第5話 慣れない日常

 詩桜は、日ノ本のとある村で生まれ育った。


 そこは、瓦屋根が多く並ぶ、帝都から外れた街のさらに離れに存在する星翔村という場所。


 都心へ向かう主な交通手段は、一日二本のバスしかないけれど、土地は寛大で店や娯楽施設も充実している。


 活気がありとても住みやすい歴史ある村……というのは、表向きの顔である。


 この村では、人間と吸血鬼が種族を隠すことなく、互いに探りあいながらも、均等を保ち暮らしている。この事実は、一部の者たちだけに公然の秘密だった。



◇◇◇◇◇



「うぅ……?」


 襖の隙間から射し込む朝の日差しを浴び、遠くの方で聞こえる雀の囀りと、ぐるぐると響く謎の音が聞こえ、詩桜は薄っすらと瞳を開く。


 そして、まだぼんやりとする思考の中、視界に飛び込んできた光景を見て、冷や水でも浴びせられたようにまどろみから目を覚ました。


「わぁ!?」


 詩桜の声に反応し、隣で寝ていた存在も薄らと目を開く。


「な、なんで、灯真がわたしの隣で寝ているの!?」


「ん……夜中にお前が抜け出してないか、寝顔を確認しに部屋に忍び込んで……そのまま一緒に寝た」


 寝ぼけ眼であくびをしながら起き上る彼は、悪びれもしない態度でそんなことを言ってくる。


「おはよう、詩桜」


 そして言い返す間も与えられぬまま、灯真は指で詩桜の小さな顎を摘み上げ。


「っ!」


 避ける間もなく、ちゅっと頬におはようのキスを贈ってきた。


「腹が減った……今日も、朝からお前は美味そうだな」


 端正な顔が近付いてくる。


 今度は唇を奪われそうになり、詩桜が身を竦めたところで、廊下から足音が近付いてきた。


 こんなところ誰かに見られたら居た堪れないと、慌てた詩桜が、力ずくで灯真を押し離したのと同時に、足音の主が襖を開けて顔を出す。


「詩桜、朝っぱらからなにを騒いでるんだ?」


「辰秋さん、灯真がまた勝手に部屋に!」


「ん? なんだ、灯真殿と一緒にいたのか。朝から仲が良いな。ハッハッハ」


「~~~~っ」


 仲が良いんじゃなくて、襲われかけたんです!


 と心の中で訴えかけたが、実際には言葉にできず呑み込む。


 訴えてもどうせ意味がない。白波瀬家に逆らえる者はいないのだと、最近になって詩桜は知った。


 村では絶対的な権力を持つ存在だった前の村長義雄が、一夜にしてその地位から転落させられたのを目の当たりにして……。


 自分が粛清されるはずだったあの夜から、すぐに義雄は日向家を追われ、退魔師として勢いがあったはずの高瀬家は没落。


 それだけでは終わらず、詩桜を消そうとした主犯の陽菜や義雄たちは、じきに裁かれ相応の罰を受けることになるという。


 こうまで事が運ぶのが早かったのは、白波瀬家の力が動いたからだと辰秋に聞いた。


 灯真の言動には度々困惑するが、そんな強い家の吸血鬼に逆らうのは怖いし、新しい村長に就任して間もない辰秋に迷惑や心配を掛けたくない。


 だから思う所はあるが、こんな同居生活を送り始め早二週間が過ぎていた。






「はぁ……」


 泉で禊を行いながら、詩桜は溜息を零した。


 喰いたかったぞと、いきなり現れたあの夜から、灯真は詩桜もお世話になっているここ日向家に居候している。


 毎日お腹を空かせている彼は、ことあるごとに、詩桜を食べたがるから困りものだ。純血種の吸血鬼とは皆こんなものなのか……。


 現代に生きる吸血鬼たちは、大抵人と変わらぬ生活を送っているものだが、純血種に近い程、野生の本能とでもいうのか、人の血を欲する者も多いと聞く。


 都会で暮らす吸血鬼は、人と交わった半鬼の者が殆どで、今ではすっかり人間界に馴染んで生活しているが、灯真の家のように、純血種だけの一族もあるにはある。


 だが今時は純血種といえ、人間の世界にある一般常識ぐらい身につけ生活を送っているのが普通なのに。


 灯真はなぜなのか、詩桜の血を困惑するぐらい求めてくるし常識がない。


(本来なら、係わりたくないけど……そういうわけにもいかないし……)


