File 4 : 伊藤遥香 1

 冷たい雨の降る夜、1人の女がビルから飛び降りた。


 目撃者の通報で所轄署の警官と救急が現場に急行した所、女はまだ息があり、直ちに病院へと搬送された。


 女の胸ポケットには遺書があり、ただ一言だけ『ごめんなさい』と書いてあった。



 その後、捜査を進めると女が歩いてビルに向かう姿はあちこちの監視カメラに映っていた。映像を見る見る限り、女は1人で真っ直ぐビルまで歩いている。


 ビルに入った後、最上階の廊下の手すりによじ登っている映像も見つかった。


 女はどこかを見てニヤリと笑ってから、何かを叫び、そして何の迷いもなく一気に飛び降りていた。


 その姿はまるで魔法にでもかかったかのようだった、と映像を見た刑事達は口を揃えて言った。


 事件性も全く疑われない事から、この件は女の自殺未遂として処理された。


 ただ、女が何者なのかは全くわからなかった。行方不明人リストや捜索願などに当てはまる人物がいない上、所持品もない。


 女は行旅病人として申請されることになり、意識のないまま入院している。






     ♢♢♢♢♢♢♢♢♢♢

 





 女が飛び降りた同じ夜。


 冷たい雨が霙に変わり、傘を持つ手の指先が凍えるほど寒くなった。


「こんな夜に呼び出されるなんて…」


 特殊捜査研究所の竹下警部は小声でぼやきながら片手を口に当て、はあはあと息を吹きかけて暖めようとした。しかし、それぐらいで暖まるはずもなく、隣に立つ寒さを感じさせない久我山をちろっとみた。


 久我山は片手で傘を差し、片手をコートのポケットに突っ込んでいたが、徐にコートの内ポケットから充分に熱くなっている使い捨てカイロを取り出して竹下に手渡した。


「く、久我山警視正…」


「俺は寒がりだ。あと4個持ってる」


 2人はそんなやり取りをした後、言葉数少なく女の飛び降り現場の様子などを見ていた。


 単なる飛び降りによる自死未遂事案と思われるのに、2人が呼び出された理由がわからなかった。それとも難しい自死事案なのか、などと思っていると、所轄刑事が走って来て申し訳なさそうに言った。


「久我山警視正、竹下警部ですね。

 ご説明が遅くなり、申し訳ありません。

 お2人に捜査をお願いしたいのはこの現場ではなくて、向かいのマンションで起きた事件なんです」


「向かいのマンション?」


 訝しげな声を出した竹下に、警官はさらに申し訳なさそうに小声で言った。


「実は…この飛び降りの自殺の第一通報者らしい女性が意識不明の状態で発見されたのです」


 あのマンションです、と指差したのは有名な高級マンションだった。セキュリティはしっかりしていて、簡単には外から侵入出来ない。そんなマンションでの事件という事らしい。


 発見された経緯も普通ではなかったようだ。


 110番通報をしたその女性は、向かいのビルから誰かが飛び降りた、と事故の場所やその時の様子などを伝えながらエレベーターに乗った様子で、今から自分もその場所に行きますと言いかけた後、突然問い掛けに反応しなくなった…というのだ。


 不審に思った110番通報センター職員が所轄署に出動要請をした所、スマホを片手に持った女が頭から血を流しエントランスホールで倒れているのを発見した…ということらしい。


 竹下はマンションを眺め、大きく白い溜め息をついた。そして、小さな声でつぶやいた。


「お金持ち…ってことですね」


 久我山は竹下の背中をトンと叩き、チラリと顔を見た。


「竹下、上を見るとキリがないぞ。俺達の身の丈にあった地道な暮らしが一番だよ」


「はい!わかっております、警視正殿」




 2人が案内されて到着したマンションのエントランスホールには非常線が張られていて、物々しい雰囲気に包まれていた。


 犯人がどこにいるのかわからないこの状況にも関わらず、住人達が2、3人集まっていて、チラチラと警官の方を見ては小声で何かを話し合っていた。


 そこから少し離れた所では、セキュリティ会社の担当者が警察の様子を見つめていた。青ざめて少し震えている様子から、責任を問われる事を恐れているのだと見て取れた。


 その横をすり抜け、所轄刑事は1人の男に声を掛けた。


「お二人をお連れしました」


 振り返った男を見て、久我山と竹下は、あっ、と声を出した。男は北川署の河田刑事で、お2人を待っておりました、とでもいう雰囲気で唇の端を持ち上げて笑った。


「ここは北川署管内でしたね、河田刑事」


 久我山の言葉に頷いた河田は、早速ですが…と事件のあらましを報告してから、声を顰めた。


「怪我をしたその女性、警視庁の刑事なんです」


「えっ?部署は?」


「この前の特殊詐欺のガサ入れの時、お世話になった捜査2課です。あの事と何か関係があるかもしれないと思…」


 聞き終わる前に久我山は救急車に向かって走り出していた。


「待って、待ってください!

 その女性は特殊捜査研究所に運びます!

 重要な事件の関係者なんです!」


 久我山はそう叫んでいた。

 

 それは困るという救急隊員に、うちにも医務官がいるから大丈夫、と説き伏せ、全責任は私が持つからと女性を特殊捜査研究所に運び込む手配をした。



 久我山は救急車に同乗して特殊捜査研究所へと向かったが、横たわる女性を見てこんな美しい女性が警視庁にいたのかと驚いた。


 現時点で分かっていることは女性の名前と所属ぐらいだ。


 伊藤香苗 捜査2課



 これから行う取調べについて関連部署に申請するようにと久我山に言われた竹下は車の中で全ての申請を終えていた。

 

「久我山警視正の名前で 'インネル' の使用許可申請しましたけれど…。所長の副総監から '待った' がかかってます。伊藤香苗の捜査にはあちこちの許可が必要だとかで…」


「ああ、気にする事はない。

 多分、大丈夫だろう。多分…な」


 ええ〜っ?という表情の竹下に久我山は、全責任は俺が取るとここでも言った。それに対して竹下は、ブチブチと久我山に聞こえる程度の小声で愚痴った。


「俺、懲戒免職だけはやですよぉ」


 そんな竹下には取り合わず、久我山はとりあえず、いつもの捜査にかかることにした。


 すでに連絡を受けていた田代が 'インネル' の準備を整えて待っていて、傍には主任医務官の野沢達が何があってもいいように待機していた。

 

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