第44話 渚

――――朝霧渚視点――――


 エントランスの入口から何もせず雫が落ちていく様を見ていた。

 


 ポタポタと屋根伝いに落ちてくる雫は私の気持ちの具現化のようだった。

 心は落ち着いている。だというのに、ざわざわとした何かが私の体を刺す。

 風だろうか、そう考えているとふわりと冷たい空気が頬を撫でた。



 ……春馬は変わった。私がずっと隣にいた高1のときよりも。

 たった数ヶ月であんなにも前向きに。


 だというのに私は変われなかった。


 今も昔も臆病でどうしようもない。

 そんなちっぽけな愚か者だった。




 小さい頃の私は何をするにしても、部屋の隅で黙々と絵本を読んでいる、本当に影の薄い人物。

 幼いながらにも大人ぶり、寂しいと感じていながらも結局友達1人すら作れない。

 そんな子供だった。

 


 きっかけはとある人物が話しかけてきたことだった。


 春馬壮亮という家も近所の男の子だ。


 どんなときも明るく、何があっても自分の意見は曲げない、そんな芯の持った自分とは全く違った人。


 絵本の話をすると、毎度楽しそうに聞いてくれてそれでいて私とたくさん話してくれる不思議な子。 


 当時の私は彼にそんな印象を持っていた。

 ただ今にしてみれば密かに好意を抱いていたことは確かだ。


 一緒にいるだけで幸せで、こんな時間がずっと続けばいいなんて考えて、悩むことができたのだから。


 私にとって彼はまごうことなき白馬の王子様だった。




 小学生に上がり、彼との間には深い絆ができていた。

 私は彼に好かれるために髪を切って明るくなり、少しでも白馬の王子様に救われるお姫様を目指した。



 ただ私は知らなかった。

 幸せな時間というのは簡単に終わるということ。



 春馬がいじめられた。


 原因は彼のその芯の通った性格にあった。

 心の通った性格というのはよく言っているだけだ、悪く言えば頑固、強情なのだ。

 そんな春馬の横暴に耐えきれなくなったクラスメイトが春馬を殴ったのを皮切りにクラスの男子全員が春馬を殴り始めた。


 最初はなんてこと無いじゃれ合い。

 次第に1人が春馬を本気で殴る。

 それに怒った春馬がそいつを殴り、こんどはそいつを助けようとしたやつも殴って……


 そうやってクラスの中で春馬を殴るという共通意思ができた。

 多対一、勝てるわけがなかった。


 春馬が泣き叫ぼうとも、顔が血だらけになろうともそれは続いた。






 真っ赤に染まった、春馬の顔と、何が起きているのかわからない顔をした加害者。

 春馬は戦意喪失といった感じで口をぽっかり開けている。


 私はそれを見ていた。

 止めることができなかった。


 自分もああなってしまうのかも、そう思うと到底助けに行けなかった。

 ゆっくりと彼への恋情も破壊されていくのを感じた。


 その後春馬は顔を洗って、早退していった。


 本人から聞いた話だと、階段で滑ったことにしたらしい。

 当時、出張中の親を心配させたくなかった、とかが理由だそうだ。





 至って普通の日がやってきた。




 でも密かにいじめは終わらなかった。


 あんなに激しいものは無いにしても、先生が見てないところを狙って見られにくいところばかりに痣をつけた。


 殴る、蹴る、切る、ぶつける、水を掛ける、唾をかける……一通りのことはされたのだろう。

 色々な姿の悲しそうな春馬を見た。


 次第に元気がなくなっていく春馬を私はただ呆然と見守ることしかできなかった。


 当時、女子のグループでも春馬の悪口が飛び交い、あること無いこと言い回られ、罵詈雑言を投げかけ、次第にクラス全体でいじめるようになった。


 いじめは大体一ヶ月ほど、続いた。

 その頃には春馬の異常に気づく先生も当然いたが、春馬は何も言わなかった。

 どんだけ周りの大人が行動しても本人が加害を否認するのだから、先生たちも何もできなかった。

 今考えてみればいじめているやつらが口止めしていたのだろう。


 自分が憧れた白馬の王子様は、とうにいなかった。

 芯が通っていても、1人の人間だ、私はそれをわかっていなかった。だからあんなことが言えた。



 カッコ悪い。

 クラスの女子が言っていた言葉でもある。


 

