第5話 温泉男祭り
もうもうと湯煙のわく温泉には、屈強な男たちが待ち構えていた。
「明智殿か、よくお越しくださった」
《高坂昌信:武田四名臣、海津城主、三十三歳:統率91、武勇75、知略85、政治71》
武田信玄に寵愛された名将がいきなりお出迎えだ。
引き締まった体が湯を浴びてきらめいている。
「明智殿は女子のようなきれいな体をしておりますな」と、上から下までじっくりと俺の体をなめ回すように眺める。「モノは立派でござるな……」
ゴクリと唾を飲み込む男が俺との間合いを詰めてくるものだから、思わず後ずさる。
「遠慮などするな。裸の付き合いだ。武器などあるわけなかろう」
そして、いきなり湯の中で俺の下半身に手を伸ばす。
「ん、ここについておるか、男の武器が。ワッハッハ」
うおっ、危ねえ。
なんとか腰を引いて逃げたが、相手の目は本気だった。
「湯につかっておる間は、身分や立場など気にせずくつろがねばならぬ。堅苦しいことをこねるやつこそ追い出してやるわい」
いやいや、あんたとなんか戦えませんよ。
「おぬしがあの明智か」
次に湯煙の中からぬうっと顔を出したのは、秀吉の一夜城構築戦を中継した脳内モニター画像で見た馬場信房だった。
「織田のサルにはこの間の戦で煮え湯を飲まされたが、あれはおぬしの策略だそうだな」
さすが武田の名将、すでに的確に情報をつかんでいたか。
だが、言葉とは裏腹に表情は和やかだった。
「終わったことに遺恨はない。今日は水ならぬ湯に流してくつろごうではないか」
バンバンと背中を叩かれ、奥へと導かれる。
「馬場殿はなんとも寛容な御方よ」と、次に現れたのは小男だった。「わしは屈辱を忘れぬぞ。ここで拙者と相撲を取れ」
飯富昌景がいきなり湯の中で俺に組みついてくる。
「おぬし、肌がきめ細かく、吸いつくように滑らかじゃのう。女子にも勝る肌合いじゃ」
「いや、それは温泉のお湯のせいではありませんか」
この温泉はアルカリ泉質らしく、ぬるぬるとした感触のお湯なのだ。
中学の修学旅行で宿泊した旅館がこの泉質に似ていたのを思い出す。
意外なことに、小柄な飯富昌景は猛将とはいえ、それほど力が強いわけでもなく、手加減していたとしてもあまりにも子供のように簡単にいなすことができた。
ちょっと体をひねると、勝手に自分から前のめりに湯に潜ってしまった。
「おうっふ」と、顔を拭いながら立ち上がる。「おぬし、格闘には強いようだな」
いやいや、赤備えを率いる武将にしては、あんたの方が弱くてびっくりだよ。
「おい、彦六」と、昌景がのんびりと湯につかっていた若者を呼ぶ。
「はい、なんでございましょうか」
「おまえがこいつに泡を吹かせろ」
《穴山信君:武田二十四将、御一門衆、織田家の甲州征伐で武田家を離反、十九歳:統率38、武勇19、知略52、政治74》
俺とほぼ同世代の痩せた男がざばっと湯から立ち上がる。
――これが穴山信君か。
高坂昌信や馬場信房のように筋肉隆々の偉丈夫と並ぶとなんともなよなよとした女性かと間違えそうな体型をしている。
どういうわけか、少しだけ胸がふっくらとしていて、目のやり場に困る。
「おうおう、こやつ、彦六を見て頬を赤らめておるぞ」
いや、ただ湯が熱いだけだから。
「えいやっ」と、穴山信君が俺に抱きついてくる。
いや、相撲を取っているつもりなんだろうが、いきなり女子に抱きつかれたみたいになって、俺は思わずまともに組み合ってしまった。
まるで放課後の教室で、いきなりコクられたみたいな感覚だった(経験はないけど)。
二人抱き合ったまま湯の中へ倒れ込む。
――うごっ、あっぷ。
穴山信君が俺にのしかかったまま立とうとしないので溺れそうになる。
ちょ、おい、離せ。
もがっ、ゴボッ……。
なんだよ、もしかして、こいつ、このまま俺を殺そうっていうのか。
と、そこで誰かが俺の腕をつかんでお湯から引き上げた。
「旦那、何やってるんすか」
権造が呆れ顔で俺の背中をさすってくれる。
まわりを見ると、小助、入道、十蔵、吉三郎がみな湯につかってくつろいでいた。
武田の名将たちに比べるといかにも小者感が漂うが、今は心強い助っ人だ。
「明智殿」と、高坂昌信が俺を呼ぶ。「お館様はこちらですぞ」
もわっと湯煙に遮られてよく分からないが、俺は誘われた方へと湯をかき分けて歩み寄った。
「これはこれは、よくお越しくださった、明智殿」
――ん?
