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 その拍子にポロっと口からクッキーが落ちる。が、まったく気にしないジュリモネア、すぐにエングニスがナプキンを手に、落ちたクッキーの処理をする。


「侯爵夫人が使っていたお部屋?」

ジュリモネアの問いに、リザイデンツが困惑する。

「亡くなったかたのお部屋は気が進みませんか?」


「違うわ」

ジュリモネアが茫然とリザイデンツを見る。

「お母さまのお部屋をわたしに? 本当にキャティーレさまがそうしろって? まさかリザイデンツ、あなたの勝手な判断じゃないよね?」


「この屋敷の中で何一つ、わたしが勝手にできるものはございません。まぁ、キャティーレさまは二言目には『面倒』と仰られるので、任されていることも多々ございますが――ご安心ください。キャティーレさまが指定なさったお部屋です」

「ねぇ、リザイデンツ。それってキャティーレさまはわたしを侯爵夫人にすると決めてるってこと?」

何を今さら、とリザイデンツが失笑する。


「ご婚約なさっていることをお忘れですか? ご婚儀の準備を始めるよう、いいつかっております」

「ご婚儀の準備って、結婚の準備ってことよね? 聞いてないわ」

「キャティーレさまと結婚する気はないと?」

「そうは言ってない。でも、もっと先だと思ってた。だいたい、わたし、プロポーズされてないわ」

ふむ、とリザイデンツが唸る。婚約しているのにプロポーズは必要なのか少し迷う。


  迷った挙句、ここは本人に判断して貰うことにした。

「それ、キャティーレさまに申し上げても?」

「リザイデンツが言い難いなら、わたしが直接言ってもいいわよ」

「いえいえ、わたくしからお伝えします――手伝いの者が参りました。とりあえず、お部屋の移動をお願いいたします」


 手伝いに来たのは初めて見る男とマリネの二人、だけどナミレチカが『先ほどはお世話様でした』と男をねぎらったところを見ると、初めてじゃないのかもしれない。


 せっかく二人も来たのにエングニスが荷物をひとまとめにして全部背負ってしまった。リザイデンツが、

「まぁ、考えてみたら、馬車から降りた時もエングニスが全部運んだのでしたな」

と、夜中に済まなかったなと二人をお役御免にした。


 広い廊下を先導するのはリザイデンツ、ジュリモネアとナミレチカがほぼ並んで進み、荷物を背負ったエングニスがその後に続く。天井は高く、壁には美しい絵画が豪華な額に入れられて何枚も掛けられいた。通るだけでも楽しめる廊下だ。足早に行くリザイデンツに『もっとゆっくり歩いて』と言いたいところだが、重い荷物を背負っているエングニスのことを思えばさっさと行ったほうがいい。


 時間を取ってゆっくり鑑賞すればいいわ。その時は……なぜかネルロを思い浮かべた。ネルロと一緒にこの絵を見たい。

(キャティーレさまはきっと絵になんか興味がないわ。無趣味って言ってたし)

ネルロなら絵を眺める楽しさを判ってくれる、そんな気がした。


「控えの間の寝室にエングニス、控室の寝室にはナミレチカ、もちろん主寝室をジュリモネアさまがお使いください――ジュリモネアさまに会いたいときは、まずエングニスに取次ぎを願い、エングニスがジュリモネアさまに会わせても問題ないと判断したらナミレチカに取次いでいただきます。エングニスから訪問者の素性を聞いたナミレチカが、ジュリモネアさまに取り次いでも問題ないと判断したらジュリモネアさまにお伺いを立て、ジュリモネアさまの許可が出たらそれをエングニスに伝え、エングニスが来訪者にそれを伝え、控えの間に招き入れたのち控室の入り口でナミレチカに引き渡してください。ナミレチカは来訪者を控室に招き入れ、ジュリモネアさまのお部屋へと案内します」


 歩きながら長々と説明するリザイデンツ、ジュリモネアが聞いていたのは最初だけだ。来訪者があった時はどうするかはほとんど聞いていない。聞いておいてねナミレチカ、の一言で終わり、あとは壁に飾られた絵画に気を取られていた。


「お判りになりましたか?」

急に振り返ったリザイデンツに、

「えぇ、面倒なのはよく判ったわ」

とニッコリ答えるジュリモネア、

「それよりこの廊下に飾られているのは? 素敵な絵がいっぱいね」

と壁を見上げている。あぁ、とリザイデンツが足を止めて壁を見上げる。


「進行方向、右側の絵はキャティーレさまが描かれたもの、左側はネルロさまの手によるものです」

「えっ? キャティーレさまは絵を描かれるの? それにネルロ?」

「はい、お小さいころからのご趣味でございます」

「んん? 無趣味って言ってなかった?」

「面倒でそう仰られたのかと思います――ご興味がおありならお身体が本調子になられてから、ゆっくりご鑑賞ください。今はお部屋にご案内します」


 前を向いてしまったリザイデンツ、小走りになったジュリモネアが追い付いて横から覗き込んだ。

「ねぇ、左はネルロって言ったわよね。ネルロってこのお屋敷に関係あるの?」

横目でジュリモネアを見てリザイデンツが答える。

「少々語弊がありますがドルクルト侯爵家お抱えの魔法使いでございます」


「語弊って?」

「お抱えの魔法使いとなるとドルクルト侯爵家の使用人の立場となりますが、けっして使用人と言うわけではありません。むしろ、そうですね……守護者あるいは統率者とでも申しましょうか」

対外的にはキャティーレとネルロは従兄弟いとこということになっているが、後々を考えてそのことは言わなかったリザイデンツだ。


「あぁ、だからベッタン村のワッツもネルロに従って動いたのね。キャティーレさまのことも呼び捨てだったし――ねぇ、リザイデンツ、キャティーレさまでもネルロには逆らえない?」


「いえ、まさか! キャティーレさまは次期ご領主です。侯爵さまを除いて、領内でキャティーレさまより権限を持つ者はおりません。けれどネルロさまを従えることもできない。対等と言ったところでしょうか」

リザイデンツが大きな扉の前で立ち止まる。


 ネルロって魔法使いってわけじゃないんだ……ネルロのことを考えていたジュリモネアも、二・三歩先に進んでから気が付いて立ち止まった。


 大胆な構図のレリーフ浮彫が施された扉はかなり重さがありそうだ。見上げると、女神がこちらを見降ろしていた。

「このお部屋でございます」

大きなカギを取り出したリザイデンツ、ガチャリと音を立てて開錠した。


 ゆっくり扉を開けていくリザイデンツ、ギギギッときしむ扉は大きいだけではなく、厚みも相当なものだ。


 両開きの扉には左右が反転した一対の女神像、互いに腕を伸ばし離れていくのを惜しんでいるようかのに見える。扉がすっかり開き切った時、レリーフを眺めていたジュリモネアの目には女神が涙を流したように見えた――

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