第10話 「悲壮の匪徒《ひと》」

 ...午後の講義の間も、頭の中はあの人の予想事でいっぱいだった。

「(結局種田さん、何をあんなに悩んでたんだろうな...恋愛とかだったら、私そういうのに疎いから何にも助けられないんだけど...)はぁ〜...」私の口から不意にこぼれたため息を聞いて、隣にいた美優ちゃんは覗き込んで訊ねてくる。

「ん...?正華、どうしたの?何か険しい表情してるけど...」

「え?いや、ちょっと考え事してて...別に美優ちゃんには関係ない事だから、全然気にしないで。」私が両手を振ってそう言うと、丁度5限の講義が終わるチャイムが鳴った。私は速い手付きですぐに机の上に広げた教科書やノートをカバンにしまい込み、席を立ってすぐに向かおうとすると、美優ちゃんが私に声をかけた。


 「ねぇねぇ正華、この後一緒にお茶しない?あれ、この前のサークルの件のお詫びをしてなかったからさ。ほら、スタバの新しい奴でも飲みに行こうよ!」私は顔をしかめて申し訳無さそうに頭を少し下げる。

「あ〜ごめんね!この後少し用事があって...それに、お詫びなんて良いよ!そもそもそんなに怒ってないし!あぁ...また誘って!バイバイ!」壁掛けの時計をチラチラと見つつ、早口で告げた私は滑るように教室を出ていった。美優ちゃんは首を傾げて考える。

「...ん、用事?おかしいな、今日は剣道の練習はしないって言ってたけど...あの慌て具合...(ま、まさか、正華に恋という名の春の訪れが?)...ちょっと調べちゃおっかな。」美優ちゃんは目を細めて、ニヤニヤとした表情を浮かべていた。


 廊下を走り抜け、図書室に飛び込んだ私は荒く息を吐いて周りをキョロキョロと見渡していた。勉強に励んでいる人や読書に命を注いでいる人が何人かいて、静寂な図書室には私の吐息がやけに大きく響いていた。机の方へと歩いていくと、経済学の参考書を読んでいた元氏さんが私に手を上げて応えてくれた。私はスタスタと小走りで向かい、正面に座って重い荷物を置いた。

「はぁ...はぁ...お、遅れてしまってすみません。ちょっと、友達と話してて...」私がタオルで顔に浮いた汗を拭いながらそう言うと、元氏さんは少し微笑んで言った。

「いえいえ、全然大丈夫です...こっちこそ相談に乗ってくれてありがとうございます。」


 私が水筒を飲んで机に置いたタイミングで、元氏さんは私に話を切り出していった。

「あの...言ってた相談の事なんですけど...」

「あ、どうぞ、遠慮なく喋ってください。内容によっては私じゃ助けにならないかもしれないですけど...まぁ喋るっていうのが元氏さんの気持ち的に良いんで。」すると元氏さんは机の上にスマホを置いて言い出す。

「まぁ...端的に言うと、俺...気付かないうちに闇バイトに加担しちゃって...」

「えっ、や、闇バイトですか!?」私が目を見開いて驚くと、亀吉が訊ねる。

「む?正華殿、その...闇バイトというのは何だ?」

「ちょ、ちょっと静かに!...あ。き、気にしないでください!ちょっとびっくりして大きな声が出ちゃったから...あ、あはは...」

「あ、あぁ、そうですか...」私は亀吉に鋭い目線で抑えつつ、何とかその場を誤魔化して話を進めるようにした。


 「そ、その闇バイトって言うのは、一体どういう物なんですか?テレビとかニュースでは最近すごくよく聞きますけど、イマイチ良く分からなくて...」

「そうですよね。一応俺がやらされたのは、違法な物を運搬させられる闇バイトです。外見は引越し業者のバイトで一見普通の家具とかインテリアを運んでるように見えるんですけど、その家具の中に大量の現金や違法なものが入っていて、それを俺みたいなバイトの奴に特定の場所まで運ばせるんですよ。」

「あぁ...確か、『運び屋』って呼ばれる部類の奴でしたっけ?」私は自分のスマホでネット記事を調べながら言う。闇バイトには多種多様な種類の物があり、どれもが知らない内に犯罪に加担させるという悪質な物である。


 元氏さんは更に話を続けた。

「この『運び屋』の仕事は指示役の人物から物と場所、時間を指定されて運ばされるんです。このスマホにはその指示役の人との連絡アプリが入っていて、バイトの日程とかシフトの時間みたいに指示が飛んできます。知らずにバイトに応募してしまった人は先に個人情報を騙し取られて、事あるごとにそれを引き合いに出されて逃げる事が出来なくなります。これが奴等の常套手段です。...あ、これがバイトの求人サイトですね。」それを聞いた亀吉は眉間にシワを寄せて唸るように言った。

「うむ...言い換えるならば人を駒にして、知らずうちに無法を働かせるという事か。悲しきかな、この時代にもそのように人を欺く大悪漢がいるとは...」


 私は元氏さんのスマホに載っている求人サイトの情報をじーっと流して見ていると、微かに引っかかる点があった。他の求人に比べて、明らかに怪しい雰囲気が高い給料や不明瞭な説明から漂うにも関わらず元氏さんがこれに応募してしまった事だ。私も何度か日雇いや短期のバイトをした事があり、ある程度の時給感覚はある。元氏さんも話しぶりからそういった感覚は少なからずあるだろうと思う。それに経済学部である以上少しは求人の詐欺情報の危険を理解しているはずだ。ならばこの高給料などを見て少しは疑わなかったのか?...と私は思考を巡らせて感じていた。