真っ白な湯煙の中に、真っ赤な
湯につかっていた赤達磨がいきなり立ち上がった。
「快川紹喜殿もぜひこちらへ」
「お招きかたじけない」と、老師がぬうっと奥へ歩み寄る。「なかなかいい湯でございますな」
「うむ、このぬるりとまとわりつくような泉質、このあたりではなかなか珍しい方でしてな。わしも気に入っておるのですわ」
「煩悩を刺激されるような心地よさは罪深きほどでございますぞ。この世の極楽ですな」
「わはは、昇天してしまうかも知れませぬな」
湯につかりすぎているのか、甲斐の虎と呼ばれたおっさんは体中真っ赤で、上機嫌に頭を揺らしてくつろいでいる。
これじゃ、あの土産物の赤べこじゃねえかよ。
甲斐の虎との対面に緊張していたのに、体中の力が抜けてしまった。
俺は正面に回って挨拶を述べた。
「織田家の軍師、明智光秀と申します。このたびは道中のお手配を賜り、誠にありがとうございました」
「わっはっは、入浴時に堅苦しい挨拶など無用。湯につかればみな裸。男の付き合いじゃ。ほれほれ、明智殿も立っておらんで肩までつかるが良い」
「はい、では、遠慮なく」
「そうじゃそうじゃ。話の早い若者は大好きじゃ」と、いきなり俺の肩から腕をさすりはじめる。「肌もすべすべとしておって、なかなかのものよ」
ちょ、だから、それはお湯のせいだって。
ご機嫌を損ねるわけにもいかず、俺は信玄のなすがままに耐えていた。
「ほれ、湯冷めするといかん、入れ入れ」と、信玄が俺の肩を押さえ込んで湯につかる。「ううむ、いいのう、実にいい」
何がだよ。
触るなっつうの。
「どうじゃ、なかなか良かろう」
「ああ、はい、とても良い温泉だと思います」
「そうであろう、そうであろう。おぬしも実にすばらしい」
何やら視線を感じるので目をやると、高坂昌信がジャバジャバと波を立てながらシャチのように鋭い目でこちらへ近づいてきた。
「お館様、客人にお戯れはお控えくだされ」
「お、おう、源五郎。いや、なに、これはべつにそういうことではないのだ」
「そういうこととは、いかなるものでございますかな」と、顔がくっつくくらいに詰め寄る。
「だから、そうではないと言っておるのだ」と、赤べこおやじが目をそらす。
「この源五郎にはまるで分かりませぬぞ」
おいおい、いきなり修羅場かよ。
俺は二人の痴話喧嘩の間に赤べこ信玄から逃げることができた。
「お館様にはこの源五郎がおりまする」
「ああ、もちろんじゃ。わしは、そなた以外に興味もないわい」
「では、お館様、織田家の使者としてお越しくださった明智殿との会談を」
「おお、そうであったな」
ふう、痴話喧嘩のおかげで本題に入れるとはな。
お湯のせいか他のせいか、早くものぼせそうだ。
俺はまず、権造たちに運んでもらってきた献上品をここで披露することにした。
「こちらは牡蠣の燻製でございます」
「ほう、ずいぶん前に食ったことがある。懐かしいのう」
「甲斐国には海がございませんので、良き土産になるかと持参いたしました」
ちょっと嫌味を言っているような形になったが、信玄は牡蠣を堪能していた。
「酒が欲しくなるのう」
のんきな信玄に高坂昌信が再び詰め寄る。
「お館様、温泉での飲酒は卒中などの危険がございます。お控えくだされ」
「分かっておる」と、甲斐の赤べこはまた目をそらす。「ただの願望を述べただけじゃわい。そなたは真面目すぎるぞ」
「わたくしはただお館様のお体を心配しているのでございます」
「分かった、分かった」と、ぺこぺこうなずく。「もうよい、もうよい」
痴話喧嘩のせいでなかなか話が進まない。
どこが『疾きこと風の如く』だよ。
「織田家からの友好の証として、塩もご用意いたしました」
「何、塩であるか」
信玄は急に鋭い目つきになって俺をにらんだ。
「もちろん、今川と北条の塩止めを知ってのことであろう。甲斐の弱みをつついて何を引き出そうというのだ」
今度はいきなり核心に迫ってきた。
名将なのか、ただのスケベ親父なのか、スケベな名将なのか、部下に弱い赤べこなのか、印象がころころ変わって話しにくい。
それが相手の作戦だとしたら、それもまたたいしたものだが、そのペースに巻き込まれてはいけない。
俺はあらためて気を引き締めて会談を進めることにした。
「つついて引き出したいのは、織田家との同盟でございます」
「話が早くていいのう。だが、武田にとってうまみがない」
俺は現在の武田家の状況をあらためて整理するところから始めた。
「おそれながら、武田家は現在四方をすべて敵に囲まれた状態となっております。南の今川、東の北条からは塩止めの嫌がらせ。北の上杉とは度重なる紛争。西の小笠原やその先の斎藤。また、西へ拡大しようとすれば、いずれ我が織田家ともぶつかることになるでしょう。現に、先日、駿河と三河への侵攻において、松平家と同盟を結ぶ織田家の軍勢が馬場殿と飯富殿の軍勢と対峙したことは事実でございます」
自分の名前を出された二人は俺を一瞥しつつも、平静を装って湯につかっていた。
「しかしながら、お館様、この状況では武田家の今後の発展は見込めないものと言わざるをえません」
