13.慟哭
……俺は、どうしたらいいんだろう。
呪いにでもかけられたかのように、あのじいさんから言われた暴言が、ずっと頭の中に反響していた。
『バカが!障がい者のくせに、バスなんか乗るな!』
『迷惑なんだよ!満足に吊り革も掴まれない奴が、バスに乗ってんじゃねえ!バスはなあ、両腕がある人間のためのもんなんだよ!』
思い出す度に、鼓動がばくっ!と跳ねる。 そして、ぎゅーっと……思い切り心臓を握り潰されているような、そんな感覚に陥る。
俺を庇ってくれたおばさんの言うとおり、こんな言葉、気にする必要なんてないと思う。さらりと受け流していい罵倒だと思う。 だが、心がそれを許してくれなかった。
清く流れる川の途中で、小さな石にぶつかってしまい、川下へくだれず、醜く汚れていくような……そんな感覚だった。
(俺は……迷惑。迷惑なんだ……)
そうだ、俺は片腕がない。 もう普通には生きられない。腕がないというハンデは、永遠について回る。俺が死ぬまで終わらない。
この腕のせいで、周りの人には迷惑をかけてしまう。生きているだけで、他人の手を借りざるを得ない人生になる。
(みんな……口には出さないけど、本当は俺の世話なんて、したくないんじゃないだろうか)
ひょっとしたら、心の中ではあのじいさんと同じで、俺のことが迷惑で、邪魔臭く思っているのかも知れない。
いちいち気を遣うのが億劫だと、そう思っているのかも知れない。
だって今日までに、何人の人の手を借りた?何人にいろいろと世話してもらった?
俺の代わりに物を持ってもらったり、代筆してもらったり、片腕じゃ時間がかかる作業を待ってもらったり……。
俺に腕があれば、そんな作業、全部なくていいはずのものなんだ。
……だったら。
だったらもう、俺は今すぐに死んだ方がいいんじゃないか?
俺がいなくなれば、父さんも母さんも、俺なんかを育てる金を稼がずに済む。
俺がいなくなれば、倉崎さんも、俺のことを心配せずに済む。
俺がいなくなれば、長谷川も……辛い思いをせずに済む。
そうだ、そうだよ。
俺が死んでしまえば、長谷川だって自由になれるんだ。
俺が中途半端に生きているから、世話をする羽目になるんだ。
まったく、何が長谷川には笑顔になって欲しいだ。俺がいるせいで、長谷川は笑顔になれないんじゃないか。 彼女の重荷になっているんじゃないか。
俺は、くそ野郎だ。自分勝手で最低のクズだ。
自己満足に浸ってるだけの偽善者だ。
さっさと死んだ方がいい……疫病神なんだ。
「……先輩?」
右隣に座る長谷川からそう声をかけられて、俺はハッとした。
お昼休みの時間、俺はいつものように長谷川と屋上へ来ていて、お弁当を食べている最中だった。
箸が止まり、じーっとうつむいて考え込んでいた俺を心配して、彼女が声をかけてくれたのだった。
「先輩、大丈夫ですか?具合でも悪いですか?」
「あ、ああ、なんでもないよ」
そう言って俺は、無理やり笑顔をつくった。
実は、あのじいさんに暴言を吐かれた話は、誰にもしていなかった。だって、誰かに話したところで、問題が解決するわけじゃないし、余計な心配をかけてしまうだけだから。
特に長谷川には、一番伏せておきたかった。もし彼女に話してしまったら、「自分が先輩から離れたせいで」と、強く自分を責めてしまうのは明白だからだ。
だから、このことは誰にも言わない。言わなくていい。
俺なんかのために、心労を煩わせたくない……。
「でも先輩、なんだか様子が変ですよ?いつもよりも……ずっと元気ないですし……」
「本当に大丈夫だから……。俺なんかのために、心配かけてごめんな」
「………………」
長谷川は釈然としない表情を浮かべていたが、それ以上は俺へ聞くことはなく、俺と一緒に黙ってお弁当を食べていた。
……食事を終えた俺は、ふうと息をついて、空を見上げていた。
「……あれ?先輩?」
「………………」
「今日は、倉崎先輩のところへ行かないんですか?いつも図書館で勉強を教えてもらうはずののに」
「……ああ、今日は……ちょっと、断ったんだ」
「断った?」
「うん、何て言うか……こう、ちょっと気分転換に、一人になりたくってさ」
「え……?」
「……長谷川も、もう教室に戻ってくれていいからな。いつも俺のために……わざわざ屋上まで来てもらって、ごめんな」
「……先輩」
「俺はしばらく、この屋上に……独りでいるよ」
「………………」
「それじゃあ、ま……」
「先輩、本当に何もないんですか?」
「………………」
「ゆず、何か……先輩に嫌なこと、してしまいましたか?また前みたいに……先輩にいじわるなこと、やってしまい……ましたか?」
……長谷川の声が、震えていた。
彼女の怯えと恐怖が、そのまま物理的な形となって現れていた。
それが俺の右の耳に、しっかりと届いていた。
「……心配しないでくれ。長谷川は、何も悪くない。本当に心配しなくていいんだ」
「だけど……」
「………………」
「だけどゆず……先輩から離れるのは……」
「いいんだ、本当にいいんだ…………」
「………………」
そうして俺は、それ以上何も話さなくなった。
長谷川はしばらく迷っていたが、最終的には俺の気持ちを汲んで、その場から静かに離れてくれた。
