二〇〇四年/〇六/〇八年 溝渕伝九郎(みぞぶち・でんくろう)

十六 英雄になれないと知っていたからって

 最後にはかると話した土曜から、週が明けての月曜日。伝九郎でんくろうが『西洋美術史研究部』の部室に顔を出すべくサークル棟を歩いていると、廊下で彼と出会った。


「よっ、伝九郎。これから部室? いっしょに行こうぜ」


 恕を見た瞬間、伝九郎は不気味の谷に落ち込んだ。

 一重の目も、薄い唇も、全体的にあっさりとした顔立ちのどこも変わった様子はない。さっぱりした黒髪もそのままだ。

 いや、何も変わっていなさ過ぎる。それが余計に、精巧なアンドロイドが生きた人間ではないと気づいた時特有の、違和感を強めていた。


「お前」


 誰だ、と言いかけて伝九郎は固く唇を結んだ。ぴくりと頬が引きつるのを感じて、それを口内で噛みつぶす。訊いても意味がない、〝He〟ではなく〝It〟だ。

 目の焦点は恕に合ったまま、それ以外の景色がボンヤリと霞んで見えた。


(とっくに手遅れだったってワケか)


 次の授業までまだ一週間あったというのに、土曜の夜か日曜に恕は何かされてしまった。それとも、したのか。

……どちらにせよ、自分にはもう関係ない。


「あれっ? 何だよ、シカトすんなよー」


 恕を無視して、伝九郎はきびすを返した。サークルに顔を出す時間は最低限にしよう、あれに関わったら、自分まで引きこまれてしまう。

 ルリ子と戦って、自分に勝ち目があると伝九郎には思えなかった。そもそも戦いになるのかと問えば、否。同じ土俵にさえ、上がらせてもらえないだろう。


 本物の妖魅ようみ変化へんげとはそういうものだ。コックリさんのような木っ端とはワケが違う。今や石塚恕は手出しは無論、関わるだけで危険な厄種だ。

 それをどうにか出来るなどと、間違っても伝九郎はうぬぼれていない。


(サークル、辞めるか)