「我が武田家をなめておるのか」と、信玄が俺をにらむ。「精強な兵をもって、これまで各地の戦いで敵を撃破してきたのだ。これからも同様だ。何も恐れることなどないわい」
だが、俺は史実を知っている。
今年、一五六一年は数度にわたった川中島の合戦の中で、最も激しい戦いが発生するのだ。
信玄の同母弟である武田信繁や家臣の山本勘助を失い、上杉謙信には本陣に切り込まれ、伝説によれば、武田信玄との一騎打ちがおこなわれたとされている。
「率直に申し上げて、今年の武田家は多大な損失を被ることになります」
「なんじゃ、急に易者になりおって。わしはそのような根拠のない話を聞くつもりなどはないぞ」
「いえ、九月十日に再び川中島で戦いが起こります」
「見てきたようなことを」
俺が未来人であることを明らかにしたところで、覚醒した織田信長と違って簡単に話を受け入れることはないだろう。
だが、納得させられなければ、同盟の話も立ち消えとなる。
「その戦いにおいて、武田家の一族や重臣が討ち死にします」
「無礼なことを申すな。湯につかっておるからといって、なんでも許されるわけではないぞ」
「信繁様でも、ですか?」
「何っ、なんじゃと!」と、信玄は怒りに震えながら立ち上がった。
白い湯煙でセンシティブな部分は隠れているが、俺は真っ赤に煮えたその体を見上げた。
――胸毛、すげえな。
本質と関係ないことに気を取られて、緊張感が紛れる。
相手は学校教師のように怒っているが、俺は説教を受ける生徒が嵐が過ぎるのを待つように,信玄の怒りを受け流していた。
「織田家の使者とはいえ、次郎(信繁)の名前を出し、不吉な予言をするとは、断じて許せぬ。源五郎(昌信)、こやつを切り捨てよ」
「湯が汚れます、お館様」と、高坂昌信は主君に対して淡々と答えた。「まずは使者の口上を聞く。それが礼節でございましょう」
「うるさい、わしに逆らうのか!」
「快川紹喜師もいらっしゃるのです。ここはいったん落ち着いてくだされ」
「ううむ」
信玄は険しい表情を収めることはなかったが、高坂昌信の諌言を受け入れ、再び湯につかった。
二人の間にはよほどの信頼関係があるのだろう。
「信繁様だけではございません、山本勘助殿も討ち死にいたします」
「なんと」と、馬場信房があからさまに驚いた表情を見せ、腰まで湯から飛び上がった。「勘助殿までも」
居並ぶ家臣たちも湯につかったままではあるが、動揺の色は隠せていない。
「わしが討ち死にするとな」
名指しされた山本勘助本人が湯煙の中からぬうっと姿を現した。
「それはどのような状況なのであるかな」
さすが武田家の軍師。
状況を把握して分析しようということらしい。
俺は脳内モニターに表示される第四次川中島の合戦データを参考にしながら、当日の武田上杉両軍の動きを説明した。
「上杉軍は海津城を回り込み、南西の妻女山に陣取ります。これに対し、武田軍は川中島西岸に本陣を置き、海津城と連携し、上杉軍を牽制します」
「ふむ、なるほど」と、山本勘助は現地の地図を頭に思い浮かべているのか、目をつむりながらうなずいていた。
「挟撃を恐れて上杉軍は動きません。武田軍はいったん陣を解き、海津城に入城しますが戦況は膠着し、士気の低下を恐れたお館様はここで勘助殿の進言により、ある作戦を取り入れます」
「なんじゃ、それは」
不機嫌な声が温泉に響き渡る。
真っ赤に茹で上がった家臣たちも俺の話にじっと耳を傾けていた。
「海津城から別働隊を妻女山に送り、背後から敵をつつく。そして、川中島の八幡原に出てきたところを、海津城の本隊と挟撃して叩くという作戦です。これを『
「ううむ」と、勘助がうなる。「わしなら、たしかにそのように進言するであろうな」
「軍略的には理にかなっているとそれがしも思います」
馬場信房が割って入ると、高坂昌信もそれに続いた。
「妻女山に籠もった兵をおびき出すには、たしかにその作戦しかありませんな」
「しかし」と、俺は武田の重臣たちを見回し注目を集めた。「ここで、ある偶発的な出来事が両軍の運命を大きく変えるのです」
みなが息をのみ、静まりかえる。
「上杉軍は、海津城の炊事の煙が盛大に沸き起こったことで、武田軍が行動を起こすことを察知します。さらに作戦当日は川中島が深い霧に包まれます。馬場殿と高坂殿が率いる別働隊が妻女山を攻撃したときにはすでに上杉軍は下山しており、霧の中で、待ち構えていた武田家の本隊に遭遇、大混乱の中、合戦が始まってしまうのです」
「ほう」と、山本勘助が前のめりに声を上げる。「して、どうなるのだ?」
「上杉家の柿崎景家殿をご存じですか」
「ご存じも何も、何度も煮え湯を飲まされておる。敵に回したくはない男よ」
俺の脳内モニターにデータがポップアップした。
《柿崎景家:上杉家臣四十八歳:統率90、武勇95、知略12、政治64》
信長のアレでも上杉謙信と共に攻め込まれると、味方の兵があっという間に溶けていくほど手がつけられない猪突猛進の勇将だ。
「その上杉軍の精鋭を率いる景家殿が車懸りの波状攻撃で本隊に襲いかかります。武田軍は総崩れ、これにより、先ほど申し上げたように、信繁様や勘助殿が討ち死になされるのでございます」
