お兄ちゃん


「陽葵ちゃん。お兄ちゃん、お迎え来たよ」


 それは、私が保育園に通っていた頃に1番好きだった言葉。


 園児の中には、お迎えが来たと言われても、まだ遊ぶと駄々をこねる子もいた。でも、私は違った。どんなに友達とのおままごとが盛り上がっていても、塗り絵があと少しで完成するとしても、すぐに帰り支度を始めた。


「陽葵、おかえり」


 通園バックを持った私が教室の外へ出ると、制服姿の恭介くんがその場にしゃがんで両腕を広げる。


「ただいま」


 私は恭介くんの腕の中に飛び込む。恭介くんはぎゅぅっと私を抱きしめる。この瞬間が大好きだった。


「今日は何したの?」


「プールで泳いだ」


「そう。どうだった?」


「冷たくて気持ちよかったよ。楽しかった」


 恭介くんの大きな手が私の頭を撫で、ひょいっと抱き上げる。私は恭介くんの肩に顎を乗せたまま、恭介くんと担任の先生が話すのを聞いている。話題の中心は私だ。給食でトマトを食べられたことを、先生が嬉しそうに報告している。だけど、今日はちょっと食べてみようかなと思っただけ。ただの気分だ。明日も食べるかは分からない。


「陽葵、トマト食べたの? 頑張ったね」


 恭介くんが私の背中をぽんぽんと叩いた。……やっぱり明日も頑張ってみようかな、と思い直しながら、甘えるように恭介くんの首にしがみつく。顔を埋めると、恭介くんの匂いがした。穏やかで優しい匂いに安心する。


「お世話になりました。陽葵、ご挨拶」


「さよなら」


「はい、さようなら。陽葵ちゃん、また明日ね」


 恭介くんが先生に会釈をして、私の体が傾いた。ずり落ちた私を、恭介くんがよいしょっと持ち上げる。


「今日、スーパー寄って帰るからね」


「アイス」


「はいはい、1個だけだよ」


 そう言いながら、恭介くんは私を自転車の後ろに乗せた。ヘルメットは自分で付けられるけど、黙って何もしないでいると恭介くんが付けてくれる。だけど、


「陽葵、自分でできるでしょ」


 魂胆がバレて叱られることもある。私は、今日はダメか、と心の中で呟きながら、ヘルメットのベルトを難なくしめた。それを見届けると、恭介くんは自転車をこぎ始めた。


 恭介くんは高校から直接、保育園まで私を迎えに来る。だから、後ろにチャイルドシートを乗せた自転車で通学していた。


「お母さん、今日もお仕事?」


「うん。当直」


 お母さんは大学病院で医師をしている。お父さんはいない。私が生まれてすぐ、病気で亡くなった。


「晩ご飯何にしようか? 陽葵、何が食べたい?」


「ハンバーグ」


「ハンバーグかぁ。いいねぇ」


「和風ハンバーグがいい」


「えぇ? それ、大根おろしが乗ってるやつだよ?」


「うん」


「陽葵、味覚が渋いね」


 恭介くんは私のお兄ちゃんだけど、お母さんでもあり、お父さんでもあった。だから、お父さんがいなくても、仕事で忙しいお母さんにあまり会えなくても、寂しくなんかなかった。恭介くんは私の居場所だった。だから、恭介くんがいない世界なんて、想像もつかなかった。



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