現在
「ところであんたの名前、なんだっけ?」
不機嫌そうに眉間にしわを寄せた男に、何度目かになる質問をぶつけると、男はますます眉間のしわを深くして、
「トリカブト」
と、吐き捨てるように答えた。質問した男は愉快そうに頷き、
「そうだったそうだった。何回聞いても忘れちゃうんだよなぁ」
と言って歯を見せて笑う。トリカブトはそんな男を睨み、
「お前こそ、いい加減名乗れ。俺には何度も名乗らせるくせに、お前が一向に名乗らないのが、俺は気に食わない」
「え、俺ってばまだ名乗ってないのか。ごめんごめん。んー、そうだなぁ」
男はきょろきょろと周囲を見渡し、果物屋に目を留めると、
「じゃあ、とりあえずオレンジって呼んでくれ」と言った。
トリカブトは無言でオレンジを睨む。オレンジは飄々とした態度で軽く肩をすくめた。
「なんだよ。文句言われる筋合いはねぇぞ。あーそうだよ。オレンジ、なんて今適当に考えた偽名だ。でもそれはあんただって同じだろ? まさかトリカブトってのがあんたの本名なのか?」
トリカブトはオレンジから目を逸らした。それを見てオレンジはニヤリと笑う。
「ほらな。別に俺だってそのことを責めやしねぇ。俺らみたいな人間は、互いの素性を隠して然るべきだ」
「俺らみたいな人間?」
トリカブトが訊き返す。
「ああ。俺らみたいな、後ろめたいことがある人間さ」
「……」
不満げにトリカブトは前方を睨みつけた。オレンジはそれを見てまた笑う。そして、
「あ、でもオレンジってなんかそのまますぎるし、レンジでいいぜ。俺もあんたのことカブトって呼ぶから」と言った。
「好きにすればいい」
「おう。好きにするわ。ところでよ」
「なんだ」
カブトは鬱陶しそうにレンジへと視線を向ける。
「ほら、あれだよ。あんたが探してるって女。俺ってさ、人の名前覚えんの苦手なんだ。もう一回教えてくれよ。なんて言ったっけ?」
「……カルミア」
家族、あるいは恋人。そうでなければ敵や仇。
どれに向けたものだと言っても不思議ではないような複雑な表情を浮かべたカブトの顔を、値踏みするようにレンジはじっと見た。
「探し出して、どうしようってんだ」
「……」
「答えちゃくれねぇか。じゃあ、その女とあんたの関係は?」
「お前には関係ない」
「そりゃあねぇだろう。一緒にその女を探してやろうってのに」
「お前が勝手に言い出したことだ」
「まぁ、その通りなんだけどさ」
レンジは肩をすくめてみせた。
レンジには記憶がない。ここ数年の記憶がないのだ。闇医者は、何か相当強いショックを受けたことが原因だろうと言っていた。カブトと知り合ったのは、一週間ほど前のこと。『情報屋』で見かけて声を掛けた。
情報屋とは、文字通り情報を売買する場所だ。表向きはただの飲み屋だが、その実、店主は非合法的な連中を相手取る情報屋なのである。その店でじっと周囲の声に耳を澄ませていたのが、カブトだ。
レンジは不気味な雰囲気を放っているカブトに興味を持ち、半ば強引に話を聞き出した。そしてカブトから『カルミア』という名前を聞いた時、頭がちくりと痛んだ。
それは失くした記憶に関する情報に触れた時、よく起こることだった。レンジは記憶がない空白の期間に、自分とカルミアは何らかの形で関わったこと、そして彼女に対して自分が正体不明の大きな感情を持っていたことを察した。その感情が好意的なものなのか、はたまた殺意的なものなのかも判然としないが、レンジはカルミアが自分の記憶を取り戻す鍵になることを予感していた。
そしてカルミアを探しているというカブトに協力を申し出たのだ。
カブトとレンジは、とある人物と会うために町を歩いていた。道中、無口なカブトに対してレンジはひたすら話しかけた。
「なぁ。これから一緒に仕事しようってんだから、もっとお互いのこと知っていこうぜ?」
カブトは冷たくあしらう。
「必要ない」
「あるって。仲がいい方が連携取れたりするし、暇な時は喋って時間潰したりできるし」
「……」
「なぁ~頼むよ~。俺、静かなの苦手なんだよ~」
「……」
レンジはため息をつき、
「じゃあせめて、カルミアって女のことをもうちょっと教えてくれよ」と言った。
カブトは不愉快そうに眉をひそめる。
「何故お前はそこまでカルミアにこだわる。お前の方こそ、カルミアとどういう関わりがあるんだ」
「お? 気になる? 気になっちゃう?」
「……」
「おい無視すんなって。……まぁ、カルミアとの関係は俺自身よく分からねぇんだけどさ」
「どういうことだ」
「記憶喪失なんだよね、俺」
「記憶喪失」
カブトは眉間にしわを寄せながら言葉を繰り返した。こいつ、不機嫌をあからさまに表情に出すのが癖なのかもな、とレンジは思った。二人は路地裏に入り、迷いのない足取りでずんずんと進む。
「そう。記憶喪失。で、なんかカルミアって名前を聞いた時に懐かしいっていうか、なんていうか。昔を思い出すような感覚がしたんだ。だからその女に会ってみたら俺の記憶が戻るかもしれねぇと思って、俺はあんたに同行しようと思った」
レンジは正直に話したが、カブトは興味なさそうに聞き流していた。
「ほら、俺は話したぞ。今度はお前の番じゃねぇの、カブトさんよ」
「話すことはない」
「えー。もうこの際何でもいいから話せよ。好きな食いもんとかでもいいぜ?」
「シャバの飯は何でも美味く感じる」
「……へぇ」
レンジはカブトの顔を確かめるように見たが、冗談を言っているわけではなさそうだった。まぁジョークなんて言うタイプでもねぇか、と内心レンジは苦笑した。
「おっと。あんまり互いのことを知る間もなく、もう着いちまったな」
レンジは目の前の扉を見つめながら言った。
入り組んだ路地を進んで辿り着いたのは、カブトに仕事を依頼してきた男の事務所。事務所と言ってもかなり狭い部屋で、基本的にその男一人しかいないのだが。男は仕事を仲介する業者だ。男が紹介してくる仕事は色々あるが、そのどれもが非合法的であるという点において共通している。カブトはこの男からの依頼をこなしながら、カルミアに通じる手がかりを探し求めていた。
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