第十二話「馬車の向かう先」




 夜が明け、窓の外が白んでくる頃。フィーネは薄暗い部屋の中で目を開く。枕元には昨晩必死に読み込んだノートが置かれている。ほとんど暗記できているかどうかは怪しいものの、それ以上の復習をする気力はもうなかった。


 寝ることもできず、真っ暗な視界の中永遠に設定を黙読するだけ。いつかこの身体も休めるようにしてほしいが老人はきっとしてくれない。


「睡眠がしたい……」


 小さく呟きながらベッドから起き上がると、用意されていた服が目に入る。普段着とは違い、少しだけ格式ばったデザインの黒いワンピースと、シンプルながらも丁寧に仕立てられたケープがセットになっている。


 鏡を見ながら服に袖を通すと、自分がどこか別の誰かになったような気がして落ち着かない。


「こんな服、似合うのかな……」


 心配げに自分の姿を確認していると、部屋の扉が乱暴にノックされる。


「おい、支度は済んだか!」


 聞き慣れた老人の声が響き、フィーネは慌てて扉の方を振り返る。


「は、はい! 今行きます!」


 急いで寝癖を整え、ノートを手に取ると、準備を整えて扉を開けた。そこにはいつもの無愛想な表情の老人――いや、今日は少しだけ立派なローブを身にまとった彼の姿があった。


「やっと来たか。時間がない。馬車を待たせておる」

「馬車……? あ、そんなのも用意されてるんですね」


 フィーネは少し驚いた様子で呟いたが、老人は特に反応せず、彼女を促すように歩き出した。


 老人の後を追いながら廊下を進み、家の外に出る。まだ朝早いということもあって、街の通りには人影がほとんどなかった。静まり返った石畳の道を、二人は黙々と歩いていく。


 街の外れに近づくにつれ、だんだんと視界に広がるのは高い門とその向こうの広がる荒野だった。老人が無言で門番に軽く頷くと、門はゆっくりと開き始める。その音にフィーネは少し身を縮めながら、老人に続いて外へと足を踏み出した。


「これが外……」


 視界に広がるのは、まだ陽が昇りきらない薄明の中、長く続く一本道とその両脇の草原だった。風が吹き抜ける音が耳に心地よく響く。


「ぼんやりしている暇はないぞ」


 老人の声に急かされ、フィーネは小走りで彼に追いついた。


 しばらく歩き続けると、前方に馬車が止まっているのが見えてきた。重厚な木製の車体に細かい装飾が施されており、普通の旅用ではないことが一目で分かる。


 馬車の近くには一人の男が立っていた。彼はやや痩せた体つきだが、しっかりとした姿勢で馬車を見守っている。何かあればすぐに対応できるといった風格があった。


 男は老人を一瞥すると、丁寧ながらも警戒心を感じさせる口調で言った。


「身分を証明してください。この馬車は特定の方以外にはお貸しできません」


 老人はその言葉に何も答えず、静かに懐から小さな銀製のペンダントを取り出した。それは錬金術師の紋章が刻まれたもので、光を浴びると淡い青い輝きを放つ。


 男はそれを見るなり、すぐに表情を改めた。


「失礼いたしました、錬金術師様。どうぞお乗りください」


 そう言いながら馬車の扉を開け、老人とフィーネに道を譲った。


 フィーネは少し躊躇いながら馬車に足を踏み入れる。中は外観以上に豪華で、柔らかいクッションが敷かれた座席が二つ向かい合っていた。天井には小さなランタンが吊るされており、ほのかな光が揺れている。


