八 三荻愛の場合(後編)

 両親が駆けつけた時、愛はひっ、ひっ、と息を切らしながら部屋の隅で縮こまっていた。膝で目を隠し、耳と頭を手で覆って、ひきつけを起こす寸前だ。

 父と母が辛抱強く彼女を落ち着かせ、話を聞き出したころには日付が変わっていた。なりふり構わず、愛は肝試しに行ったこと、見た物を白状する。


〝えぼしもいの手〟――常識ある大人の二人には信じがたい内容だが、娘の様子が尋常ではないことは事実だ。ひとまず、その夜は親子三人、川の字で寝た。

 肝試しから一週間。その間に四人とも同じような体験をし、四家族が集合で話し合うことになった。会場は香織家の居間。


早子はやこ神社でお祓いしよう!」

「あそこなら、きっと助けてくれる」

「神社のお守りがなかったら、私たち終わりだった」

「もう、そこしか頼れないよ!」


 そこで四人が訴えたのが以上の内容だ。美樹が用意したお守りは、早子神社のもののだったから、と。

 ジワジワと油蝉が暑さをかき立てる午後。居間は広々とした和室で、縁側を開け放って庭が見えた。夏の太陽に、景色の全てが白く光る。


 大人たちには、オバケがいるなんて想像もつかない明るい日中だ。

 少女たちだけが、箪笥と壁の隙間だとか、冷蔵庫の上だとか、襖の向こう側だとかに、暗がりを見つけて怯えきっている。自分の腹の中を見つめるように。

 ちりん――と、硝子の風鈴が涼しげに鳴る音も、誰の耳にも入らない。


「明るくても、あいつらは来るの。油断できない」


 愛はお守りを握りつぶさないよう、固く掴んでいた。

 中身は袋に戻して、肌身離さず身につけている。説明書は吐瀉物で汚れているものもあったが、丈夫な紙だったので文字もちゃんと読めた。

 持ち主以外には、無闇に見せない方が良いだろうと思って、愛たちは家族にも中身を見せていない。でも自分では時々取り出して、呪文を唱えている。


「あめうるしくにうるしつつひかげなすつきてるかみのすめらおおかみ、あめうるしくにうるしつつひかげなすつきてるかみのすめらおおかみ……」


 愛が始めると続々と少女たちが続いた。子供たちがそろいもそろって、怪しげな呪文を唱えながらお守り袋を握っている姿は異様だったろう。

 空は真っ青で、白い入道雲が輝く快晴。テレビをつければ高校野球なんかがやっていて、家の近くを子供たちが歓声を上げて走って行く。


 こんなに平和で、ワクワクする夏休みのはずなのに、娘たちはそうではない。陽気から隔絶されたかげに沈んで、ほとんど瞬きもせずどこか別の世界を見つめている。

 いつまで経っても目が離せないなんて言っても、中学生ともなれば多少は手が離せる時期だ。けれど、それはどれほど愚かな楽天主義だったのだろう。


 些細なことが生死に直結する乳児期。理不尽に怒り、泣きわめくギャングのような幼児期。物心ついて大暴れする小学生。やっと落ち着いてきたと思ってもこれだ。

 人間、いつ何が起きてどうなるか分からない。犯罪に巻きこまれる、病気にかかる、事故に遭う、アルコールや薬物の中毒になったり、犯罪者にもなり得るものだ。


 だが、あらゆる危険の可能性を考慮して生きるには、人間の精神が保たない。鬱病ではないほとんどの人々は、事実よりもずっと偏った楽観性を持って過ごす。

 そのフィルターが剥がされ、親たちは冷たい現実を突きつけられていた。

 愛は膝を抱え、常に自分を抱きしめる格好になっている。そうでなければ自身がどこかに持って行かれそうで、足元がおぼつかない感覚になった。


「じゃあ一度、烏帽子えぼし母衣ほろに行って確かめてこようか?」


 久美子の父が提案した時、四人は一斉に「駄目ッ!」と反対した。例え昼間でも近づいてはいけない、あれは地獄だ、お父さんまで何かあったらどうするの。

 蜂の巣をつついたようなヒステリックさに、すぐさま案は取り下げられた。


 九十年代初めというこの時代、精神科というものは非常にイメージが悪かった。誰も、自分の娘の頭がおかしくなったなどと、認めたくはない。

 同様に、脳の具合を病院で確かめよう、なんてことも御法度だ。少女たちの保護者は子供たちを愛してはいるが、明確に科学の叡智を借りようとはしなかった。

 科学の手を借りて、どうにかなる事態だったかはともかく。


