26

 コンテス村の牧草地を眺め、ネルロが溜息を吐いた。えている草はどこにでもあるものばかりだ。花がジュリモネアを夢の世界に連れていったとキャティーレは考えたようだが、それはない。少し離れたところでネルロの愛馬(キャティーレの愛馬でもある)が草をんでいる。


 確かに牧草地には魔法が掛けてある。どんなに干上がっても、猛暑の夏が来ても、厳寒の冬に襲われても、必ず季節通りに命が育まれる、そんな魔法だ。侯爵家がこの地を領地としてから数年ごとに同じ魔法を上掛けしている。だからたとえ牛どもが、どんなに踏み荒らそうが食べ尽くそうが、ずっと牧草地として使えるのだ。


「よっ、ネルロ。こんなところにいるとは珍しいな」

声をかけてきたのはベッチン村のワッツ、荷車を牛に牽かせてやってくるのには気が付いていた。


「やぁワッツ。ジュリモネアのことでは世話になった。キャティーレがお礼をしたいと言ってたよ」

嘘だ。でもこれくらいの嘘は言ったっていいはずだ。


「キャティーレさまが? うーーん……こんなこと、ネルロにしか言えないけどさ、苦手なんだよね。なんかおっかなくってさ」

でかい図体して情けないヤツだ。


「魔獣は怖くないのに、キャティーレは怖いんだ?」

なんでキャティーレが嫌いなくせに、悪く言われるのは嫌なんだろう? つい庇うようなことを言ってしまう。あんなヤツ、みんなから嫌われて当然なのに。


「魔獣だって怖いさ。それにキャティーレさまの怖さは魔獣の怖さと質が違う。なんて言うか、凄味って言うかさ――ネルロはキャティーレさまが魔獣を仕留めるところを見たことは?」

「あぁ、魔法で固めて粉々に吹っ飛ばす」

「なんであんなことができるんだろう。それだけでもおっかない」

「僕だってできるよ。ただ、しないだけ」

「ネルロは魔獣が怖いもんな」


「うーーん……キャティーレだって怖いんだよ。でも、領民の手に負えない魔獣は、頑張って駆除するしかないから」

「キャティーレさまが次期ご領主で、俺たちは幸せだ」


「えっと……牧草を取りに来たんだね。コンテスの村長には挨拶に行ってくれた?」

「あぁ、行ったさ――ネルロに頼まれたうえに、キャティーレさま直々にお手紙をいただいたんじゃ厭味も言えないって言われた。いやな顔も見せるんじゃないって手紙にあったからな、喜んでって言うしかないって苦笑いしてたよ」

「そっか、そっか、良かったよ。二つの村で牧草を取っても大丈夫か、念のため見に来たんだ。充分ありそうだから、安心した」


「ところで、いつになったらカリガネ山の牧草地は使えるようになるんだい?」

「親子魔獣は退治できたけど、お陰で他の魔獣の気が立ってる。冬が来るまでは無理かな」

「冬って!? 冬になったら山にはどっちにしろ行かない。行きたいのは今だ。刈り取って干し草を作らなきゃ、冬に間に合わなくなる。まだ魔獣が居るって言うなら退治しに行くぞ」


「ダメだ――魔獣ってのは排除すればいいってもんじゃない。どんな生物も、存在には意味がある。あの親子は人間の村に来て家畜を襲った。だから駆除した。魔獣だって人間を獲物と認識していなければむやみに襲って来ない。気が立ってるところに行って襲わせるようなことをするなってことだ」

「だって、ネルロ!」


「これは決定事項。来年の春まで待ちな。枯草はコンテス村の連中も必要になる。手伝えば、必要な分はちゃんとくれるさ。手間賃なしってわけにもいかないからね。コンテス村にはベッチン村のことをくれぐれも頼むと言ってある」