「なるほど、筋は通っておるな」と、勘助がうなずく。「わしなら、立案した作戦が失敗した責任を取って敵に切り込むであろうな」
「武田軍の損失はそれだけではありません。その後、敵の大将自ら本陣へ突入し、お館様に斬りかかります」
「馬鹿な」と、信玄が半笑いで俺を見る。「敵の大将自らが最前線に出るなど、そのようなことがあるはずがない」
「相手はあの上杉です。自らを軍神と信ずるものの信念を甘く見てはいけません」
「みなの者、このような作り話を信じるでないぞ」
「しかしながらお館様」と、高坂昌信が口を開く。「この源五郎、海津城主として、明智殿の話は単なる予言とは思えぬ真実(まこと)を感じますぞ。我が武田家の敗北が目に浮かぶようでございます」
武田信玄は寵臣からの諌言に激高し、拳を握りしめて湯をたたきつけた。
「げ、源五っ、その方までそのようなことを申すとは。いくらその方でも許せぬ事があるぞ」
信玄の怒りに対し、重臣たちはみな俺の話を受け入れているらしく黙り込んでいた。
その静かな態度の理由に思い当たるところがあった俺は、別の角度から話を進めることにした。
「おそれながらお館様、これまでの武田家の方針に誤りがなかったか、今一度お考えいただけないでしょうか」
「なんだと」
「武田家の領土拡大は、そもそもなにゆえにおこなわれているものでございましょうか」
「戦国の世に我が武田家の威光を知らしめることは当然であろう」
「それだけでございますか」
率直な俺の質問に、ピクリと信玄の眉が上がる。
「他に何があるというのだ?」
――しめた。
甲斐の虎から明らかな動揺を引き出すことができた。
本当は自覚しているのだ。
武田の
「甲斐の国力に限界があるからではございませんか」
家臣たちの表情にも明らかな変化が見られた。
――そうだ。
家臣たちはみな疲れているのだ。
毎年毎年周辺国への侵攻を繰り返し、収穫を略奪するも、それは一時しのぎにしかならず、ただ単に相手に憎悪を植えつけるだけで、いつまでたっても根本的な領国開発に結びつくことがなかったのだ。
僅かな収奪品のために侵攻と撤退を繰り返し、そのたびに自分たちの身内も犠牲にしてきたのだ。
度重なる戦いに、猛将といえども無傷ではいられない。
それを武士の誉れと感じていても、積んでは崩れる賽の河原の石と同じむなしさをみな心の奥に抱いてきたのだろう。
誰も主君に向かって言うことができなかった真実を俺がみなの前でさらけ出すと、感極まったようにぎゅっと目を閉じる者もいた。
「それで」と、信玄は声を震わせながらつぶやいた。「何が言いたい」
「これまでの短略的な侵攻政策を改め、長期的かつ安定的な繁栄を目指すのでございます」
「なるほど」と、高坂昌信が主君を差し置いて進み出た。「それはどのような方法ですかな」
よし、食いついた。
他の家臣たちも高坂昌信に同調したようだ。
「これまでの戦いでは、一時的に勝利を収めても、その領土を維持することが不可能でした。それは甲斐国の農業生産に限界があり、兵力の動員がままならなかったことにあります」
「だからこそ、我が武田の兵は一騎当千の精強にして、敵の大軍を蹴散らしてきたのだ」
信玄は俺の話を遮るが、高坂昌信に睨まれて赤べこのように首をすくめた。
「甲斐国の根本的な弱点はそれだけではありません。海がない内陸の地である。駿河、相模、越後に対して、これは非常に大きな重荷ではございませんか」
高坂昌信が深くうなずく。
「こたびの塩止めも、我が甲斐国の弱点を突いてきたわけですからな」
「我々のこれまでの軍事行動も、つまるところ、海を手に入れるための侵攻だったと言えるのでしょうな」と、馬場信房も同意した。「そして、それはことごとく失敗であった、と」
湯につかった家臣たちから漏れたため息が湯煙と共に拡散していく。
「そこでまず、織田家としては、武田家への友好の証として、海を提供しようと思うのです」
「なに、海を?」と、信玄が鼻で笑う。「馬鹿を申すな。富士の高嶺を越えて持ってくると言うのか」
俺はひるむことなく、用意してきた切り札を突きつけた。
「織田家とこのたび同盟を結んだ松平家が三河の港を差し出すと申し上げたらいかがいたしますか」
「なんと、本気か」
「はい。冗談ではございませぬ。すでに松平家の合意は得ております。もちろん、この話がまとまった暁には、松平家からの正式な使者もご挨拶に参ります」
「無茶な話にもほどがある。松平に何の得がある」
史実とかけ離れた桶狭間の合戦から半年、急展開の松平家の裏事情を知らない者からすれば、俺の提案は奇妙に思えるだろう。
だが、当主の松平信康は織田家の傀儡に過ぎない影武者なのだ。
確実な裏付けを武器に、俺は強気に攻めた。
「三河を押さえることができれば港を手に入れ、通商による莫大な利益を得ることができます。不安定な農業だけに頼らなくてもすむのです。それだけではありません。西の織田家との同盟により、遠江駿河への侵攻もこれまでと比べて段違いに楽になり、今川を打倒できるでしょう」
「ううむ、今川を、な」
信玄は腕組みをし、真剣な表情で考えを巡らせ始めた。
