殴り書きの付箋


 ――俺との授業、やめたい?


 やめたいわけない。だけど、我儘は言えない。本当のことを――高良先生が恭介くんに似ていることを、話してしまえば楽になれるかもしれないと考えたこともあった。だけど、高良先生と話していると恭介くんと話しているみたいで楽しくて、寂しさを紛らわせたなんて言ったら、高良先生はどんなに自分の負担が大きくなっても個別授業を続けてくれる。優しさにつけこむようなことはしたくない。高良先生の負担になりたくない。


 そんな心の内をどうやって伝えればいいのか分からなかった。どこまで伝えていいのか、そもそも伝えていいのかすら分からなかった。だから、心の整理が付くまで、高良先生には会いたくなかった。しかし、今日は1限から古典の授業がある。


 朝のショートホームルームが終わった後、高良先生はいつもと変わった様子もなく、教室に入って来た。私はのろのろと教科書を出したり、シャープペンに芯を補充したりして、なるべく手持ち無沙汰にならないよう努めた。何かしていないと落ち着かなかった。


「じゃ、この間の小テスト返すぞー」


 授業開始の挨拶をしてすぐ、高良先生は答案用紙の束を取り出した。出席番号が順番に呼ばれ、答案が返却されていく。私の出席番号は後ろから3番目。自分の番号が呼ばれるのを、こんなにドキドキしながら待つのは初めてだった。


「34番」


 やっと番号を呼ばれ、教卓の前まで進み出る。高良先生は答案用紙に視線を落としたままで、私の方を見ない。


「はい、よくできました」


 それは満点の生徒には必ず言う台詞。答案用紙の右上には、赤ペンで100の採点。と、小さな付箋。何これ? と付箋を見つめていると、


「あとでめくって」


 と、高良先生が早口に言った。それは、小テストの結果に一喜一憂する生徒たちの声にかき消されてしまうほど小さな声。私が顔を上げようとすると、それをはばむように、高良先生は答案用紙を私に押し付けた。そして、何事もなかったかのように「35番」と次の生徒を呼んだ。35番の渡辺くんと入れ違いに、私は自席に着く。


 ガヤガヤとにぎやかな教室の中で、私は自分だけ違う空間にいるような気がした。周囲の声が遠くに聞こえる。答案用紙は紙一枚のはずなのに、とても重たく感じた。指先が震える。周りに見られていないか確認した後、答案用紙をそっと見下ろす。やはり、得点の下に小さな付箋が貼り付いている。でも、白紙だ。もしかしたら答案用紙に何か書いた上に付箋を貼って隠したのかもしれない。「あとでめくって」と言われたのを思い出し、そっと付箋を剥がしてみる。しかし、そこは真っ白だった。何も書かれていないことに、心臓がきゅっと痛んだ。同時に、期待してしまった自分に嫌気が差す。


「今回できなかったところは、ちゃんと復習しておくように」


 教科書のページをめくりながら、高良先生は授業を始めようとしている。


 何も書いていないのに、なんで付箋なんか貼ったの? と、じっと睨みつけてみても、高良先生がこちらを向くことはない。


「じゃ、昨日の続きから。教科書43ページ開いて」


 教科書を片手に、高良先生は生徒たちの間をゆっくりと歩き始めた。


「『世の中かはりて後』のところから。今日は25日だから、25番の人。読んで」


 出席番号25番の中村さんが、源氏物語を読み上げる。高良先生は教科書に目を落としたまま、ゆっくりと机の間を歩く。


「そこまで。続きを、15番」


 高良先生が私の3つ前の席の横を通り過ぎる。


「はい、そこまで。続きを、5番」


 5番は紗代だった。本文をすらすらと読んでいく。


 ゆっくりと高良先生が近付いてくる。高良先生の靴音と、私の心臓の音がシンクロしていく。紗代の音読を聞いても、教科書の文字を目で追っても、内容は頭に入ってこない。高良先生が、私の横を通り過ぎる。


 カツン、


 足元で、何かが落ちた音が聞こえた。見ると、床にボールペンが転がっている。そのボールペンには見覚えがあった。高良先生の胸ポケットにいつも入っているものだ。


「……あぁ、ごめん」


 頭上からボソリと呟く声が聞こえた。かと思ったら、高良先生がその場にしゃがみ込んだ。瞬間、心臓がドクンと大きく脈打つ。高良先生がボールペンを拾い上げる。胸ポケットにしまう。私の机の端に手を突いて支えにしながら、立ち上がる。何事もなかったかのように通り過ぎていく。それは、ほんの数秒の出来事。だけど、とても長く感じた。私は音を立てないように、深く息を吐いた。そのとき、机の端に小さな付箋が貼り付いていることに気付いた。それは、さっき高良先生が手を突いたところ。付箋に何か書いてある。


 ふせんのウラ見て


 殴り書きの字体と乾き切っていないインクから、ついさっき書いたものだと分かる。私はファイルにしまった答案用紙をもう一度取り出した。自分の心臓の鼓動がうるさくて、紗代の音読がよく聞こえない。答案用紙に貼ってあった白紙の付箋を剥がし、裏返す。


 放課後 指導室②


 書かれていたのは、殴り書きなんかじゃない高良先生の字。単語が並んでいるだけでも、意味は分かる。


 ――もし矢野が嫌なら、来なくていい


 昨日、高良先生にはそう言われたけど、私の答えは決まっている。私は殴り書きの付箋を1枚目の付箋の隣に貼り付けて、こっそりとファイルにしまい込んだ。



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