 恕とすれ違うことを懸念しながら顔を出すより、とっとと脱けた方が楽だ。急激に様々なことがどうでも良くなって、吸ったタバコはやけに味がしない。

 そのくせ肺に苦く残る感じがして、この銘柄はそんなに不味かっただろうかと首をひねった。目に映るものが色あせた気がするのは、寝不足からだろうか。


 形のない大きなものが自分にのしかかかって、重みをかけてくる。それを言葉としてまとめることを放棄し、伝九郎は気晴らしを求めた。

 とりあえず今日は大学を休もう。そして目いっぱい酒を飲もう。

 後のことは、後のことだ。



 二年が過ぎ、伝九郎は大学を卒業して地元へ戻った。山間やまあいのけっこうな田舎で、同じ名字の家が何軒も並び立つ。実際、ほとんどが親戚のようなものだ。

 伝九郎は在学中に公務員試験に合格したので、このまま地元の町役場で働くことが決まっている。働き出すまでのしばしの休み、従妹の友紀ゆきが訪ねてきた。

 二階の自室は、小鳥が飛びこんだように賑やかになる。


「伝にい、卒業おめでとー! あと、就職も!」


 年中よく焼けた小麦色の肌にポニーテール、Tシャツとワイドパンツを合わせたボーイッシュな服装は、「活発」「溌剌はつらつ」の文字を大きく背負っているようだ。


「これ、私からのプレゼント。ペンじゃ面白くないし、時計は伯父さんとかが買うでしょ。だから無難にネクタイね」

「マジか。気ぃ遣いやがって」


 開けてみると、大人しいながら嫌いではないデザインだった。幼なじみの親戚という間柄、やはり好みは外さない。というか昔から、友紀が懐いているのだ。

 小さいころから仲良くはしていた。それが中学のコックリさん騒動で、すっかり彼女の見る目が変わったのだ。主に尊敬と好奇に。


 伝九郎の実家と、友紀の父にあたる叔父は霊感が強いが、彼女はそうではない。だからか、特に霊的な話に関心はなかったし、伝九郎たちに真偽も問わなかった。

 だのに、先の一件から何が見えるとか、オバケにはどう対処するのかと、あれやこれや訊くようになったのは、少々面倒だった。月日と共に落ち着いてきたが。

 友紀は畳の上に積まれたフォトアルバムに目をやった。表紙に年代が書いてある。


「このアルバム、大学時代のじゃん。見ていい?」

「もう開いてんじゃねえか」


 従妹も大学生だと言うのに、若い男の部屋に二人きりで、思いっきり尻を見せつけるような四つん這いになるのはどうなのか。相手が従兄だとしてもだ。

 無防備だと注意した方が良いのかと伝九郎が悩んでいると、友紀が「あっ」と声を上げた。あるページをこちらに見せ、写真の人物を指さす。

『西洋美術史研究部』の飲み会で撮った一枚に写る、石塚恕だ。


「ね、この人! 伝にい、サークル仲間だったの?」

「最初に入ったサークルな。もう卒業しているだろうが、どっかで会ったのか」少し首をひねって。「友紀、『西洋美術史研究部』だったか?」


 従妹は伝九郎と同じ大学に通っている。

 同じサークルなら、OBとして恕と顔を合わせるだろうが、友紀の言い方はそうと思えなかった。表情や声色から、悪い意味で知った相手ではなさそうだが。


「いや、ボドゲのサークル。伝にいが大学一年の時、遊びに行ったでしょ」

「ああ、来る途中変なおっさんに絡まれて、散々だったって……」


 あの時、友紀は電車でくたびれた中高年男性に目を付けられて、延々と言いがかりをつけられた。内容はどんどんエスカレートして、親のこと、地元のこと、友人のこと、性体験のこと、知りもしないのに勝手に決めつけて罵り続けた。

 初対面の人間のことを、妄想九割でよくこき下ろせるものだ。後になってみれば感心すらしたと言うが、当時の彼女が深く傷つき、怯えたことは言うまでもない。


「その時助けてくれたのが、この人なの」


「これみんな思っているからな。言わないだけで」と男性が吼えた時、「んなわけないだろ!」と怒りの声を上げた青年が、卒業アルバムの彼だ、と友紀は主張した。


「マジか。よくありそうな顔だぞ」


 恕は人によっては爽やかな好青年から、平々凡々な顔つきまで色々な言い方をされる。プレーンな塩顔とでも表現すべきか。その分、人違いもされやすい。

 うーん、とうなって友紀はアルバムをめくった。飲み会は複数回開催されたし、他にも旅行やカラオケ、BBQなどイベントごとに一枚は撮っているから、恕の写真は何枚も残っている。それを注意深く見比べると、改めて友紀は述べた。


「確かにこう、モブ顔っていうか……平凡そうな顔して、よく見ると結構整ってる、みたいな。この絶妙な隠れイケメンは、やっぱりこの人だよ。間違いない」

「そういうもんかね」

「名前知ってるんでしょ? 最初のサークルってことは一年ぐらいだろうけど、こんだけいっしょに居たんだし」


 友紀に言われて気がついたが、写真の中の恕は、常に伝九郎の隣りか背後をキープしている。霊感がある自分に、かねてより近づこうとしていたせいだろう。

 このころはまだ、恕は恕のままだった。写真で見る彼は、最後にサークル棟で出会った時とはまるで違う、生気のある表情をしている。


 全力の変顔に、きりりとした澄まし顔。今生きていることが楽しくて仕方ないと言うような、まばゆい笑顔。そうか、こんな所に石塚恕の面影が残っていたのか。

 伝九郎はようやく、ルリ子と恕に対して、もっと何か出来たのではないかという思いを自覚した。二年も黙殺していた感情が、胸の奥で再びくすぶり出す。


「えーと、広瀬、福田、羽者家はしゃや、石塚。溝渕は伝にいで……」

「おい、何勝手に見てんだ」


 友紀はアルバムのポケットから写真を取り出し、裏面に書かれた名前を読み上げていた。サークルでもらった時、お節介な誰かがいつどこで何のイベントで、誰が居たか記したものだ。それこそ、恕が書いたのかもしれない。


