第44話 いつでもない時間の何処でもない場所で

 身体中の痛みで、陸は意識を取り戻した。

 ぼやけていた視界が、ややもして鮮明になっていく。

 しかし、周囲にあるのは、何もない真っ白な空間だ。奥行きがあるようにも感じられるが、本当に何もない為か、陸は、遠近感が狂っていくような気がした。

 自分の身体が寝そべっているのか浮かんでいるのかも定かではない奇妙な感覚にも、彼は戸惑った。

 ただ、この場の空気は非常に澄んでおり、清浄なものに感じられる。

 ふと自分の身体を見下ろしてみた陸は、両腕が二の腕の辺りから千切れているのを見て取った。

 ――道理で痛い筈だ。この息苦しい感じ、あのバス事故の時に似てるな……

「陸よ、気が付いたか」

 ぼんやりと考えていた陸の脳内に、ヤクモの声が響いた。

「……俺、もしかして死んだの?」

 掠れた声で、陸は問いかけた。

われが共にある限り、其方そなたが死ぬことはないのである。しかし、さすがに疲れたゆえ、身体の修復に時間がかかっているのである……すまぬが、今しばらく待つのである」

「分かった。うん、急がなくていいよ。……あの『怪異』は、どうなったのかな。手応えは、あった気がしたけど」

「奴は、其方そなたの攻撃で消滅した。われらの勝ちである」

 ヤクモの言葉に、陸は安堵の微笑みを浮かべた。

「それなら、よかった。……ところで、ここは、どこ?」

 陸の問いに、ヤクモは一瞬考える様子を見せた。

「ここは……其方そなたたちの言葉で言えば『神域』とでもいうものである」

「『神域』?」

「いつでもない時間、何処どこでもない場所とでも言えばいいのか……説明が難しいのである。われらを、ここに運んだのは、我が『あるじ』であろう」

「……『あるじ』?」

 その時、自分の中に何者かの思念らしきものが入り込んでくるのを、陸は感じた。

 初めは周波数の合わないラジオの雑音のようだったが、徐々に言葉を形作かたちづくっていく。

「……人間の思考にチャンネルを合わせるのは面倒だな。一々いちいち言葉に変換しなければならんとは」

 男のようにも女のようにも聞こえる声が言った。

「ああ、姿がないと話しにくいか、少し待て」

 声と共に、陸の前に現れたのは、薄物の布をまとった一人の女だった。

 何もない空間に、ゆったりとソファにでも半ば寝そべっているかのような姿勢で浮かんでいる様は、彼女が超常の存在であることを雄弁に物語っている。

 しかも、その顏は、眼鏡こそかけていないものの、あの冷泉れいぜい真理奈まりなと瓜二つだ。

冷泉れいぜいさん?! なんで……?!」

 思わず素っ頓狂な声を上げた陸を見て、女が、くすりと笑った。

「私には決まった姿がないゆえ、其方そなたの心に残っている者の姿を借りただけだ」

「――『あるじ』よ、久しいのである」

 ヤクモの言葉に、陸は再び驚いた。

「この人が、君の『あるじ』? あなたたちは、一体何者なんです……もしかして、神様みたいな?」

「『神』……人間が言うは、我々に近くもあるが、遠い概念だな」

 女が首を振った。

「たしかに、我々は人間にはない力を持つが、其方そなたらの個々の運命などには興味がない。例えるなら、砂浜を歩いている時、其方そなたは自分が踏みしめている砂の一粒一粒のことまで考えるか? それと同じだ。いや、言葉にすると上手く伝わらない気もするが、少なくとも人間たちの考える、『彼らに都合のよい神』とは異なるな」

「でも、人間に害を成す『悪しきもの』を退治してくれたりしているんですよね」

「別に、人間の為ではない。あれら『悪しきもの』を滅するのは我々の都合に過ぎん。たまたま人間にとっても都合がよいというだけであろう。それを有難ありがたがって『信仰』されるのは、悪くない気分だが」

