12 消えない罪
捕まった後、私は留置所に勾留された。当たり前だ。誘拐に、暴行。絵に描いたような犯罪。その上、小学校の教師という身分で。私のクラスの子たちにも、深い傷を負わせてしまっているだろう。
取り調べも受けた。ドラマなんかで見るような息が詰まりそうな場所、本当にあるんだなと思った。けれど、そんなことより。
「月奏は!? 月奏はどうなったの!」
なにを訊かれようが怒鳴られようが、私は馬鹿の一つ覚えみたいにそれだけを口走っていた。それだけが、私の存在意義だったから。どうせ滅ぶだけの私なんかのこと話してたって、意味がない。
それは一日じゃ終わらなかった。二日目にはもう鬱陶しがられてて、数日経って、しびれを切らしたように担当の人が吐き捨てた。
――命に別状はなかった。今は親と元通り暮らしてる。
そう、告げられて、私は全身の血が外へと抜け出ていくような気がした。めまいがして、地面に倒れそうだった。
「……なんで……っ! どうして、そんなことするの! そんなの死んだのと一緒、ううん、死ぬよりも惨い! 今すぐそいつらから月奏を離して!」
初めて、月奏以外の人に掴みかかった。狂犬になった私は思考回路なんて働いてなかった。
それから今度は一週間くらいだろうか。狂い続け、前よりも長い時間が経ったある日、担当の人が変わった。物腰柔らかそうな、女性の人だった。
「月奏ちゃん、両親から虐待されてたのがわかって、今は家から離れて施設にいるみたいですよ」
開口一番、私にそう告げた。本来、それは加害者の私に打ち明けていいものではないのだろう。けれど、その女性の優しさに、私はようやく、すべてが終わった気がした。大きな溜め息が私の身体の中の空気を全部吐き出して、ふと、自然に涙が零れてきた。
それはどんどん粒が大きくなって、怒りも、悲しみも、月奏と一緒にいた時の安らぎも、私の心の中身が全部、その涙に溶けて外に出ていく気がした。
落ち着いてから、初めて私は質問に答えるようになった。月奏に対して憎いことでもあって、行動に移したのかと、訊かれた。私は首を横に振って、ストレス発散に虐待児らしい月奏を見かけたから攫って虐げたと正直に話したら、次第に見られる目が変わっていくのを肌で感じ、終わる頃には下水道に沈む汚物を見る目を向けられた。
刑務所に入ると、月奏がずっと家に監禁されていた思いを身をもって体験した。違うのは、周りに人がいて、それが犯罪者で、私なんかよりも深くへ身を堕とした人たちであるということ。
月奏のこと以外でマトモから踏み外せない私にとって、その中に紛れないといけないのは苦痛だった。月奏のいないこの場所じゃ、ただの一般人。人間としても、教師としても半端なら、犯罪者としても半端者らしい。
獄中、事あるごとに月奏を思い出し、切望した。それでも泣かなかった。泣きそうになるたび、息を止めて、固く握った拳で自分の胸を殴りつけた。込み上げてきた涙が収まるまで、何度も。その雫を、一粒でも落としたら許さない。そんな怨念を込めて。
後ろ髪を纏める一本の三つ編みだけは、ずっと失くさなかった。これが解けてしまえば、私の存在も消えてしまうから。度々獄中の人や監視になんの真似だ、と訊かれた時ピュアリィの主人公と返したら馬鹿にされたけれど。
眠れば、片目を潰される夢を何度も見た。誰かに、ナイフで、鈍器で、タバコで。その横で、月奏が私を見下ろしていた。
ああ、罪滅ぼしなんだなって思った。これで許されてしまうのかな、って、どことない危機感を覚えた。
「見ちゃ……ダメ……」
だからなのか、私は月奏の目を塞いで、その身体の向きを反対側にして、私の目を潰される光景を見せないようにした、本物の月奏なんかじゃないのに。耳に入らないよう叫び声すら殺して。
その夢を見た日は決まって朝から頭痛に苛まれた。
そんな生活も、罰であることは理解していたから、拒絶はしなかった。むしろしたことを考えると甘いものに感じた。
やがて刑期の終わりが近づいて、そこから解放されると分かった時、最初に感じたのは戸惑いだった。許されてしまっていいのだろうか。その後、私はなにを償いに生きればいいのだろうか。
そんな問いに答えてくれる人も、誰かに訊くような私もいなくて、ずるずると釈放の日まで時間が過ぎていった。
