ワルツ
それからしばらく進むと、開けた場所に出た。俺は思わず息を呑んだ。
鬱蒼とした森に突如現れたその空間には花の絨毯が広がっていた。立ち尽くす俺を見てカルミアは優しく微笑む。
「綺麗でしょう。とても美しい、私が大好きな風景。でもね……あそこの青い花がたくさん咲いている場所、見えるかしら」
俺は無言で頷いた。
「あの一帯に咲いている花はすべて毒を持っている。──行ってみましょうか」
俺は握られた手を引かれても、引っ張り返して抵抗した。
「何を考えている。危険だろ」
カルミアは俺を安心させるように言った。
「大丈夫よ。あの辺りの花には猛毒があるけれど、それは食べたりしない限り問題ないから。毒物の専門家である私が保証してあげる。まぁ、素手で触ったら少しかぶれたりはするけど、死に至るほどではないから安心して」
「全然安心できないが」
「いいから行くのよ。あなたに拒否権はない」
「クソ野郎が」
「乙女に対して野郎はないでしょう」
「クソは否定しないんだな。……ハァ。分かった。従うよ、クソ乙女」
「クソ乙女って……なんだかいちごの品種みたいね」
「そんな品種があってたまるか」
俺たちは毒花が咲いている方にゆっくりと歩みを進めた。俺は段々と緊張によって体が縮こまり、血の気が引いていくのを感じた。そんな俺を安心させたのがカルミアであったことは、不本意ながら認めざるを得ない。毒の専門家であるカルミアが堂々と足を動かしているという事実は、まだ危険が迫っていないという安心感を俺に与えてくれた。
「あ、立ち止まって。これ以上奥に進むと触るだけで死んでしまう花があるから。そこにたくさん咲いている紫の花なんて、まさにそう。ふふ、危なかったわね。あと五歩くらい歩いていたら、あなた死んでいたわよ?」
訂正。やはりこいつといるだけで、命の危険を身近に感じる。
「……もっと早く言え」
「ふふふ。吊り橋……じゃなくて、スリルを楽しんでほしくて」
「楽しんでほしいんじゃなくて、死んでほしいんじゃないのか?」
「別に私はあなたに死んでほしいだなんて思わないわよ」
「よくそんなことが言えるな。俺が死刑宣告を受けても何もしなかったじゃないか。脱獄していなかったら俺はとっくに死んでいる」
「何言ってるのよ。だから脱獄を手引きしたんじゃない」
「……は?」
カルミアは不思議そうに首を傾げた。
「あら、気づいていなかったの? 冷静に考えてご覧なさいよ。何の知識もない素人のあなたが脱獄なんて簡単にできるはずもないでしょう。陰ながら私がサポートしたのよ」
「……それは、本当か?」
正直、嘘だと断言できる自信がなかった。
「さあ? 嘘かもしれないわね。じゃあ仮に本当のことだとしたらどうかしら。私のことが好きになってしまう?」
「それはないな」
「そう。残念」
カルミアは微笑みながら俯き、
「ねえ、キリンさん。昔の話をしてもいいかしら」
「勝手に話せ」
「私、あなたのお兄さんを晩餐会の場で殺したじゃない? 実は、舞踏会っていう案もあったの。まだどちらにするか決めていなかった時、ワルツの練習をしたわ。キリンさんは由緒正しい家の生まれよね。踊れるかしら」
「幼少期に叩き込まれた」
「じゃあ、今、ここで」
カルミアがニッコリと微笑む。俺はため息をついた。
「拒否権はないんだったな」
「ええ」
俺とカルミアは美しい毒花の花畑の上でワルツを踊り始めた。
しばらく静かに踊り続けた。初めて一緒にやるとは思えないほどピッタリと息が合うことが気に食わなかった。しかし、突然カルミアの足がもつれ、倒れそうになる。俺は咄嗟にカルミアの体を支えたのだが、不思議なことにカルミアは俺に体を預けたまま、体勢を立て直そうとしなかった。
「おい、何してる。さっさと自分の足で立ってくれ」
「キリンさん。今、私が倒れたらどうなると思う?」
「は? 何を言っている。いいから早く」
俺の言葉を遮り、カルミアは言った。