「明智殿」と、高坂昌信が俺の前に来た。「この同盟の狙いはそれだけではありませぬな」
「さすがは高坂殿」
俺は相手を立てつつ、説明を続けた。
「我が織田家は『天下二分の計』を提案しようと考えております」
「つまり、この日の本を東西に分割しようというのであるか?」
「はい」と、俺はうなずき、信玄に向かって同盟の意義を述べた。
「これより織田家は西へと向かい、京を目指します。武田は東を目指し、遠江駿河の今川、南関東の北条、そして、越後の上杉を打倒してください」
「単なる夢物語に過ぎぬわい」
「夢は大いなる力を持ちます。大きな目標を達成するには夢を持たなければなりません」
「だが、無理なものは無理であろう。敵は強大だ。簡単に屈する相手ではない」
「これまでは武田家の兵力を温存しつつ分散して対抗せねばなりませんでした」
高坂昌信がうなずいている。
「この同盟のうまみは両家がお互いに後顧の憂いをなくすことができることです。織田は西へ、武田は東へ。後ろを顧みることなく上杉や北条と正面から戦うことができます」
「そのような都合の良い話を信用しろというのか。いつ裏切って後ろから攻めてくるか分からない相手と同盟など結べるわけもなかろう」
今現在同盟を破棄してはいない今川や北条から塩を止められている事実を苦々しく思い出しているかのように渋い表情を浮かべていた。
「我が織田家は戦国の世を終わらせ、太平の世をもたらそうとしています。争いで奪うのではなく、正当な商業や産業の発展で民の生活を向上させる。織田家の目的は日の本全体の繁栄なのです」
「おぬしはこのわしを信用しておるのか」
「はい。信義を曲げるような御方ではないと」
「だが、今川とも北条とも織田ともその都度約束をしつつ、用が済めば破談にしてきた。思惑とは移ろいやすいもの。それが戦国の世の定めというものではないか。織田の思惑がそのような理想ばかりとは思えぬ」
信玄は湯につかったまま目を閉じた。
重臣たちもみな俺の話の要点に思いを巡らしているようだった。
「ううむ、やはり、今ひとつ信用できんな」と、信玄が口を開いた。「人は欲望で動くもの。それがあるからこそ、約束にも裏付けができる。道義や理想などを掲げて行動する者を、わしは信じぬ」
「関東管領の大義を掲げる上杉の悪口でございますか」
俺の冗談が気に入ったらしく、手をたたいて豪快に笑う。
「ワッハッハッ、何度も対戦した敵だけに、よく知っておるからな」
オレはまたさらに、違う角度から話を進めてみることにした。
「お館様は温泉がお好きでいらっしゃる」
「うむ。ずっと湯につかっていたい気分じゃ。飯も睡眠も温泉の中でなんでもできたら言うことはないわい」
「まさにそれでございます」と、俺はポンと音を立てて手を組み合わせた。「たとえば、日の本すべての村に温泉を引けたらどうでしょうか」
「何を馬鹿なことを」と、信玄は鼻で笑うが、興味はあるようだった。
「例えばこの温泉からお湯を引き、麓の村へお湯を運べば山奥まで来なくてもすむようになります」
「なるほど」
「毎日温泉に入れれば、兵の疲労回復にも役立ちますし、農民たちの健康維持にも活用できるでしょう」
俺の頭の中には令和のスーパー銭湯という実例があった。
「湯につかって争う馬鹿もなし。日の本すべてが温泉であればこの世は泰平であろうな」
赤べこみたいに首を揺らしながら何度もうなずく信玄に、俺は街道の整備も持ちかけた。
「織田家では街道の整備を進めております。それを伊那から諏訪へとつなげることで両家の交流が活発になる。そうすれば通商の利益も増えることでしょう。宿場ごとに温泉を引けば、旅人にも喜ばれることは間違いありません」
「そうなれば、村ごとに湯巡りも楽しめるのう」
土木マニアと言われるだけあって、食いつきがいい。
そもそも、令和にも残る『信玄棒道』と呼ばれる街道を整備したのは信玄本人だ。
俺は本人の目の前で、そのアイディアを堂々とパクっているのだ。
本人の考えなのだから、本人が感心しないはずがない。
心の中にむずがゆさを感じつつも、俺は自信満々に話を続けた。
その態度がより説得力を増すようで、信玄を始め重臣たちも静かに俺の話に耳を傾けていた。
「街道が各方面へ整備されれば兵の動員も迅速になり、かつ、疲労の蓄積もない。精強な軍がますます敵なしとなるでしょう」
そこへ馬場信房が割って入った。
「しかしながら、お館様、街道の整備とやらは、諸刃の剣ではありませぬか。甲斐国から行軍しやすくなるということは、逆に敵が攻め込むときにも利用されることになりますぞ」
この反論はむしろ俺が待っていたものだった。
「宿場を防衛拠点にできますから、出るは
「ううむ、そううまくいくのであろうか」
「実際、先日の織田家の動員が早かったのも街道を整備していたおかげでございます。夜間にも移動できたことで、相手の裏をかくこともできました」
当事者である馬場信房と飯富昌景は苦虫をかみつぶしたような表情になったものの、甘く見ていた織田松平連合軍に一夜城を築かれ撤退を余儀なくされるという失態を直接経験した二人は反論できないようだった。
