第8話 腹ペコ王子

「……詩桜」


 耳元で囁く声に、起こされてしまった。時刻は真夜中だ。


 頬を撫でる誰かの指先。そのひんやりとした感触で、詩桜の眠気は一気に吹き飛ぶ。


「っ、どうして……灯真が、わたしの部屋に?」


 灯真は、詩桜の顔を上から覗き込んでいる。詩桜は、状況が把握できず固まった。


「夜中、お前が出歩かないよう、辰秋さんに監視を頼まれているからな。確認に来た」


「だ、だからって……」


 言いながら詩桜は、掛け布団を引っ張り上げ顔を半分隠すが。


「なんで隠す。美味そうな顔を、もっと見せろ」


 抵抗する間もなく布団を剥がされた。


「なな、なにをするの!?」


 たじろぐ詩桜にお構いないで、端整な顔が近付いてくる。


「き、吸血する気?」


「違う……まずは軽いくちづけから」


「なんでっ!?」


 灯真は吸血鬼なんかじゃなくて、淫魔なんじゃないかとたまに本気で思う。


「ご、ごむたいです、堪忍してください!」


 誰の助けも期待できない詩桜は、近付いてきた灯真の顔を自力で押し退けた。


「なんだその時代劇みたいな台詞は……また得体の知れない書籍を漁って、変な知識を取り入れたな」


 確かに先日読んだ本で得た台詞だったけれど、こんなにも常識知らずな灯真に呆れられるのは、不服すぎる。


「灯真だって、することなすこと変なのに……」


「詩桜じゃあるまいし、俺は変な事なんてした覚えない」


「お、覚えがないっ!? いつも、き、きすしようとしたり、するくせに……」


「あんなのただの味見だろ」


「あ、味見!?」


「変な知識ばかり耳年増なのに、詩桜は初心だな」


「うっ」


 まるでこっちがおかしいような言い分だが、なんだか納得できない。


「もっと、色んな反応が見たくなる」


「なにを、ひゃっ!」


 髪に触れられ、今度はなにをされるんだと体が強張る。そんな詩桜の反応を尻目に、灯真は一房掴んだ詩桜の長髪にそっと口付けると、艶っぽい眼差しでこちらを見下ろした。


「こうして触れるだけでも、幾分か空腹が紛れる気がするんだ」


「そんな理由でキスをするなんて、ひどい……」


 つまみ食いじゃないんだからと思った。心臓に悪すぎる。


「俺が? せっかく再会したのに、俺を覚えてないと言う詩桜だって、十分ひどいだろ」


 灯真の表情が切なげに歪む。

 そんな顔を見せられると、自分の方が悪い事をしているような気分になってしまい、胸が痛む。


 いや、本当にひどいのは、自分のほうなのかもしれない。だから詩桜はなにも言い返せなくなった。


(灯真が本当に焦がれていた相手は、わたしじゃないのに……)


 言いたいけど言えない真実が、胸に重く圧し掛かり、息苦しかった。


 詩桜には過去一度も灯真に会った記憶などない。こんな個性の強い美青年、一度でも会えば忘れないはずだ。


 けれど、詳細不明の噂によれば、幼い頃に灯真は、短い時間を星巫女と共に過ごし、それからずっと焦がれていたらしい。


 つまり、それは……灯真が想っている過去の相手が、詩桜ではない証拠。


「誓いのくちづけだって、交わした仲だったのに」

「誓いの、くちづけ?」


(それは、わたしじゃない。あなたが本当に想っている相手はきっと……)


 自分はその相手を知っている。けれど、言えなくてもどかしい。


「あの頃からずっと……お前が欲しい、詩桜」


(あなたの思い出の中にいるその子は、本当に詩桜という名前だったの?)


 すべて暴露してしまったら、灯真はどんな顔をするのだろう。


 そんなにも焦がれている星巫女の少女が、もうこの世にはいないのだと知ったら、傷つくに違いない。


「なあ、早く契りを結んで俺の花嫁になってくれ、詩桜」


(そんな切なげに、わたしの名前を呼ばないで)