当日になり、本当に解放されたと戸惑っているうちに建物の入り口まで来ていた。ここから一歩踏み出せば、もう、咎めるものはなにもないのだろうか。
……いや、違う。もうすでに、一生分の罰は受けているんだ。月奏にはもう逢えない。外へと続く道を見渡した時、私はそう確信した。ようやく、しぶとく醜く耐えていた私の心が、全部、壊れた。
もう、おそらく私はここにいない。自分を抜け落とした感覚で、影の落ちる道へ、一歩、踏み出した。
「せんせぇ」
幻聴だと、思った。舌足らずの、けれど記憶の中より少し声が大人びていた、その呼び方。俯いていた顔をゆっくりと上げ、目の前を見ると、制服姿の少女がいた。
その子は、まるでこの世界から外れてしまったように、黒いハイライトを纏っていた。その、懐かしく、愛おしい姿。
「……る……のん……?」
うまく声が出なかった。今までずっと誰とも喋らなかったせいで、喉が震えない、驚きで、息もうまく吸えない。
「月奏だよ。憶えててくれたんだ」
当たり前だよ、忘れるわけないよ。ずっと、何度もあなたのことを思い返した、もう一度逢いたいって願った。そんなの、ダメなのに。
激流になって押し寄せるそんな言葉の数々は、喉につっかえて堰き止められた。
「……義眼にしたの?」
代わりに出てきたのは、そんな世間話。私をしっかりと捉える月奏の左目には眼帯がなくて、火傷痕もない、綺麗な瞳がついていた。
「うん。せんせぇには、ちゃんと両眼で会いたくって」
「……背、伸びたね」
「えへへ、これでも中学生になったからね! せんせぇには、まだ追いつけないけどね」
「…………制服、似合ってる。可愛いよ」
「ほんと……!? 嬉しい……」
微睡むように目を細めて月奏は微笑む。高ぶる感情を噛みしめるように。
あとは。心の準備ができるまでの時間を稼げるような、世間話、あとは、なにがある……。そう考えるうち時間切れが来て、私の弱い心は喉の隙間を縫って出てきた。
「……どうしてっ……逢いに、来たの」
その言葉を聞いた月奏は、驚いたような顔になってから、優しく、私に微笑んだ。
「だって、せんせぇは、るのんの一番の先生だから」
私の心を痛くかき乱すにはそれで十分だった。強すぎる感情に言葉が出てこなくて、頭を悩ませている間ずっと黙ってしまう。
結局それに返す言葉は今の私には見つけられなくて、話の矛先を逸らした。
「どうして、私が出てくる日を知ってるの」
「京家先生に、聞いたから」
「えっ……先輩……っ!?」
久しぶりに聞いたお節介な名前。その人も私を忘れずにいてくれた上、そんなことまでするなんて。
「どうして……」
「小学六年生の時に、るのんの学校に転勤してきたの。そこでるのんの名前を見たらしくて、せんせぇのことで、お話に来てくれたの。ものすごく、申し訳なさそうだった。それから、るのんが中学生に上がって、『一応もう生徒と先生じゃないから』っていって、連絡先交換して、せんせぇのことでたまに連絡してた。今日が帰ってくる日だってことも」
「……もしかして、今も先輩に送ってきてもらったの?」
「うん、そう。今は、二人きりで話しなって、どっか行っちゃったけど」
相変わらず、誰かのために身を粉にするのが大好きな人だ。そこまでする先輩の優しさと、私に逢いに来る月奏の執念が、壊れた心に重たくのしかかった。
「……どうして、私なんかにもう一度、逢いに来たの」
「だから言ったでしょ? せんせぇはるのんの恩師なの。ずっと逢いたかったんだよ」
それは、嘘だよ。私と別れてから、月奏は私以外の何人もの大人に逢ったはず。私よりも優しい人、私よりも勉強を教えるのが上手な人、いっぱいいたはず。それなのに……どうして、私を選ぶの。
私が弱々しく首を横に振ると、それを上回るように強く月奏が首を振った。
「せんせぇは、るのんを連れ出してくれた。光いっぱいの、広い世界に」
違う、私はあなたを家の中にずっと閉じ込めてた。
「るのんに勉強を教えてくれて、料理とか、お掃除とか、ダメダメなるのんに一生懸命教えてくれた」
違う、それは月奏が一生懸命だっただけ。私はなにもしてない。
「褒めてくれて、一緒に喜んでくれて、笑ってくれて。毎日が楽しくって。……先生は、るのんをいっぱい愛してくれたんだもん」
違うっ……それは私のただの自己満足で、あなたのためなんて一つも……!
