は噛まれる前に、思いっきり男の腕に噛み付いた。

 驚きと痛みから僅かに男の力が緩んだのを見計らい、脛を蹴ってその腕の中から逃げ出す。


「くっ、小癪な」


 だが、武器となる刀もないこの状況では、圧倒的に詩桜の方が不利だった。


「呪符退魔! きゃっ」


 退魔の札を使いなんとか逃げ切ろうと駆け出すが、すぐに昨日の冷たいツタが足に絡み付き、男のもとへと引き寄せられてしまう。


「覚醒もしていない星巫女擬きが、余に敵うわけがない。無駄な抵抗はやめろ」


 男はうっとりとした目付きで、詩桜の首筋を見てくる。そしてまた噛み付くために口を開いた。


 悔しい、怖い、もう逃げられないと詩桜は悟る。


 そして……首筋に走った痛みに、表情が引き攣った。


「いた、いっ」


「すぐに良くなる……さあ、邪魔者が来るまで……どれ程、貴様を味わえるか」


 がんばってもがこうとも、力の差がありすぎ上手くいかない。


 なんだろう、この感覚は。身体がふわふわと、自分のモノじゃなくなるような高揚感。


 凶鬼に噛まれるのとは、格段に違う。気持ちいい。そう思った自分が、気持ち悪い。


 気持ちよくて、気持ち悪くて、せめぎ合う感覚に詩桜は身を捩り抵抗した。


 その突如、男が首筋から顔を離したので、詩桜は夢から一気に覚めたような気分になった。


 そして、凍てつくような気配に気付く。


 そこには誓い刀を手にした灯真が……その刃を男の首筋スレスレに当て、いつものように腹を鳴らしていた。


「思っていたより早い登場か」


「二度も……俺の果実に、手を出すなと言ったはずだ」


「貴様の果実、か? 隙だらけの女を、自分の匂いも付けず放し飼いする主が悪いのだ。奪われたくないならば、契約で縛り付ければいいものを」


 灯真が表情を変えぬまま構え直したその刃を、詩桜は反射的に止める。


「灯真、だめ」


 こんな場所で、殺しなんてさせるわけにはいかない。するなら生け捕りだ。そう思ったのだが。


「ククッ、甘美な娘よ。次に会う時には、その血を飲み干してしまいたいものだな」


 口元を歪め笑う男は、詩桜の鼓膜に纏わりつくような言の葉を残し、昨日同様、煙に紛れて姿を消した。


「一体、なんだったの……」


 目的も正体も分からない男に困惑の表情を浮かべ、詩桜は緊張の糸が途切れたように、へなへなとその場にへたり込んだ。


「また……殺し損ねた」


 灯真がピリついた殺気を放ち呟く。


「軽々しくそんな言の葉を口にしないで。それに……灯真は、簡単に刀を使いすぎだよ」


 灯真が凶鬼をたくさん斬り捨てるのを、詩桜は目の当たりにしてきた。でもそれは自分を守るためにしてくれることだから、守護者としての仕事でもあるからと思い、目を瞑ってきたけれど。


 あの吸血鬼は、たとえ詩桜に手を出したとしても、狂ってはいない普通の吸血鬼。厄介だが無暗に斬り捨てるのは罪になる。


「なんであんなのを庇う。まさか、お前……あの男と裏で通じて……」


「え?」


 突然、手首を掴まれ引き寄せられる。


 驚いて見上げると間近にある金の瞳が、凶鬼化もしていないのに、嫉妬の炎でギラついて見えた。

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