「とりあえず、烏帽子母衣を調べたけど、変ないわくはないよ」役所勤めの美樹の父が言った。「犯罪も事故も、昔処刑場や墓地だったりもしていない」


 なら、自分たちが出会ったものは何だったのか。嘘つき呼ばわりされたと思い、傷ついた眼差しを向けられ、美樹の父は小さくなった。

 一事が万事この調子では埒があかない。少しでも建設的な案はといえば、最初に示されたものだけ。結局、早子神社に相談へ行くこととなった。


 早子神社は籠手田町の近くにある小さな社で、神職が常駐していない。香織の祖母から「そういう時は、電話で予約すんのよ」と助言されるまで、誰も知らなかった。


「神主さんに『霊が見えたりどうこうなんて出来ませんよ』と言われたけど、大丈夫か?」代表として電話した香織の父は、受話器片手に娘に訊ねた。

「そんなのどうでもいい。早子さんじゃないと駄目なの」


 香織のお父さんは、幽霊がどうこう説明するのは恥ずかしかっただろうな……と愛が気がついたのは、ずいぶん後のことだ。この時は余裕もなく、若かった。

 幸い、お祓いは翌日すぐ執り行ってもらえることになった。その一日が長い。

 昨日と同じ、よく晴れた夏空は、明日もきっと同じだろう。愛たち以外の多くの人々は、変わり映えのない平穏を享受している。早く自分たちもそちらへ戻りたい。


 あれから愛は、食事もまともに取れなかった。いつあの手が現れるかと思うと、鼻が勝手に悍ましい腐臭の記憶を立ち上げる。

 すると反射的に内臓はぐるりと渦を巻き、上下逆さにひっくり返って、固形物や流動物なんかを苦く酸っぱい胃液と共に掃き出してしまうのだ。


「愛!? 大丈夫なの!?」


 大丈夫なわけがない、だが、母が心配して食事を工夫してくれる、その心遣いは嬉しかった。冷やし茶漬けや果物、生臭さからほど遠い食べ物で命をつなぐ。

 アイスクリームや、ジュースの味を楽しんでいたころが懐かしかった。アイスは食べやすい部類だけど、楽しみのためではなく、生きるための義務になっている。

 にゅうめん、冷や奴、冷たい番茶。市販のインスタントスープ、ゼリーにプリン。こうして食事するだけで、まだ活力が湧いてくる。生きる力が残っている。


(お母さん、ありがとう)


 気恥ずかしくて言えないけれど、いつか伝えなきゃと愛は誓った。

 そして予約した当日。

 事前に電話で作法などもろもろ伝えられてたので、それに従い、愛たちは学校のセーラー服。付き添いの親たち、は背広などきちんとした服装で気を引き締めた。


 これで終わりにするんだ、と決意を込めて鳥居をくぐる。苔むした狛犬さえ、今はすがりたい気持ちでいっぱいだった。

 境内はそんなに広くはない。サッカーの出来る児童公園の方が、もうちょっとマシかと思うほどだ。まずは手水舎ちょうずやで手と口を清める。


 社務所で受け付けを済ませ、案内された拝殿では狩衣と烏帽子姿の神主が待っていた。存外と若く、年の頃は三十代前後だろうか。

 百合花ゆりげ、という変わった名字だが、顔つきはどちらかというと厳つい。

 小さな神社だが、十人ほど詰めかけた拝殿内はやや余裕があった。注連縄の紙(紙垂しで)をたくさんつけた棒――大幣おおぬさ――を見て、本当にあれを使うんだと思う。


「最初に断りを入れさせていただきますが、私には漫画のように悪霊を祓う力はございません。〝お祓い〟とはそもそも、神さまに祈りを捧げる儀式です」


 電話でも軽く話していたが、改めて神主は詳しい説明を述べた。


「正式には身についた穢れや厄を祓い落とすことを〝修祓しゅばつ〟と言い、その上で神さまに祝詞を上げ、お願いごとをするのが祈祷ですね。悪霊というものが本当にいるのなら、修祓の段階ではね除けられる可能性があります。その上で、今後の身の安全をお祈りする、という形で、皆さま方の要望に添う形になるでしょう」


 それでいい。それで自分たちには充分だ。集団で押しかけているだけあって、本気で困っていること自体は神主にも伝わっているのだろう。


「掛けまくもかしこ伊邪那岐いざなぎの大神おおかみ筑紫つくし日向ひむかの橘の小戸をど阿波岐原あはぎはらにに、御禊祓みそぎはらたまひし時にせる祓戸はらへど大神等おほかみたちもろもろ禍事まがごと罪穢つみけがれらむをば、祓へ給ひ清め給へとまおす事を聞こしせとかしこみ恐みも白す」