 ただ私はそこから先を言わないようにしていた。

 それ以上は絶対に駄目だとわかっていたから。


 でも、日々、情けない姿を見せる彼を私は次第に見下し始めた。


 心の何処かで馬鹿にした。

 散々コケにして、情けないだとか、いくじなしだとか、当時言える悪口はすべて頭の中で反芻した。

 一度箍が外れてしまった人間はもう止められない。


 そして、春馬は人目につかないように影を薄くしていった。つけば殴られるから。

 彼は、自分と関わっていることで私にも被害が来ることを恐れ、私との関わりもやめた。


 そんな彼を嘲笑した。 


 春馬と関わらなくなった。


 当然そこからは春馬以外の男子の友だちもできた。

 女子の友達もたくさん増えた。





 ただ、私はふと気づくのだ。心に穴が空いたままだと。

 春馬以外と関わるようになって、私は間違いなく明るく、可愛らしい女子を演じられていたと思う。

 男子からの告白も増えた。


 でも運命の人は見つからなかった。

 白馬の王子様は、どこを探せどいなかった。


 関わりがなくなって数日、いつの日か忘れられるようになる、そう信じて私は春馬を見ても見ぬふりをして日常を過ごしていた。

 ただ虚しくなっていた。



 中学に上がり、私と春馬は同じ公立の中学に進学。

 それを知った時、頭の中でそれは嫌だと泣き叫んだ。

 なんであんなゴミと、なんであんなやつと。


 転んでしまえばいいと。


 そんなふうに。


 日々を彼に会わないことに心血を注ぎ、徐々に視界にすら入らなくなってきた中。



 私はまた彼と会うのだ。





 中三の冬の始め頃。

 その日は雨が降っていたことを覚えている。


 少し肌寒くて。

 体を縮こませながら担当であった学校の体育倉庫の掃除をしていたときのこと。


 体育倉庫の横にはうさぎの飼育小屋があり、当番制で世話をしていた。

 掃除の際、チラチラと小窓からうさぎが歩き回っているのを見るのが当時、私は好きだった。

 だからその日も同じようにチラチラとうさぎを見て、掃除に励んでいた。


 うさぎも寒かったのか、小屋の隅で縮こまっているのが見える。

 どうにかしてあげられないかな、と思いつつも、対岸の火事のような感覚で私はそれを見ていた。


「(可哀想に、誰か布でも持ってきたらいいのにな)」


 雨の降る音と、私の呼吸音が体育倉庫に響いていた。




 しばらくして、その中に、誰か別の呼吸音が聞こえたような気がして私は後ろを振り返る。

 すると校舎の方から傘をさして何かを持って走る人が見えた。

 春馬だった。


 バスタオルを持って、小屋に向かって一目散に走っていく。

 そして小屋にたどり着くとうさぎの小屋に持っていたタオルを置いてかけてあげたのだ。


 彼なりの優しさだったのだろう。当番ですら無いのに。


 心臓がどきりとした気がした。


 気がついたら私は彼の後ろに立っていた。体が勝手に動いていた。

 そんな私に彼は気づかずホクホク顔でうさぎを撫でている。鼻歌交じりで。

 かわいい、なんて思ったのは多分気の所為だ。


 すこし経って満足したのか、勢いよく後ろを振り返り、私にぶつかる。


「ぶへぇ!」


 そんな情けない声が聞こえた。


「ぶへぇ、って……なにそれ!」


 きょとんとした顔で私を見上げると、誰か気づいたのか彼はゆっくりと立ち上がり、無言でその場で立ち去ろうとする。


 どこへ行くというのかね?そんな耳まで真っ赤にして。

 横を抜けようとした彼の手を握る。


 また驚いたような表情をして、私と目が合う。

 ただ、後ろめたそうに視線を切る。


 彼はもうガキ大将のようなはきはきとして明るい彼ではなかった。

 でも、優しいところはそのままのようだった。

 だってあんなに優しい顔ができるんだから。


 彼は変わってしまった、でも根っこは変わっていなかった。

 それが嬉しく感じた。


「一緒に帰ろ!」


 このときの発言は私はその場の勢いだった、と思っている。

 多分、私はここで関わりを完全に捨てたら、否定したら全部なかったことになるような気がした、それが嫌だった。

 いじめが始まって自然消滅してから、ずっと考えていた。