「わたしは……わたしは、あなたのものには、なれないです」


 精いっぱいの意思を籠め、灯真を見つめそう訴えると、詩桜は懐に忍ばしていた札を取出し。


「ぐっ!?」


 術で灯真を吹っ飛ばして、その隙に逃げ出したのだった。


 数日はこの広い屋敷で灯真と二人きり。前からいたお手伝いさんたちは、義雄がいなくなると共に解雇され、今は誰も残っていない。先が思いやられる……。



◇◇◇◇◇



 あくる朝。詩桜は、よろよろと覇気のない足取りで高校へ向かっていた。


 今まで和服ばかりを着せられていたので、いまだに洋装に関しあまり免疫がない。


 けれど高校の制服は、白襟に学年ごとに色の違うリボンがトレードマークのセーラー服。ちなみに詩桜の学年は赤いリボンだ。


 膝丈より上のスカートには未だ慣れない。

 ただ、今元気のない原因は、そんなことではなく寝不足のせいだけど。


 灯真と一緒に暮していることは、学校では内緒なので、いつも一人で登校している。やっと気が休まる思いだ。


(これから辰秋さんが帰ってくるまで、気の休まらない日がずっと続くの? 耐えられない。なんとかしないと)


 石畳の並木道を抜けると、そこはいつはな高校、略して五高いつこうの門へと続く。


 星翔村の人間居住地区と吸血鬼居住地区の間に立てられた、日ノ本でも珍しい、人と吸血鬼の共学校。


 普通科から、退魔師を育成する特別クラスまで用意されている。


 煉瓦造りの門柱を抜ければ、レトロな洋館風の校舎が姿を現した。


「何度見ても、大きな建物」


 未だに油断すると、迷子になってしまう建物を見上げる詩桜の後ろから、聞きなれた涼やかな声に名前を呼ばれる。


「詩桜、ボーっとしてると、遅刻しちゃうよ」


 振り向けば、大好きな友人が立っていた。


 女の子にしては長身で、スカートから覗くのは同姓でもどきりとしてしまうような脚線美。それから、流れるように伸びる艶やかな黒髪の河合かわいはるは、五高でも有名のクールな美少女だった。


「遥ちゃん、おはよう」


 灯真のせいで、散々な夜を過ごした後だったので、詩桜は目の前の癒しに思わず飛びついてしまう。


「わっ、どうしたの?」

「遥ちゃんに会いたかったの」


 彼女の身体に顔を擦り寄せれば、お日様みたいに優しい香りがする。


「ふふ、変な詩桜。土日会えなかっただけで、寂しかったの?」


 それもあるけど、灯真のせいで正常な人間が恋しくなったのだ。一緒に暮していることは、遥にも内緒だから相談できないけれど。


 遥はこんな時、なにも聞かないで、優しく背中を撫でてくれる。そうされると、まるで羽衣に包まれているような、守られているような気持ちになってくる。


 同じ年なのに、彼女は詩桜にとって、姉のような存在でもあった。


「あ、白波瀬くん」

「っ!」

「…………」


 思わず小さな悲鳴を上げて振り向くと、若干複雑そうな表情を浮かべた灯真が、学生鞄片手に立っていた。そのまま無言で、詩桜の横を通り過ぎて行く。


 登校途中の女子たちは、灯真の姿を見つけるやいなや、きゃあきゃあと黄色い声をあげて喜んでいる。


 しょっちゅうぐるると腹を鳴らす男の、どこがそんなにいいのだろうか。


「なんで彼は、あんなに人気があるんだろう。毎日、お腹を鳴らしているのに」


「白波瀬家の御曹司だからね。あと、ひもじそうな姿は、捨てられた野良犬みたいで、母性本能を擽られるんだって。最近では、腹ペコ王子って呼ばれて、親衛隊もいるでしょ」


 始業式の日に転校してきて、まだ二週間程。それなのに灯真は、すっかり有名人だ。


(腹ペコ王子って……全然カッコよくない気がするけど)


「それと、あの見た目じゃ、嫌でも有名人になっちゃうよ」

「そっか」


 確かに、吸血鬼特有の、人を魅了する見目麗しさが灯真にはある。


「……なあに、詩桜も白波瀬くんが気になる?」

「え? そういうわけじゃ」


「白波瀬くんも、なぜか詩桜を気に掛けているよね」

「そんなこと……ないと思うけど」


「そんなこと、あると思うけどなー」

「……実は、ちょっとした知り合いで。でも、特別仲が良いわけでもなくて、浅い関係なの」


「へー、そうだったんだ」


 本当は、過去の記憶違いで、詩桜を思い出の相手と勘違いしている灯真に、お前を喰いたいと迫られ困惑中だけれど、それは言えない。


「腹ペコ王子、か」


 詩桜はどうしても灯真が苦手だし、他の女子のようにカッコイイとは思えない。けれど。


 女子の群れを掻き分け、長い脚でしなやかに進む姿を綺麗だとは思う。


 華があって堂々としている所が、自分とは相容れぬ、とても綺麗な吸血鬼だと。

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