「これまで、各地の大名は関所を設け、商人から税を搾り取ることばかり考えてきました。しかし、それが商業の発展を妨げてきたのです。特に甲斐国は海のない商業の後進地。これからは商人を呼び込み、農業以外での収入を確保していくべきです。そのためにも街道の整備は必要不可欠といえましょう。まずは織田家との同盟を確固たるものとするためにも西方への街道を共同で整備してみてはいかがでしょうか。尾張からの街道がつながれば、伊勢商人や京商人もこれまで以上に来訪するでしょう。もちろん、その費用は織田家が負担します」
「なに、それは
湯煙に紛れて咳払いが起き、みなの注目が集まる。
「美濃から尾張を経てここまで参りましたが、非常に遠い道のりでございましたな」
快川紹喜老師だった。
「村へ引いた温泉で雪を
「なるほど、さすがは京や各地の事情を知る紹喜様。深き洞察、この信玄感服つかまつりました」
老師の助言で、すっかり信玄もその気になったようだ。
『人は城、人は石垣、人は堀、情けは味方、仇は敵なり』
信玄の考えをそのまま述べただけだが、交渉の鍵となったことは間違いない。
俺はさらに治水について話を切り出した。
「甲斐国の農業生産が安定しない理由に、洪水があると思いますが」
「うむ、それはわしもこれまで二十年ずっと悩んできた。ここに来てようやく形になってきたと言えるのだがな」
甲府盆地には扇形に広がる扇状地という傾斜が多いことは中学校の社会科でさんざん習う話だ。
果樹園に向いているが、逆に水田には向かない地形だし、一度雨が降れば水が平らな土地に流れ出しやすい。
周囲を山に甲府盆地には水が集中してしまうのだ。
学校で習った知識が現地での理解に役立つのはとてもありがたいことだ。
俺は脳内モニターのナビ画面に甲府盆地とそこを流れる川を表示させた。
北から流れる
「ご存じの通り、尾張国も木曽川をはじめとする急流が集中するため毎年のように洪水に襲われており、平野でありながら米作りには向かない土地となっております。甲斐国の治水技術をぜひ織田家にも伝授していただけないでしょうか」
「馬鹿な!」と、重臣たちから一斉に批判の声が上がる。
特に馬場信房の声が大きかった。
「お館様が心血を注いで成し遂げた偉業であるぞ。治水は我が甲斐国における最重要軍事機密である。それを敵に教えるなど、ありえぬわっ」
だが、信玄は一人静かに湯を肩にかけ、重臣たちが静まるのを待っていた。
「よいではないか、信房よ」
「いいえ、お館様といえども、こればかりはなりませぬ。この信房、身命を賭してもお止め申します」
武田家内部の意見がぶつかり合うのを、俺は内心ほくそ笑みながら聞いていた。
実際のところ、信玄堤などの治水技術に関しては令和の時代に残る現地情報を検索できる俺の方がむしろ詳しいのだ。
技術供与をあえて提案したのは、こうした対立を作り出すためだったのだ。
一枚岩だった武田の団結に少しずつひびが入っていく。
だが、俺はそれを割ろうとしているのではない。
武田家を弱体化させてしまっては、東方に対する織田家の盾にならなくなる。
だが、一枚岩でいられると、織田家に都合の良い役割を果たしてもらうこともできない。
単に同盟を結ぶだけでなく、甲斐の虎を思うように操れるようにならなければ意味がないのだ。
そのためにも、あえて相手から情報を引き出すことも必要なのだ。
利益を供与した相手を潰すのは自分の努力を無駄にすることになる。
お互いに与え合うことが両家の繁栄を約束するのだ。
未来人として使えるありとあらゆる情報を駆使する。
これくらいのことをしないと、甲斐の虎を赤べことして飼い慣らすことなどできない。
そのためにこそ、こうして信玄の気持ちを背後からつついて、本来の目標におびき出そうとしているのだ。
つまり、これこそが俺にとっての『啄木鳥の計』なのだ。
「よかろう」と、ついに赤べこのように信玄がゆらりとうなずいた。「織田家が誠意を見せるというのであれば、こちらもそれに答えぬいわれはない。三河の港の提供、伊那の街道整備、たしかに実行されるのであろうな」
「尾張に戻り次第、松平家の使者を伴って再び
「では、そのように」
信玄が手を差し出してきたので、俺は湯から立ち上がって歩み寄ろうとした。
しかし、長いこと湯につかったまま話していたせいですっかり茹で上がった俺は、慌てて立ち上がったせいで立ちくらみを起こしてしまった。
――うおっと。
湯の中に倒れた俺は弾みで岩に頭をぶつけてしまったらしい。
意識がもうろうとして起き上がろうとしても力が入らない。
「そなた大丈夫か」
誰かが俺の体を抱きかかえてくれたおかげで溺れずにすんだ。
どうやら俺は誰かの膝の上に座らせられているらしい。
まるで子供のようなみっともない扱いだが、体調不良の非常時に取り繕ったところでどうにもならない。
「これはどうも、お恥ずかしい。のぼせてふらついたようでございます」
「なに、恥ずかしがることなどないわい。落ち着くまでこうしておるとよいぞ」
誰かと思って振り向くと、そこには胸毛わっさーの赤べこがいた。
――ちょ、信玄公の膝!?