 そう言うと、女は真理奈と同じ顔に、少し皮肉な笑みを浮かべた。

「それにしても、急に姿を見なくなったと思ったら、そんなところにいたとはな。探すのに手間がかかったぞ」

 ふと女が、陸の胸の辺りに目をやった。

「『悪しきもの』との戦いにて肉体を失い、この陸の身体をうつわとして、力が戻るのを待っているところである……」

 どこか面目なさそうな声で、ヤクモが言った。

「なるほど、では、私が新たな肉体を作ってやろう。そのうつわの中にいるのは、色々と不便だろうからな」

 女が事もなげに言ったが、陸は重大なことに気付いた。

 ――ヤクモが新たな肉体を貰える、ということは、俺の身体から出ていく……つまり、俺は死ぬということか? でも、だからといってヤクモに新たな肉体を貰うのをやめろと言う権利なんて、俺には無い。オマケの人生が終わるってだけだ。

 陸は、そう考えて再び死を迎える覚悟を決めようとした。

 しかし。

「いや、今は新たなうつわは不要である」

 ヤクモの思わぬ言葉に、陸は目を見開いた。

われが離れれば、陸は死ぬのである。『あるじ』でも、陸の失われた生命そのものを補ってやることはできぬであろう?」

「そうだな。私が作り出した其方そなたについては、ある程度自由が利いても、『あちらの世界』のことわりに干渉し過ぎるのは好ましいことではないからな」

 女は、そう言って頷いた。

「何で……新しい身体を貰えば、君は自由になれるのに……」

 陸は、震える声で言った。ヤクモにとっては重大な選択を、自分の為だけに曲げさせることなど考えられなかった。

「たわけが! われを、其方そなたが死んでも平気な人でなしと思うておったのか?! ……まぁ人ではないが」

 初めて聞く、激昂したヤクモの声に、陸は思わず身を縮めた。

「でも、それだけの為に君を縛りつける訳にはいかないじゃないか。あの事故で俺は死んだ筈だったんだ。……あれからの人生はオマケみたいなものだよ」

「このに及んで『それだけ』とは何事であるか! 『オマケ』だなどとふざけたことをぬかしておったら、ぶっ飛ばすのである! これまでわれが何の為に人間たちに力を貸していたと思う? 人の世の旨いものをしょくしたいというのもあるが……其方そなたと共に生きたいと思うたゆえでもあるぞ」

「俺と……?」

「それに、其方そなたが戻らねば、皆が何と思うか考えたのか? 真理奈まりな桜桃ゆすら来栖くるす観月みづき元宮もとみやも、その他にも共に戦ってきた者たちが悲しむとは思わぬのか」

「それは……」

「道理だのわれの都合だのを無視した、其方そなたの本当の気持ちは、どうであるか? 其方そなたは心の底から、死んでも構わぬと思うておるのか?」

 陸は、「怪異戦略本部かいいせんりゃくほんぶ」に来てから会った者たちの顔を思い浮かべた。

 肉親を全て失った自分には、死んだところで悲しむ者などいない、だから何も問題など無いと、陸は思っていた。

 それでも、彼は、これまで関わってきた者たちと会えなくなると考えた時、想像もしていなかった寂しさと悲しみに、胸が押し潰されるような気持ちを覚えた。

「…………生きたい。……俺だって、みんなやヤクモと生きていたいよ」

 陸の涙腺が決壊し、涙が溢れた。

「それが本心であろう。其方そなたが一番面倒くさい奴である。まったく、世話の焼けるものぞ」

 子供のように泣きじゃくる陸を、あやすように言うと、ヤクモは、ふふと笑った。

「……という訳で、われは陸の寿命が尽きるまで共におることにする。なに、それはわれや『あるじ』にとっては瞬きほどの時間であろうぞ」

「ふむ、其方そなたが、それでいいというなら構わんが。しかし、先刻の言い草は、まるで人間のようだったぞ。それも、うつわの影響か」

 黙って成り行きを見守っていた女が、やれやれと肩をすくめた。

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