「気が乱れてるぞ」


 肌襦袢姿で禊を行いながら、もんもんと頭を悩ませていた詩桜は、灯真の声で現実に引き戻された。


 日向家近くの裏山の麓に、ひっそりとある泉で身を清めるのは、詩桜の日課だ。


 少し前までここは、詩桜が一人で過ごせる、お気に入りの場所だったのに……最近は護衛と言う名目で、灯真もついてくるから気が休まらない。


「あなたがずっと見てくるから、集中できない……」


「なんでだよ」


「なんでって言われても……困るけど」


 灯真は首を傾げ、気だるそうに詩桜を見下ろす。背が高いので仕方ないが、それだけで威圧感を覚え怖い。


 あと、獲物を狙うような目で、見られている気がして怖い。


「お前はすぐ、俺から目を逸らすな」

「っ!」


 両腕を掴まれ、そのまま泉から引き上げられる。なにをするんだと顔を上げれば、綺麗すぎる顔が間近にあった。


 このまま食べられるんじゃないかと、青ざめ目を瞑ったが、そんな詩桜の緊張を和らげるように、灯真は詩桜の瞼へキスをして囁く。


「どんな表情をしていても、お前は美味そうだな。なんでこんなに美味そうなんだ?」


「っ!!」


 今度こそ噛み付かれるかと構えた詩桜の髪を、灯真が愛おしげに撫でてくる。それだけだった。警戒したのに、痛いことも、怖いこともしてこない。それどころか……。


(どうして、そんな目でわたしを見るの?)


 大事そうに、愛おしそうに……今までそんな目で、誰かに見つめられた経験がない詩桜は、やはりどうしていいのか分からず、俯いてしまう。


(この吸血鬼が、なにを考えているのか分からない……)


 けれど……先日偶然、耳にしてしまった噂話を思い出す。


 日向家に出入りしている関係者たちが、話していたのだ。

 灯真がずっと星巫女に焦がれていたのは、一部界隈では有名な話。星巫女の側に仕えるためだけに、首座にまで上り詰めたらしいと。


 もしそれが本当なら、星巫女を守るために、首座になったというのなら……自分は彼に守られる資格がない。


 そんな罪悪感が、詩桜の胸の奥に黒いしみを広げる。


「いい加減に、俺の花嫁になるって言えよ」


 あの夜と同じ、なにを考えているのか読めない金色の瞳に、戸惑う詩桜の顔が映っている。


 その台詞だけを聞けば、まるで口説かれているような気持ちにもなるけど、そんな甘いものじゃないと詩桜は知っている。


「……言えません。そんなこと」


 吸血鬼の言う花嫁には二通りの意味がある。


 文字通り妻になるという意味の他、その昔は生贄として捧げられる人間の娘も、吸血鬼の花嫁と呼ばれていたのだ。


 生贄の花嫁は、儀式により吸血鬼に所有の印を刻まれると、所有物として全てを握られるのだと聞いたことがある。自分の生死さえもだ。


(生贄の花嫁なんて、そんな重くて恐ろしい契約、結びたくない……)


 顔を会わせれば、詩桜を美味そうだという灯真が言っている花嫁の意味は、後者に決まっている。


「なぜ拒む」

「だって、わたしを花嫁にして、食べちゃいたいって意味でしょ?」


 恐る恐る見上げれば、灯真は目を細め頷いた。


「ああ、早くお前を食べてしまいたい」


(こっ、怖い!?)


 詩桜の血肉は、吸血鬼を惹きつけてしまうほど、美味そうな匂いがするらしい。そのせいで、昔から理性のない吸血鬼には狙われ、周りの人間には疎まれてきた。


 灯真もそんな吸血鬼の、一人に過ぎないに違いない。


「俺は、ずっとお前に飢えていたんだ」


 言いながら、雑草の生い茂る泉のほとりに容易く押し倒される。


 指で頬をなぞられ、詩桜は言いようのない感覚に身を震わせた。


「今すぐにでも、お前が欲しい……詩桜」


 耳元で囁かれる。人を魅了するその瞳で見つめられると、思考が鈍ってしまうから……そのまま抵抗できずにいるうちに、尖った犬歯が首筋に触れそうになっていた。


 しかし、受け入れるわけにはいかないと、そこで理性が働く。


「呪符退魔急急如律令!」

「っ!?」


 こんなこともあろうかと、灯真と出会ってからの詩桜は、つねに退魔の札を潜ませている。


(危なかった……吸血鬼の持つ魅了の力は恐ろしい……)


 おかげで今日も、灯真が術で跳ね飛ばされた隙に、詩桜は彼から逃げ出したのだった。

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