俺は甲斐の虎に助けられて後ろから抱きかかえられているのだった。
ムニュっていうか、ちょ、俺のケツに股間のナニかが当たってるんだが。
まだ俺の知らないナニかだ。
いや、まだっていうか、べつにこの先もシリたくないんだが。
俺にはお市様という身も心も捧げた人がいるんだ。
「こ、これはお館様とは知らずご無礼を。もう大丈夫でございますので」
立ち上がろうとする俺を、信玄はがっちりつかんで離さない。
「まあ、慌てることはない。それに湯の中で無礼も何もないわい。裸の付き合いではないか」
背中に胸毛をこすりつけてくる赤べこは俺の太股まで撫で始めた。
「なんじゃ、そなた、湯につかったというのに、体がほぐれておらぬではないか」
「はあ、まあ、それはまたいずれ」
「いやいや、せっかくこうして甲斐の温泉につかってもらったのだ。身も心もほぐしてもらわねば、わしの面目が立たん」
別のナニは立ってますけどね。
と、そこへ湯を跳ね散らかしながら駆け寄ってくる男がいた。
「お館様、ナニをなさっておられるのです!」
高坂昌信が信玄の腕に抱かれた俺を強引に引き剥がし突き飛ばす。
危うくもう一度湯に沈みそうだったが、そっちの危機から逃れられてむしろありがたかった。
「お館様、お怪我はございませんか」
――いや、怪我をしたのはむしろ俺の方だろ。
ある意味、大怪我だよ。
いや、ぎりぎりセーフだったけどな。
当たっただけだから。
さっき岩に当たった頭の方はこぶができただけでなんともないし。
だが、高坂昌信は怒りに満ちた表情で俺と信玄をにらみつけている。
「おぬし、お館様に腰掛けるなど、無礼千万にもほどがあるぞ」
「事故です。事故。湯にのぼせてふらついてしまって」
「いいや、狙っておったのであろう」
「これ、源五、客人に失礼ではないか」と、信玄が取りなそうとすると、かえって怒りが燃え上がってしまったようだ。
高坂昌信は武田信玄の膝にすがりついた。
「ああ、なんとも情けなや。この源五郎、お館様に幼少の頃より身も心も捧げてお仕えしてきたものを、なにゆえにこのような者と我が眼前にてお戯れになるのでございますか」
「戯れてなどおらぬ。おぬしも見ておったであろう。ただ客人を助けただけだ」
「いいや、この源五郎、そのような言い訳にごまかされるほどの節穴ではござらぬ」と、高坂昌信は湯の中に手を突っ込んでナニをつかんだらしい。「お館様、これはいったいナニでございますか」
「なんでもない」
「いいえ、この源五郎が間違えるはずもございません。お館様のことは隅から隅まですべてこの源五郎、しかと存じております」
「いや、だから、単なる誤解だ」
「ああ、なんとも口惜しや。お館様とは太郎と源五と呼び合った仲であるのにこのような間男に寝取られるとは。かくなる上は快川紹喜師のご指導の下にて潔く出家いたしましょうぞ」
「いや、待て待て」と、信玄が慌てて高坂昌信を抱きしめる。「その方のわしへの奉仕の心、清らかなること空の如く、熱きこと富士の如く、我らが誓い合ったあの夜のことはわしとて忘れたことなどないぞ。源五よ、このわしの目を見ろ。この目に嘘偽りがあると申すか。あの日の誓いに一点の曇りもないぞ」
「ああ、お館様」と、高坂昌信は恍惚の表情で信玄の胸毛に頬を擦りつけている。
――いったい、俺はナニを見せつけられているんだ?