 「...あの、ちょっと申し訳ないんですけど、元氏さんはこれが怪しいって思わなかったんですか?私から言わせてもらうとこの求人の内容、凄く怪しく見えてしまうんですけど...」私は首を傾げて元氏さんに訊ねた。すると元氏さんは俯いて悔しそうに言う。

「勿論、絶対に黒だと思いましたよ。こんな高収入な引っ越し業者の求人なんてあるわけないです。...でも、怪しくても俺はやるしかないんです。俺の、家族の為に...」


 私はハッとして一瞬うろたえる。

「あ...え、えっと、何か家族関係でも問題があったんですか...?」私が細々とした声色で訊ねると、元氏さんは何度か頷いてから話しだした。

「俺の家族...今は母と二人の弟の四人暮らしなんです。俺の父は一年前の春、多額の借金を残して俺達の前から忽然と姿を消しました。そのせいで、俺の家族はすごく貧乏なんです。俺や弟達の学費も奨学金やそれぞれのバイトの金で補ってはいますけど、半分は母から出してもらってます。母も毎日朝から晩までパートで働いていて何とかしようとしてるんですけど、もう50歳を超えていて肉体的に厳しいんですよ。」そうして話していると、元氏さんは目に光る物を蓄えていきながら声を震わせていった。

「実は何度か...俺もこの大学を中退して町工場で働こうと思ったんです。でも、母が『お前は自分が開きたいって言ってたお店づくりの為に勉強してるんだろ?だったら家の事は気にせずにとことんやりなさい。』って言って止めてくれたんです。だからその日頃の恩返しの為に必死に商学の勉強をしていたのに...お金に目が眩んで、応募してしまったんです...」

 

 私は机に両肘をつき、頭を抱えて俯いた。自分はなんて事を言ってしまったんだと深く反省して、元氏さんに申し訳無さそうに細い声で言う。

「...す、すみません。そんな事も知らずに、私はつい軽い事を...」

「いや、良いんですよ。家計を救う為に勉強をして働いたのに、こんな馬鹿な事になってしまったのは紛れもなく俺のミスです。菊池さんの言うように、一度冷静になって立ち止まれれば、こんな事にはならなかったんです。」私は一度深呼吸をして、気持ちを落ち着かせてから言った。


 「ふぅ...まぁとりあえず、闇バイトは関わり続けるだけ絶対に損だから早めに抜け出した方が絶対に良いと思います。警察の窓口とかで相談すれば、きっと何とかしてくれるはずですよ。」

「そうですね...今日は警察の窓口に行って、明日のシフトには行かないようにしたほうが良いですね。」すると元氏さんはスッと席を立ち、私の目を真っ直ぐに見て言う。

「ありがとうございます。もし相談出来なかったら、俺はずっと闇バイトに蝕まれて、取り返しが付かない所まで行くところでした...本当に感謝してます!」元氏さんはそう言って私に深々と頭を下げた。私は体の前で両手を振って謙遜した。


 大学の正門で私は自転車で帰る元氏さんを見送った。元氏さんの目には、出会った時にはなかった輝きがあったように思えた。私は亀吉に言う。

「...元氏さん、あれで大丈夫かな...浮遊霊はもう憑いてないから、もうそういう負い目は感じてないとは思うんだけど...」すると亀吉は腕を組んで言う。

「それはどうかな?私にも、彼が負い目を感じているとは思えぬ。ただ、彼を誑かしていた悪党がこの後にどのような事をしてくるのかは気を付ける必要があるだろう。悪に染まった人間は、いとも容易く人の何たるかを捨てる。それは己の性でも、他人の命でも同じだ。」私は口を尖らせて亀吉の言葉にただ静かに頷く。


 「...まぁ良い。いずれにせよその悪党は警察とかいう役所の者に早かれ遅かれ捕まるのだ。私達がこれ以上、首を突っ込む事でもない。さぁ正華殿、早くあの家屋に帰ろう。今日は魚が食べたいな...正華殿、何かこの世で良い料理はないのか?」

「え〜魚?う〜ん...それじゃあ近くのスーパーでパック寿司でも探そうか。」私がそう言うと、亀吉は目を輝かせて言った。

「お!寿司か?良いな...生きている時に食べたあの江戸前鮨はとても美味しかった...良かった、今でも寿司はあるんだな!」


 ___家にて。


 「ぐああああ!!な...何だこれは!鼻に、強烈な痛みがっ!!」亀吉は鼻を抑えて床にドタバタとのたうち回った。私は箸で寿司のネタを取り、ひっくり返して初めて気付く。

「あ、ごめん。このパック寿司全部わさび入ってる奴だ。」

「わ、山葵わさび?くぅうう...な、なぜだ。なぜ寿司に山葵なんかが入っているのだ!?私がかつて食べた江戸前鮨にはこんな物入っていなかったぞ!こ...これが現代の寿司なのか...?」


 ___私が調べた所によると、寿司にわさびが入るようになったのは江戸時代の後期だそうで、それよりも前の寿司にはわさびが入っていなかったようです。

「くっ...やはりこの世界は私の生きていた時よりもずっと苦悩が多いようだ...くあああ!!」わさびの辛さに涙を浮かべつつ悲しみを強く感じた、亀吉なのでした。

 

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