 深々と頭を下げ、読み上げられる祝詞と、大幣が振られる音を聞く。お供えとして持ってきた果物や日本酒、魚などが供えられ、最後に祝詞だ。


「……大神等のしくたへなる大稜威おほみいつかがふらし給ひて、今く先諸人等もろびとらがゆくりなくも過ちを犯せる罪・けがれ有らむをば、科戸しなとの風のあめ八重雲やへぐもを吹き祓󠄂はらふ事の如く、彼方おちかた繁木しげきもと焼鎌やきがま敏鎌とがまもちて打ち払ふ事の如く、祓󠄂ひ給へ退け給ひて……」


 長々した奏上の最後に、玉串たまぐし奉奠ほうてんがある。神主に教えられて愛は初めて知ったのだが、紙垂という紙をつけた榊の枝を玉串と言うそうだ。

 愛たち参拝者が玉串に祈りを込め、神前に捧げることで、神さまに祈りが届く仕組みである。慎重に持ち上げ、作法通りに回し、専用の机に乗せる。

 最後に二礼二拍手一礼。

 神社でのお参りで、愛がこんなにも真剣になったことはないだろう。香織も、美樹も、久美子もきっと同じだ。あの穢れた手と、腐臭から逃げられると信じて。


 実際、それからは平和だった。残り十日ほどとなった夏休みは、彼女たちが静養するには充分で、二学期になると笑顔で登校していった。

 それを見て、さぞかし親たちも安心したことだろう。

 オバケに怯えていたのは、肝試しを行ったことによる集団ヒステリーだ。火遊びはもうよしなさい、と微笑ましくすら思える。


――誰もが〝えぼしもい〟の恐怖を忘れた十月頭、事件が起きた。


 美樹が交通事故に遭い、あまりにも無惨な怪我を負ってしまう。

 かねてより、美樹は家族公認で――いわゆる〝なあなあ〟で――兄のバイクに二人乗りしており、事故の時もそうだった。

 兄いわく、急にハンドルが言うことを効かなくなって、派手に転倒したそうだ。彼自身は早々にバイクから放り出されたものの、ごく軽いかすり傷で済んだ。


 可哀想という言葉では形容できないのが、美樹だ。

 横転したバイクに足を取られ、彼女は一〇〇メートル以上引きずられた。この時、顔面はアスファルトの路面に押しつけられ、鼻の先から根元まで……。

 粗く、り下ろされる形で、無くなってしまった。



 持ち上げた時、重いな、という違和感があったのだ。

 汁椀に割り入れた卵から、人の鼻が出てきた。白身のなごりとおぼしき液にまみれた、少女のものらしい嗅覚器。ぷっ、と思わず氷鶴ひづるは吹き出してしまう。


「ルリ子には少し大きいな」


 時折現れるルリ子の血肉に、氷鶴も静哉せいやも疑問を持ったことはない。どこから、どうやって持ってくるのか知ろうとも思わなかった。

 やって来たからには、これはもうルリ子のものだ。


「これで良い? そうか。今夜また、お父さんに手伝ってもらうよ」


 あの子にはまだ目も耳もない。早くそろわないと、可哀想だ。氷鶴が顔に描いてあげた目鼻だけでは、やはり不足なのだろう。



「どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうし」


 しょせん神頼みということなのだろうか。それでもお守りを手放せず、愛は自室に閉じこもり、布団を被って震えていた。

 美樹は面会謝絶だ。鼻がなくなった人間の顔なんて、どんな酷いことになるんだろう。昔、怖い話が好きなクラスメートが持っていた漫画に、そんな登場人物がいた。

 どう見てもあれは化け物だ。その顔がよく見知った友だちの顔に重なって、本人に会ってもいないのに、上書きしていこうとする。


「お願いします、助けてください。助けてください。あめうるしくにうるしつつひかげなすつきてるかみのすめらおおかみ、何もしますから、ああ、あめうるしくにうるしつつひかげなすつきてるかみのすめらおおかみ、美樹みたいなのは嫌……!」


 愛は袋の中身を取り出し、それを見つめながら必死でくり返した。

 中身の正体は、小さな写真だ。いわゆる証明写真のサイズ。

 映っているのは、赤ん坊を模した布人形だった。明らかに手作りだが、市販のベビー服を着て、頭には毛糸ではなくカツラのようなリアルな頭髪がついている。


 写真の下には、サインペンで「玉梓ルリ子」と記されていた。

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