俺は一切関係ないんで。
後はお熱いお二人で。
俺はそっと温泉から逃げ出した。
これもある意味、一枚岩にひびを入れたことになるのかもしれないが、弾みとはいえ、そこまで体を張る必要はなかったんじゃないのか。
割れ目どころか、危うく大きな穴を掘るところだったぜ。
服を着ていると、俺の隣で馬場信房も帯を締めているところだった。
「おぬし、うまく話をまとめおったな」と、太い声で俺に話しかけてくる。
「はい、ありがとうございます」
「礼など言われる筋合いはない。わしはいまだそなたのことは信用してはおらぬ」
まあ、武田の家臣たちにとっては、それが本音なのだろう。
だからこそ、俺はこの同盟を確固たるものとして、信頼を得ていかなければならないのだ。
湯でふやけた体を引き締め、俺は誓いを新たにしていた。
「だが」と、馬場信房は言葉を継いだ。「いつかそなたと同じ風景を見ることもあるのかもしれぬ。その時が来るまで、先日の遺恨は預けておくとしよう。我らを敵に回した時に後悔せぬよう、明智殿も努力をなされよ」
「はい、ありがとうございます。お言葉肝に銘じます」
俺たちはお互いに正面から向き合い、視線を交わした。
太い眉毛の下で馬場信房の表情が緩む。
「おぬし、デイブ・スミッシーなる南蛮人を存じておるか」
「デイブ!」と、思わず俺は声を上げていた。「尾張や三河で何度も会っております」
「ふふん」と、思わせぶりな笑みを浮かべる。「この甲斐国へも来訪したおりにわしも会っておるが、なかなか煮ても焼いても食えぬやつであろう」
「はい。したたかというか、油断のならない男かと。実は、こちらへ参る道中にて、宿場ごとに『活劇飲料サスケ』なる飲み物の製法を伝授し、販売しておりました」
「ふむ、それはどのような飲み物であるかな」
「体に吸収されやすい成分でできているので、疲労回復に効き目があると」
なにしろ、俺が未来の知識で作ったものなんだからな。
俺だって漫画や戦法をパクっているから偉そうなことは言えないが、デイブにスポーツドリンクの製法をパクられ、しかも金儲けまでされるとは思ってもいなかった。
「武田の兵にも広めたいものであるな」と、馬場信房がつぶやく。
「ならば、わたくしがお教えいたしましょう」
「なに、まことか」
「はい、わたくしも製法を知っておりますので」
「ふうむ」と、馬場信房が鼻から息を抜く。「明智殿も、あの南蛮人に劣らず、ただでは転ばぬ男とお見受けいたす。同じ匂いがする」
――同じ?
あんな変人と?
「明智殿は、ご出身は?」
「神奈川県……ええと、相模国の三浦村です」
「本当は?」
――ん?
本当……?
「いやなに」と、馬場信房が含みのある笑みを浮かべる。「同じ
ああ……。
さすがは武田四名臣と称されただけのことはある。
すべてを見抜かれているとは。
俺は本当のことを告白したい衝動に駆られた。
「もし、未来の日の本から来たと言ったら信じますか」
「なるほど。そうであろうな」
――え?
「川中島の様子など、本当に見てきた者にしか分からぬことを述べておったではないか。他の連中は半信半疑だったようだが、わしには荒唐無稽な物語とは思えんかった。我が武田軍の過ちを回避してくれたことは礼を言わねばならぬのであろう」
やはりこの男、只者ではない。
本質を見抜く洞察力。
異物を柔軟に取り入れる頭の速さ。
敵にしたら手強い、いや、絶対にかなわない男だ。
秀吉に作らせた一夜城で意表を突いたから引き分けで済んだものの、まともに戦っていたら勝てる相手ではないことは確かだ。
武田軍の強さを支える本物の名将を前に俺は震えていた。
『信長のアレ』をプレイしてるときに馬場信房を使ったことも、戦ったこともある。
その本物が目の前にいて、俺と話をし、俺を信じてくれているのだ。
織田信長といい、馬場信房といい、本物に正体を見抜かれる瞬間は、なんてすがすがしいのだろうか。
――来て良かった。
この戦国の時代に。
「明智殿は素直な男よのう。戦ばかりのこの世では生きづらいであろうな」
「そんなことはありませんよ。楽しくてしかたがありません」
俺はこの世界を変えていくんだ。
戦国最強の軍師として。
そして、歴史に残る裏切り者――明智光秀――として。
――すべてはお市様のために。
馬場信房が俺の肩をたたく。
「体に気をつけて励まれよ。必ずまた会おうぞ。できれば
「はい、またいつか必ず」
「ふん」と、名将が鼻で笑う。「恐ろしい男よ」
褒められたのか呆れられたのかよく分からないが、馬場信房は快活に笑いながら去っていった。
こうして俺の甲斐国訪問は目的を達成して終わった。
信玄と武田の重臣たちは快川紹喜師を伴って甲府へ帰還した。
尾張国から運んできた塩を武田の輜重隊に引き渡し、俺たち一行は往路と同様に諏訪から伊那路を経由して尾張へと帰国の途につくことになった。
途中、甲斐国の名産品である紫水晶が露出している岩場を通りかかったので、俺はいくつか拾って持って帰ることにした。
「変わった石だな」と、美月が冬の弱い日差しを反射して輝く石をじっと見つめている。
俺は手頃な大きさのものを一つ手に握らせた。
「お守り代わりに持っておくといい」
「こ、こんなもの、何の役にも立たんだろうに」
言葉と裏腹に美月はずっとその紫水晶を握りしめていた。
――いい土産ができた。
と、俺はお市様に献上するための水晶を懐に入れて甲斐国を後にしたのだった。
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