「せんせぇ」
俯ききって、どんどん首を横に振る力が強くなっていく私の手を月奏は両手で握り、拾い上げる。
「……せんせぇはさ。痛いことするとき、いつも悲しい顔してた」
「……え?」
「苦しそうで、辛そうで、今にも壊れちゃいそうな顔。そんな表情になるたび、ずっと、どうにかしてあげたかった。でも、ごめんなさい……せんせぇの気持ち、昔の、わるい子のるのんじゃ、どうにもしてあげられなかった。だから、せめて、その痛みだけは受け止めようって、どんな痛いことも我慢したよ」
声を失った。気づいていなかった。私がそんな苦しみながら月奏を虐げていたことも、それに気づいた月奏が、まるで自責の念のように痛みをその身に刻んでいたことも。
ただ自分を存在を保つため、身勝手な孤独を晴らすためだけに、月奏を痛めつけていたはずなのに。いつしかそれが自分を苦しめる元になって、月奏にすら気を遣わせ、文句も言わずにそれを受け止め続けてくれていたなんて。
「せんせぇと離れ離れになったあの時も、そうだった。カッター持ったせんせぇの手がいつもより震えてて、怖いんだなって、思った。どうにかしたかった。その怖いのが、いつもみたいにるのんに痛いことすれば消えるのかなって思って……自分を刺した」
私のせいだった。月奏が首を切ったのも、月奏の幸せを奪ったのも、あの瞬間自分の幸せが消え去ったのも、ぜんぶ。
「そんなこと……そんなことっ……苦しいとか、辛いとか……私は――」
自分の存在をも否定するような言葉を言おうとした、すんでのところで月奏が不意に私を抱き寄せた。口元が月奏の肩に埋もれて塞がれる。背中に置かれた、大きくなった月奏の手のひらから、ぬくもりが伝わってくる。
「……ねぇせんせぇ。るのん、いい子になったよ。勉強も、今は追いつけてるの。一回だけだけど、満点取ったこともあるんだよ。お料理も、得意になったよ。昔よりもっと、せんせぇのこと手伝えるよ。飲み物零すこともなくなったし、お皿も割らなくなったよ。だから、だからね……せんせぇが悲しい顔になること、もうなにもないんだよ。せんせぇのおかげで、いい子に、なれたよ」
必死だった。健気な声色だった。あとはなにを言えばせんせぇは納得してくれるだろうって、嫌なこと忘れられるだろうって、次のいい子の証を頭の中で探してる。その姿が、痛かった。
「……ごめん……なさい……!」
ずっと、言わないようにしていた、心の奥底に閉じ込めていた言葉が、身体をすり抜けて、出て行ってしまった。それに引きずられて、涙が出て、もう、止まらなかった。
「ごめんなさい、ごめんなさい、ごめん、なさい……!」
今までの罪の分、すべて謝るように、私はその言葉を何度も、何度も口にした。それで月奏が救われるわけでもないのに、独りよがりに、何度も。
「せんせぇ、もういいよ。十分伝わったよ」
「ごめん、ごめんね……! 月奏に、ひどいことして……月奏は、最初から、ずっと……いい子だったのに……!」
月奏の肩に顔を埋めて、自分じゃ止めることのできない涙が服に染みていく。それでも全部受け止めて、優しく頭を撫でてくれる月奏は、私なんかよりも立派な大人に近付いていた。
「いいんだよ。るのんはせんせぇのこと大好きだもん。せんせぇと出逢えて、よかった。だからもう、遠くに行っちゃわないでね。ずっと、そばにいてね」
「月奏……月奏……っ! ああぁぁぁぁ――!」
子どものように、大声を月奏の肩にぶつけて泣いた。
消えない罪に、涙が滲んでいった。
幸せを知らない小さな孤独 霜月透乃 @innocentlis
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