「……そいつは、石塚。石塚恕だ。下の名前は少し珍しい漢字」


 彼がルリ子に取りこまれた以上、友紀が近づくような危険は避けたい。あいつは確か、大学の近くが地元だったはずだ。

 けれど元の予定通り教員への道を進むなら、これから教育実習に出るだろう。あの市はそれなりに広いから、恕にもルリ子にも、偶然出会う確率は高くない。

 名前を教えない言い訳も特に思いつかないから、これぐらい良いだろう。


「石塚さんかあ。へえー……そっかあ」

「何だよ。まさか惚れたとか言うなよな」


 だとしたら大事おおごとだ。何としても従妹が恕を探し出さないよう、伝九郎は全力で阻止せねばならない。芋づる式に友紀まで犠牲になるのはご免だった。


「まっさかぁ。ただ、出会うことがあったらお礼したいなってだけだよ。あと伝にい、サークル抜けた時ってトラブルなかった?」

「いや。別に。何となくってだけだし」

「そっかー。じゃあ円満なんだね? よしよし」


 要するに、伝九郎の従妹という立場をダシにする気なのだろう。恕は気の良いやつだから、無碍にはしないだろうが……それも、彼が真人間のままなら、だ。

 厄難除けの護符でも作って、友紀に渡しておこう。自ら首を突っこんだり、タチの悪い奴に目を付けられない限り、変なものを呼び寄せない。気休め程度にはなる。

 友紀が帰った後、伝九郎は知り合いに電話した。用件は「今度飲みたい」。


 溝渕の一族は霊感持ちが多いから、ツテをたどっていくと本物の霊能力者と会うことは容易い。その一人、交久瀬かたくせという中年男性とは長い付き合いだ。

 母は自分の霊感が原因で良くないものを引き寄せ、たびたびトラブルに遭っていた。それを解決してくれたのが交久瀬で、伝九郎は彼から多くを学んでいる。


 自分が知る限り、彼は最も強い霊能力者だ。飲みたいと言うのは口実で、交久瀬に恕のこと、ルリ子のことを洗いざらい話してしまいたかった。

 伝九郎はこれまで、一件のことを誰にも話していない。ルリ子や恕は危険だと触れ回った所で誰も信じないだろうし、頭がおかしいと思われる。

 逆にルリ子側からは、邪魔者として目を付けられて対処される可能性もあった。交久瀬にも黙っていたのは、彼でもあの化け物に太刀打ちでないからだ。


 霊能力者という点で、伝九郎はさほど強くない。勘は鋭くてもそれだけで、コックリさんを追い払ったのも知識が人よりあるからに過ぎなかった。

 父なら伝九郎の二倍、祖父なら三倍は強い。そして交久瀬ならざっと十倍かそれ以上。そして四人全員集めても、ルリ子には敵わないというのが伝九郎の見立てだ。


『伝坊、お前は何も悪くねえよ』


 回線が繋がるなり交久瀬は断言した。伝九郎がどうしても石塚恕の一件について話したくて、それを見透かした上でこ言うのだ。


『おれだって、何でもかんでも分からんさ。でも今、伝坊は生きてンだから、それでいい。それで正解だ。どうともならンかったんだよ』

「でも、でもよ、交久瀬のおっさん」

『これはお前が関わる前から、なンだ。それだけだよ』


 それであっさり、交久瀬は電話を切った。

 終わっていたとは何だ。石塚恕は、あそこで人間として死ぬのが寿命だったのか。あいつの後悔も、優しさも、阿呆な所も、ぜんぶ絶たれる運命だったと。

 その通りだ。


 巡り合わせによって、産まれたばかりの赤児だろうが死ぬのがこの世界なのだから。大脳辺縁系が作る自我は、いわば幻のようなものだ。

 けれど、伝九郎はそこまで悟れない。人は生きている限り、神にも仏にもなれないのだ。鬼にならなれるだろうが、それは望んでいない。