 何故か?それはもうわかっている。でも、一度下に見てしまった人間をもう一度対等に持っていくことは難しいのだ。

 それは私が証明してしまっている。


 だから私はまた関わりを始めても、彼を異性として見ることは――――




 ――――高校に入ってから、彼とは一年二年と同じクラスになった。

 その時も程々に関係が途切れないようにしていた。

 ある時は一緒に帰ったり、ある時は休日一緒に出かけたり、まるでカップルのような一時を私達は平然と過ごした。


 ただ私は二年になって、春馬が周りからなんとも思われていないのが嫌だった。


 春馬を空気のように扱い、まるでいじめのような雰囲気でいじめじゃないとのたまう彼らのことも苦手だった。


 だから春馬がもっと周りに目を向けてもらえるよう、嘘をついたのだ。

 手始めに、優しそうな男子と春馬をくっつけよう。

 そう画策した私が最初に提示した相手は、蒼井くんだった。


 蒼井くん、彼はとても素直で優しい子だ。

 どんなときも笑みを絶やさず、常に周りに意識を配って、場の雰囲気が悪くならないように立ち回っている。


 そんな彼だったら春馬のことを受け止めてくれるだろう。

 そう思った。




 春馬は私の思ったとおりに行動してくれた。

 多分春馬が私のことを好きなんだろうと私自身わかっていたし。こういう事を言ったらこうしてくれるという自信と自負もあった。

 その結果、春馬が私から離れてもそれでいいかと思っていた。


 でも、実際は







 いじめを傍観し、片棒を担ぎ、挙句の果てにはそれをなかったことのように扱い――――


 なんて都合のいい話だ。


「……す」


 それは言ってはいけない言葉だった。

 明ちゃんの前で、言ってしまった言葉には続きがある。

 それが、今、言おうとしている言葉なのだ。


 認めたくはなかった。気づきたくはなかった。

 私の思いが報われることは、見下してしまったその時からもうないのだから。


 彼の辛いときに彼の隣にいれなかった私が、なぜその言葉を言える?


 おかしいんだ、私。

 同仕様もなく、おかしいんだ。

 春馬。


 笑った顔も、困ってたら手を差し伸べてしまうところも。



「好きなんだね、私」



 言葉は静かに霧散していく。

 今の私から離れていく。


 私は行動するのが遅すぎたのだ。


 今更言ったところで仕方がない。

 ただ、それがわかっていても後悔は消えなかった。


 せめて春馬が私を見てくれているときに、あの言葉を……なんて。




 そろそろ戻らないと。

 流石に皆が心配するだろうし。

 そう言えば私、部屋に忘れ物を取りに行く体で抜け出したんただっけ。


 バカバカしいや。



 振り返った直後、私の眼前にある男がいた。


 瞬間的に理解する。

 あれは、春馬だと。


「なぎっ――――!」


 一番出会いたくない相手。

 今更どうもできない感情に支配されてしまうから。


 私が立とうとした一歩、その一歩は泥沼に沈んでいく。

 どうしたらいい。私はどうするのがいい。何が正解で何が間違いだ。


 頭の中が真っ白になった。

 諦めなくてはいけないという思いと、私を探してくれていたという嬉しさからの恋の期待がぶつかってぐちゃぐちゃになった。


 その結果、訳がわからなくなった私の体はその場から逃げることを選択した。


 勢いよく入口を出ると、そのまま明かりのある方へ走り出す。

 なぜそうしているのか、自分でもよくわからない。


 ただ、今は一刻も早く彼から離れたかった。


 顔に雫があたり、徐々に頭が冷えていく感じがした。


ズシャァァァァ


 後ろの方で大きな音が鳴った。


 春馬が転んでいる。


 雨のせいでぬかるみにでも滑ったのだろう。

 私服が泥だらけだった。

 それに息も絶え絶えだった。


 見てらんないよ。

 春馬。

 なんで私を追いかけてくるのよ。

 放っておいて良かったのに。


 期待をしてしまう。

 私が許されることはないのに。


 ゆっくりと私は手を差し伸べた。


「ん……!」


 深く考えず。

 ただ彼に手を伸ばした。

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