「毒花の絨毯に身を預けることになるわ。気づいてる? 踊っているうちに私たちはさっきの場所に戻ってきていたの。ほら、私のすぐ後ろにある紫色の花は触れれば死んでしまう毒花よ。あなたが今、私を離せば、私は死ぬ」
俺はゴクリと喉を鳴らした。
「私を殺すチャンスよ。どうする?」
「……」
俺はカルミアを離さなかった。カルミアは俺の目をじっと見つめ、微笑んだ。
「チャンスを逃すのね。もったいない」
「お前を殺せば、レンジが殺されるだろう。だから今は殺せない。今はな」
「うふふ。そうね。それが言い訳じゃないことを祈っているわ。……えいっ!」
カルミアは突然笑顔で俺に抱き着いてきた。
「お、おい! 何を!」
バランスを崩し、二人で花畑の上に倒れ込む。咄嗟に俺が下敷きになった。
「くっ……!」
背中から地面に衝突して、軽く頭を打った。
「おいカルミア! 何を考えている! 解毒剤は持っているのか!?」
俺に覆い被さるような格好になったカルミアは、当然のように
「そんなもの、持ってないわよ」と言った。
それからカルミアは俺の隣に体操座りして、近くに咲いていた例の紫色の毒花を摘み、その香りを嗅いだ。俺はその行動を見て絶望した。
こんな形で復讐を終えるのか。俺はこんなところで死ぬのか。
「ねぇ、すごくいい香りがするのよ」
そう言ってカルミアは紫の花を俺の顔に近づけた。平然としているカルミアの表情を見て、絶望を通り越して、俺は冷静になっていた。
「甘い匂いがするな。……なぁ。組織のボスがこんなところで死んでいいのか?」
「私は死なないわよ? もちろんあなたもね」
「は? 本当は解毒剤を持っているのか?」
「いいえ。そんなものは必要ないわ。だって……この花畑に毒性の強い花なんて咲いていないもの。あなたを試しただけよ」
「……性悪女が」
「自覚はあるわ」
カルミアはクスクスと楽しそうに笑った。そして俺の隣に寝そべると、
「今日はいい天気ね」と呟いた。
俺は馬鹿馬鹿しくなり、「そうだな」と投げやりに答えた。
それから少しの間、二人で静かに空を流れる雲を眺めていたが、俺は例の数字について思い出し、訊いてみることにした。
「俺に渡してきた例のお守り袋、その中に入っていた紙切れに書かれていた128なんとかという数字には一体どんな意味があるんだ」
「私を殺せば分かるわよ」
「それは、どういう意味だ」
「言葉の通りよ。今、あなたは128以降に何が書かれていたか思い出せないでしょうけど、それは私が記憶操作の魔法をかけているから。その魔法は私が死ねば解ける」
「そういうことだったのか。お前を殺す理由が増えたな」
「ええ、頑張って私を殺してね」
カルミアは不敵に笑うと、こんなことを訊いてきた。
「ホオズキって憶えてる?」
「ああ。お前の嘘の復讐相手だ。写真を持たされていたせいで、俺はホオズキ暗殺の疑いもかけられた。娘の暗殺を企てた俺に対して激しく憤ったホオズキの父親がかなりの権力者だったことが、俺の死刑を決定づけた」
「実はね。ホオズキっていうのは、うちの従業員なの」
「……クソッたれが。何もかも仕組んでやがったのか」
「ホオズキの一族は裏社会の人間。彼らはうちのサポートをする立場で、色んな役を演じてくれる。仕事を円滑に進めるために協力してくれているのよ」
「それを今更俺に言ってどうする。煽ってるのか?」
「それも理由の一つよ。私にもっと強い殺意を向けて欲しくて」
「そんなことをせずとも、俺はお前にちゃんと殺意を向けているが。で、他の理由はなんだ?」
「……いえ、なんだか私って嘘つきだなって、ふと思ったのよ」
「大量殺人犯のくせに、嘘つきであることなんか気にするんだな」
「あなたには復讐を手伝ってほしいとお願いしたわね。私って、とても酷い嘘つきだわ」
「お前はペテン師で詐欺師でホラ吹きだからな」
「そうね。ほんと、ホラを吹いてばっかり。……ホラ吹く復讐者。ホラ復讐者」
「……さっきも注意したが、くだらないことを言うな。俺がスベったみたいになるだろ」
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