 後は時間だけが、苦しみを癒やしてくれるだろう。


◆ ◆ ◆


 それから一年も経たぬころ、友紀は死んだ。

 時の流れとは、つまり「物の変化」のことだ。だから宇宙には、時間も空間もない状態が存在する。生きている限り時は流れ、時が動く限り不可逆は起きるのだ。


 彼女は殺人によって命を落とした。

 それも下腹部を引き裂かれ、内臓を滅多刺し。一部は持ち去られるという残虐かつ猟奇的な方法は、一躍世間の話題をかっさらった。これ以上ない最悪だ。


 交通の便が悪い地元にわざわざ報道陣が押しかけ、連日偏執的な取材が行われた。彼女と交流が深かった伝九郎も、当然のようにさらし者だ。

 司法解剖から戻ってきた友紀を見送る時さえ、彼らは放っておいてくれなかった。友紀の妹はそれ以来、フラッシュ恐怖症だ。損害賠償を取る余力などない。


 数ヶ月後、同じ手口で女子中学生が殺害された。友紀と同県内で、やはり内臓の一部が持ち去られている。それで報道陣の波が引けたのは、不幸中の幸いだ。

 数ヶ月をかけて、伝九郎も、友紀の家族も日常を取り戻していった。元通りであろうとした。形だけでも、今まで通りの生活を続けなくてはと、半ば義務的に。


 伝九郎は、友紀の幽霊を見るのが怖い。

 恕にはあんなに、死者の霊など居ないと説いたのに、お笑いぐさだ。でも、ふと背後に彼女が立って、犯人を捕まえて、復讐してと訴えるように錯覚する。

 殺害現場に行けば、間違いなく強烈な残留思念が焼きついているはずだ。それに触れれば犯人の手がかりも分かるだろうが、行く前から伝九郎の心は挫けていた。


 同じことを思いついただろうに、溝渕の一族は誰もそうしようとはしなかった。仇の手がかりを得ることよりも、友紀の最期に触れてしまうのが恐ろしい。

 彼女の死からちょうど半年後、今度は女子高生が三人目の被害者となった。『少女連続殺人』と認められた本件は、これで終わりではない。


 犯人逮捕の報が全国を駆け巡ったのは、友紀の死から二年後、二〇〇八年。最低でも、八人の犠牲を出した殺人鬼の名は『石塚恕』、高校教師、二十三歳。

 テレビや新聞に映るその顔は、四年前にサークル棟で見た、ルリ子に取りこまれた恕そのものだった。


 動機は一切不明ながら、犯行については認めており、今後更なる犠牲者が確認されるだろうとのことだ。ルリ子に指示されての殺人なら、永久に恕は語るまい。


――これはお前が関わる前から、全部終わっていたことなンだ。


 交久瀬はここまで見えていたのだろうか。伝九郎はそうとは思えなかったし、そのことで彼を責める気もない。だが、それにしても。


(こんなの、あんまりじゃねえか)


 長男は自殺で、次男は連続殺人鬼。石塚家が何をしたと言うのだ。それを運命などで片付けられてたまるか、すべては悪意でねじ曲げられたためではないか。


(間違えた、俺はやっぱり、間違えたんだ)


 選択を、決断を。だが、あの時選ばなかった道を進んでも、望んだ結果を得られたとは限らない。そうと分かっていても。

 五年前、友紀が電車で絡まれたのも、それを恕が助けたのも。彼に礼が言いたいと思っていた彼女が、何らかの経緯で再会した時には手遅れで。


 何を間違えなくても、自分たちはみな「ここ」にたどり着いたのだろうか。

 人生が運命というものに支配されているのなら、生まれる前からすべては終わっている。生きることは、運命の後日譚であり、後日譚とは後悔の物語だ。

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