無差別

夜表 計

第1話 現実避難

 授業の終了のチャイムが鳴り、講堂から生徒達のアバターが消えていく。教授は黒板に書いたものを消し、黒板のモニターの電源を切ると一人残っていた僕に手招きをする。

「歴史は楽しいか」

 教授が困ったような顔をしながら問いかける。

「はい、楽しいですよ。時代ごとの人々の思想とかは特に聴いていて面白いです」

 そうか、と教授は少し安心した表情をする。

「歴史は重要だ。過去の出来事があってこそ今がある。当たり前だが忘れやすいものだ。だというのに、AIが多くの仕事を効率的に回すようになり、自身の時間を多く取れるようになったおかげで若者を中心に仮想世界に費やす時間が現実より多くなっている」

 それは聞いたことがある。意識の電子化ができるようになったことで、仮想が現実と同じ情報量を持つようになった。そして仮想世界“ナノスフィア”を作ったことで多くの人が仮想と現実とを行き来するようになったと、

「現実と仮想が逆転している者も多くいるそうだ。彼らにとって現実より仮想の方が大事なのだろう。嘆かわしいことだ」

「“理想の自分にナノスフィアでなれる”というのがナノスフィアの謳い文句だと聞きました」

「理想の自分か…。姿形であれば現実でも可能だがな」

 ナノスキン技術によって人類は肌の色を、性別を、身長や体重でさえも自分の思い通りに変えることができるようになった。

「そうですね。もし理想が叶ってもまた別の理想が生まれてしまうんじゃないですか?」

「そうかもしれないな。人間とは本当に欲深いものだ」

 教授は溜息を付きながらPP(PaperPhone)を丸め内ポケットにしまう。

「そうだ、こんな話しをしたかったわけではない。君に紹介したい友人が居てね。明日の夜は空いているかい?」

 教授は気を取り直したように笑みを浮かべ問いかけてくる。

「明日ですか?明日なら大丈夫です」

「そうか、よかった。君にとっても良い出会いとなるだろう。

 ところで、君はお酒が飲めたかな?」



 夜。教授に連れられて地下のバーへと来た。内装は黒を基調とし、各席には小さなライトが机を照らすだけで客の顔などは余り見えず、全体的に暗く、何かよく分からない違和感を覚える。

 教授がカウンター席を勧め、店員に何かを注文する。

「落ち着かないかい?」

 しきりに周囲を見回していた僕の様子が可笑しかったのか、教授は笑みを浮かべていた。

「あ、すいません。周りのお客さんに迷惑でしたよね」

 不躾な視線を向けていたことを反省し、カウンターに視線を向ける。

「大丈夫、ここの人たちはそんなこと気にしないよ。逆に見てくれる方が嬉しいんだよ。

 ほら、あっちの人も君を見ているよ」

 教授が僕の背後を視線で示す。振り返ると顔は見えなかったが左手と首に薔薇のデジタルペイント(AR上のデジタルアート)を施した人がこちらの視線に気づき手を振っていた。軽く会釈を返し、改めて周りを見渡すと他の客も同じようにデジタルペイントをしていた。中には今まさにデジタルペイントをしている人も居た。

「ここはただのバーじゃないんですね」

「そうだよ。ここは自分を見失った人達のための避難所だよ」

「避難所。“ナノスフィア”ではなく現実の場所にですか?」

「不思議かい?仮想ではなく現実で居場所を見つけるのは」

「不思議と言いますか、なんと言いますか。僕の認識では現実は多くのストレスがかかりますが、“ナノスフィア”ではそういうことから逃れられると思ってます。なので、えっと、すみません、上手く言葉に出来ないです」

「そうだね。君が言いたいのは肉体の有無かな。肉体からの解放。昔、誰かが言っていたよ、『とうとう人類は肉体という檻から脱した』とね」

 教授の言葉に僕は驚くほど納得していた。小さい頃から仮想と現実があった僕らの世代にはその境界は曖昧ではあったが疲労やストレス、そういったものの影響は現実の方が大きかったと思う。

「そうかもしれません。自由というと精神的な自由を連想するので、現実よりも“ナノスフィア”の方が優れていると考えてしまっていました」

「ふふ、優れているか。本来この世に優劣などありはしないのだがね。まぁ、今の若者にとっては現実は生きづらいのかもしれないな」

 教授は注文していたお酒を受け取ると一つを僕に渡す。

「シンガポールスリングだ。飲みやすいから気に入ると思うよ」

 教授からカクテルグラスを受け取り、少し眺める。赤みのある液体を口に含むとフルーツの甘みと酸味が丁度良く混ざり合い、口の中を彩る。

「あ、美味しいですね」

 たった一口で僕はこのカクテルを気に入った。

「気に入ってくれてよかった」

 教授は満足気に自分のグラスを傾け飲む。氷の音がカランとなり、その音が不思議と耳に響き、心地良さを感じた。

「君はまだまだ若い。このカクテルのようにこの現実にはまだ君の知らない秘密が多くある。虚構に浸るのは勿体ないよ」

 教授は遠い眼差しをしながら笑いかける。

「何の話しをしているんだい?」

 教授の背後に両腕に星のデジタルペイントを施した人物が立っていた。教授は振り向くとその人物と力強いハグをする。

「カム、もう良いのか?」

「えぇ、今日のお仕事はお仕舞い」

 カムと呼ばれた人物は全身にデジタルペイントをしていたが、それら全てがぶつかり合いながらも調和しているように思えた。

「紹介するよ、こちらはカム、君に紹介したかった友人だよ」

「カムよ。よろしく」

 カムさんがこちらを向いて肩から手首に向かって星が流れる川が描かれた手を差し出す。反射的に握手を返すとその顔が良く見えた。

 鼻が高く、少し骨ばった顔の左半分を宇宙が覆っていた。星が瞬き、銀河が脈動して、まるで顔の半分だけ別の生き物のように感じられた。

「驚いた?すごいでしょ、この顔自信作なの」

 カムさんが驚いて固まっていた僕の表情に満足しながら自信に溢れた笑みを浮かべる。

「はい…息を飲みました…」

 素直な感想を言うと「ありがとう」と言ってカムさんはハグをする。細見ではあるが、僕よりも頭一つ大きなその体に覆われ、どうすればいいかと困っていると教授が助け舟を出してくれた。