 老人も続いて馬車に乗り込むと、フィーネの向かいに腰を下ろした。


 馬車が動き出すと、フィーネは窓の外に目を向けた。さっきまで歩いていた道がゆっくりと後方へと流れていく。その揺れに少し慣れてきた頃、ふと老人の方を見た。


「お爺様って……もしかして、すごい偉い人なんですか?」


 フィーネの言葉に、老人は少し驚いたように眉を上げたが、すぐに淡々とした表情に戻った。


「偉い、とは何を基準に言うのじゃ?」

「だって、あの人……馬車の人、なんだかすごく丁寧でした。それに、あの紋章も……普通の人じゃ持ってないですよね?」


 フィーネは老人が見せたペンダントを思い出しながら言葉を続けた。


 老人は一息つき、フィーネをじっと見つめる。


「ふむ。確かに、この紋章は限られた者しか持てぬものだ。じゃが、それが“偉い”ということと同じとは限らん。ただ、他人が勝手にそう思うだけの話じゃ」

「うーん……」


 フィーネは少し納得いかない様子で口を閉じたが、しばらく考えてからもう一度声を上げた。


「それじゃあ、私が錬金術師の一員だって言ってそのペンダントを持っていたら、同じように見られるんですか?」


 老人は短く鼻を鳴らした。


「ふん、そうなればな。だが、今のお前では到底その域には達しておらん。紋章の重みを理解するには、学ぶべきことが山ほどある」

「そ、そうですよね……」


 肩を落としながらフィーネは窓の外に目をやる。しばらく黙っていたが、また不安そうな顔で老人を見た。


「あの……向こうでは、私は何も話さなくていいんですよね?」


 その声は、どこか怯えを含んでいた。


 老人は彼女の表情をじっと見つめた後、ゆっくりと首を横に振った。


「何も話さなくていい、というわけにはいかん。必要があれば話すこともあるだろう。ただ、お前に求められるのは知識ではなく、素直であることだ。余計なことを考えず、私が指示する通りにすればよい」

「……素直、ですか」


 フィーネは少し考え込みながら呟いた。


 老人はその様子に目を細めたが、厳しい口調で続ける。


「お前はまだこの世界のことを何も知らん。だからこそ、知らないことを恥じる必要はない。自分を装うな。ただし、失礼のないように振る舞うこと。それだけは忘れるな」

「……分かりました」


 フィーネは小さく頷くと、再び窓の外に目を向けた。


 老人はそれ以上何も言わず、静かに目を閉じた。その姿を見たフィーネは、どこか緊張感のある馬車の中で、自分にできることを必死に考え始めていた。


 馬車は街を離れ、どんどん自然の中へと進んでいく。石畳の道が途切れ、車輪が土の道を踏む音に変わる頃、周囲は深い森に包まれていた。背の高い木々が空を覆い、陽の光がほとんど届かない薄暗い道が続く。


 フィーネは窓の外の景色を眺めながら、次第に不安な気持ちを募らせた。


「お爺様、この先に何があるんですか?」

「着けば分かることだ。余計なことは考えんでよい」


 老人のそっけない返事に、フィーネはまた口をつぐむ。


 しばらく進んだところで、馬車が突然停止した。揺れが止まり、静寂が訪れる。フィーネは驚いて老人を見る。


「どうしたんですか?」


 フィーネが不安そうに尋ねると、老人は無言で扉を押し開け、馬車から降りた。


「ここが目的地だ」


 老人は振り返りもせず、静かにそう告げた。


「えっ、ここ……?」


 フィーネは戸惑いながら馬車の扉に手をかけた。外に出ると、目の前には広がる森の中の開けた空間があるだけで、建物や目的地らしいものは何も見当たらない。


「ここって、ただの森じゃ……」


 フィーネが困惑していると、馬車の御者がゆっくりと近づいてきた。彼は何か小さな道具を手にしていた。それは銀色の筒のような形をしており、複雑な模様が刻まれている。


「準備完了です、錬金術師様」


 御者が老人に一礼すると、彼は道具を頭上にかざした。その瞬間、道具の先端が淡い光を放ち始める。


 すると、目の前の空間が揺らぎ、透明な幕が裂けるようにして現れた。裂け目の向こうには、豪華な会場が浮かび上がる。まるで絵画の中に入り込むような光景だった。高い天井にきらめくシャンデリア、白と金で統一された荘厳な建築、無数の人々が行き交う様子が一瞬にしてフィーネの目に飛び込んでくる。


「こ、これ……!」


 フィーネは息を呑んだまま、その場に立ち尽くした。


 老人は何も言わずにその裂け目をくぐり始める。


「ちょ、ちょっと待ってください! 本当にここに入るんですか? これ……安全なんですよね?」


 フィーネは慌てて老人に問いかけた。


「何を怯えている。こんなことで驚いているようじゃこの先やっていけんぞ」


 老人は振り返らず、淡々と答える。


 フィーネは不安を抱えたまま、意を決してその裂け目に足を踏み入れた。空間を抜ける瞬間、体が軽く浮き上がるような感覚と共に、視界が一瞬だけ暗転する。そして、気がつけば豪華な会場の中に立っていた。


「ここ……本当に現実……?」


 フィーネは周囲を見渡しながら、小さく呟いた。目の前の光景は非現実的すぎて、夢の中にいるようだった。


 老人はそんなフィーネを一瞥すると、足を止めることなく歩き出した。


「ぼんやりしている暇はないぞ。ついて来い」


 フィーネは慌てて老人の後を追いかけたが、その目はまだ信じられないというように会場の豪華さに釘付けになっていた。


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