「コンテス村の世話になんか――」

「ワッツ、世話になるわけじゃないよ。こんどコンテス村に何かあったらベッチン村が助けるってだけの話だ。他の村だって同じだよ。ドルクルト侯爵領の全ての村は協力し合って栄えていく……じゃあ、僕は他にも用事があるんだ。屋敷に帰るね」


 口笛を吹いて馬を呼び寄せるネルロ、近寄ってきた馬を見てワッツが首を傾げた。

「その馬、キャティーレさまの馬じゃなかったか?」

ムッとしたがワッツ相手に怒りを見せても仕方ない。


「そうだよ。だけどキャティーレったらまったく世話をしないんだ。代わりに僕が手入れをしてやってる」

馬の背に乗りながらネルロが微笑む。

「お陰で今じゃ僕のほうに懐いちゃってね。好きな時に乗ってもいいってキャティーレの許可は貰ってる――それじゃあね」


 屋敷に戻ったネルロ、出迎えの召使いに手綱を渡し、自分はさっさと建屋の中に入った。

「ちゃんと手入れしておけよ」

馬の世話なんか召使いに丸投げだ。


 中に入ると大きな声で

「マリネ!」

とお気に入りのメイドを呼んだ。

「何か食べる物……それとリザイデンツを呼んで。あ、咽喉も乾いてる。冷たいものも用意して」


 向かうのは、ジュリモネアが到着した日にキャティーレとの晩餐に使った部屋だ。カウチにドサリと身体を投げ出し、テーブルに置き去りになっていた本を手に取る。だが、読むわけではない。表紙を見ると、バン!とドアに投げつけた。


 ドアを開けかけていたリザイデンツが慌てていったんドアを閉め、再び開けてネルロが投げた本を拾った。

「ネルロさま、何かあったのですか?」


「昨夜から置きっぱなしなんだろう? それはアイツの本じゃないか。目障りだ」

「これは失礼いたしました――すぐにマリネが参ります。お鎮まりください」

マリネの前で見っともない真似はおよしなさいという意味だ。フンとネルロがソッポを向いた。


 リザイデンツの言うとおり、すぐにドアがノックされマリネがサンドイッチとオレンジジュースをトレイに乗せて現れた。

「早かったね。それに僕の好きなものばかりだ。だからマリネ、大好きさ」

「嬉しゅうございます」


 その様子に溜息を吐きたくなるリザイデンツ、ネルロの半分くらいでいいからキャティーレもおべっかを言えるようになってくれないかと思っている。まぁ、本当にネルロはマリネを気に入っている。召使の中では一番気が利くのはマリネだ。


 だけどマリネを気に入っているのはネルロだけじゃない。キャティーレだってそれは同じだ。だけどキャティーレがマリネにねぎらいの言葉をかけたことなどない。


 ネルロに気付かれないよう、リザイデンツにウインクしてマリネは部屋を出て行った。リザイデンツに言われていたからすぐに用意できたなど、余計なことは決して言わない。


 それに作ったのはお屋敷の調理人、誰が食べるのかを言えば栄養価を考慮したうえで、食べる本人が喜ぶものを作ってくれる。それは屋敷の誰もが知っていることだ。きっと知らないのはキャティーレとネルロだけだろう。


 好物の卵サンドに嚙り付くネルロにリザイデンツが言った。

「わたしをお呼びになったのは何用なにようでしょう?」

むっとネルロがリザイデンツを睨みつけた。


「食べ終わったら話す。ムカついて美味しいものも不味くなる」

そうですか、随分とご機嫌斜めのようで。


「畏まりました。ごゆっくりお召し上がりください」

どうせなら日没までかかってもいいですよ。さすがにそれは言えない。


 まぁ、本を投げたのも機嫌が悪いからだろう。キャティーレには本を大事にする習慣はないけれど、ネルロは本の虫、粗末に扱うなんて珍しいことだ。


 いったい何を言われるのやら……憂鬱な気分でネルロを待つリザイデンツだった。

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