「カム、ほら一緒に飲もう」

 教授がカムさんの肩を叩くと熱烈なハグから解放された。情熱的な人なんだなと思いながら、席に座る。

「カム、この子が前に話した私の授業でちゃんと出席している生徒だよ」

 教授が僕を挟んで座るカムさんに紹介すると、何か納得したような頷きをする。

「やっぱりそうなのね。目の奥に輝きを感じる」

 カムさんが確かめるように僕の瞳を覗き込む。その真剣な眼差しを受け止めきれず、僕は視線を外してグラスに視線を逃がす。その様子に教授もカムさんも小さく笑う。僕は少し気恥ずかしくなっていた。

「今はオンラインで授業をするのが主流なんでしょ?」

 カムさんが教授に質問すると、教授は肯定するが何とも言えない表情をする。

「オンライン授業を否定する訳では無いが、今はアバターだけ表示させて講義の内容はAIに聞かせて、後で要約されたものを見ている生徒がいるそうなんだ」

 教授は大きな溜め息をつく。教師としては何ともやるせない気持ちになるのだろう。

「若者はどんどん現実から離れていく。ナノスフィアでどんなことも出来てしまうようになった事で現実という言葉は薄れてしまっている。その内仮想と現実、この言葉が逆転する日が来るだろう」

 教授は未来への警鐘と憂ういが混ざった言葉を吐き出す。

「そうね、子供達はまだ世界の広さを知らないだけなのにね」

 カムさんは教授を励ますように言うが、その言葉は僕に向かって言ったように感じてしまう。

「…そうだな。私はこれからも教師として歴史を教えていくよ」

 教授は自身のグラスを煽り、一気に飲み干す。その様子を見て、カムさんはまた小さく笑う。

「ごめんなさいね。こんな暗い話しをしちゃって」

 カムさんは申し訳なさそうに笑う。僕は逆に気を使わせてしまい、こちらが申し訳なく思ってしまう。

「い、いえ大丈夫です。貴重なお話が聞けて嬉しかったです」

「そう?ならよかったわ」

 カムさんが笑うと顔半分の宇宙が瞬いたように見えた。

「そうだ、今度ワタシのアトリエに来ない?面白い物を見せて上げる」

 カムさんは1枚の10cm程の紙を僕に差し出す。僕はそれが何なのか分からないが、受け取ると自動的に紙に描かれている流れ星のイラストを拡張レイヤー(網膜に貼られているARデバイス)が読み取り、カムさんの名前とアトリエの場所、代表的な作品が表示される。

 驚いている僕を見て、カムさんと教授は懐かしさと嬉しさを孕んだ笑みを零す。

「それは名刺っていうの。今ではワタシ達のようなアーティストが作品の一つとして細々と残しているわ」

 カムさんは少し悲しそうな目をして僕に渡した名刺を見つめる。

「名刺は半世紀前までは使われていたのだが、ナノスキン技術の発展で個人のデータ管理が厳しくなったんだ。

 市民全員が脳チップを植え込まれて最初は反発もあったが、公共機関の利用や支払い、個人証明等いろいろと利便性があったから徐々に反発する声は減っていったがね。まぁでも、一番の要因は皆が鈍感になって慣れていったからだと思うがね」

 教授が授業をするように説明を続ける。

「今となっては、外見で相手を判断出来なくなってしまったから、チップによる認証で個人証明が出来ないと、皆安心出来ないのも手伝って、全ての個人情報はネットに保存されるようになった。名刺も自分の名前と会社情報が書かれているからそれも個人に紐付けされてネット内で管理されるようになったんだ」

 そこで教授はグラスを傾け、喉を潤すと自分の手首に表示されているコードを僕に見せる。拡張レイヤーが作動して教授の公開情報が表示される。

「今ではこの個人コードを見せれば、すぐに私の情報を見せる事が出来る。公共機関の利用や店舗への出入り、家の鍵でさえもこの個人コードに集約されている。

 私達は名刺の代わりに個人コードで多くの場所で認証させる事で、“私”と言う物を残しているのだよ」

 そこで僕はこの店に入る時に個人コードの認証をしていないことに気付く。

「そう言えば、このお店に入る時に認証しなかったですけど…」

 気付いてくれたことに嬉しくなったのか、教授は一度店内を見渡すと静かに話す。

「最初に言ったが、ここは避難所だ。誰にも知られずに自分を見つめ直す為の場所なんだよ」

 僕は教授の言葉に今日どうして僕をここに連れてきたのかを理解した。

 理想に逃げるのはいいが、ちゃんと現実にも目を向ければ辛いだけではなく、誰かとこうやって繋がることも出来て、逃げ込める場所もあるのだと知ることが出来た。

 理想の世界では得られない経験を僕は知ることが出来て、僕は現実が好きに思えるようになった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

無差別 夜表 計 @ReHUI_1169

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る