ひゅうううう……。
冷たい風が、俺の髪や制服を煽って揺らす。俺は見上げていた顔をうつむかせて、膝を抱き、そこに顔を埋めた。
(俺もこの風とともに、どこか遠くへ行ってしまおうか……)
そんなことを頭の片隅で思いながら、すっと眼を瞑った。
風の音だけが、口笛のように聞こえていた。
……昼休みが終わって、五時間目の美術の時間となった。担当である村上先生は、美術室の黒板の前に立ち、メガネをくいっと上げて俺たちに告げた。
「今から画用紙を一枚ずつ配りますので、そこに好きな絵を描いてください」
村上先生はくるりと背中を向けて、黒板にチョークで『自分らしさ』という文字を書き記した。
「本日の五時間目と六時間目が、二年生最後の美術の授業です。あなたたちの持つ自分らしさを、思う存分表現してください。なお、作成した絵は、しばらくこの美術室に飾ることにします」
そうして先生は、俺たちに一枚ずつ画用紙と小さな鏡を配った。各人が持っている絵の具や色鉛筆で、それぞれ好きな絵を描いていく。
「うわっ!お前、絵下手すぎだろー!」
「おいおい、わかってねーなお前はよ!これが今時のゲージュツなんだぜ?」
「ねーミキちゃーん!オレンジの絵の具持ってないー?」
「あるよー!貸そうかー?」
ガヤガヤと騒がしい美術室の中で、俺はひとりぽつんと、鉛筆を持ったまま固まっていた。
真っ白な画用紙には、なにも描き込めていなかった。何度か鉛筆で線を入れたけど、その都度気に入らなくなって消してしまって、消しカスばかりが増えていった。
思うように鉛筆が動かせなくて、その度にイライラが募って、何回も「ちっ」と舌打ちをしてしまう。
「あー!もう、くそ!」
七回目の全消しをした時には、胸の内のムカつきがそのまま声になってしまった。
鉛筆と消ゴムを何回も持ち替えるせいで、左腕がだんだんくたびれてきた。時間が経つにつれて、どんどんと気持ちが萎えてくる。
「あっ」
かちゃん、ちりりりり……。
消しゴムで絵を消していた拍子に、手の甲が鉛筆に当たって床へと落ち、遠くへ転がってしまった。
いよいよ面倒臭さのピークに達していた俺は、「はあ……」とため息をつきながら、席を立とうとした。
「………………」
だけど、その鉛筆を拾ってくれた人がいた。倉崎さんだった。
「中村くんのだよね?これ」
彼女はそう言って俺に鉛筆を見せてきた。俺はこくりと頷きながら、「ごめん、ありがとう」と返した。
彼女の顔を見て、少し冷静さを取り戻した俺は、小さく「ふう」と息を吐いて、強張った肩を緩めた。
「ああ、そうだ。倉崎さん」
「なに?」
「今日は……ごめんよ。お昼休み、誘ってくれたのに」
「ううん、いいよ。私はいつでも大丈夫だから、気が向いた時に呼んで?」
「うん……」
俺は倉崎さんと会話している間、鼻の頭辺りを見ながら話していた。眼を見て話すことは、今の俺にはできなかった。
『腕がちゃんと2本ある奴に、俺の気持ちが分かってまたるかーーー!!』
それは、あの時に酷く罵ってしまったことに対する罪悪感からであり……。
『私がずっと、そばにいるよ』
まさか倉崎さんからこんなことを言われるとは、という気恥ずかしさからだった。
「中村くんは、今なに描いてるの?」
「え?ああ、いや……まだ、全然なにも」
「そっか、絵を描くのも大変だよね。私、何か手伝うことある?」
「大丈夫、一人でできるよ」
「そう?わかった。困ったことがあったら、いつでも私に言ってね」
「……うん」
そうして彼女は、自分の席へと戻っていった。
「………………」
俺はまた気を取り直して、真っ白な画用紙に向かった。
もともと俺は、大して絵心なんてない。それに好きなものは何か?と言われても、パッと思い付くほど何かに熱中しているわけでもない。そんな俺に、「自分らしさ」なんて求められても、どうしようもない。
何を描けばいいのか分からなくて、ただただ時間だけが過ぎていった。
(はあっ……。もうめんどいや、他の人のをパクろうかな。どうせ片腕の俺ががんばったって、いい絵なんかできないんだし……)
俺が自暴自棄になり始めている横で、先生は他の生徒たちが描いている絵を横から覗いていた。
「おお、とても上手ですね。空の青がすごく綺麗です」
先生はとある女子の隣に立って、微笑みながらそう告げた。
「私、めっちゃ青好きなんで、青がたくさん描ける空にしました」
「いいですよ。自由に創作して、あなたらしい美しさを表現してくださいね」
「………………」
隣でそのやり取りを聞いていた俺は、なんとなく……先生の言葉に引っ掛かった。
“あなたらしい美しさを表現して”。それは普通の感覚だったら、何も違和感は覚えない、ありきたりな言葉だと思う。
「………………」
だがその時の俺には、その言葉が無性に腹が立った。
あなたらしい美しさを描いて……というのは、それは逆に言えば、美しいもの以外は描かないでくれと、そう言われているような気がしたのだ。
もともと苛立ってたこともあって、心がひねくれてしまったんだろう。普段はこんなこと思わないのに、この時に限っては、揚げ足取りのような思考が産まれてしまった。
(……俺は、美しくなんかない)
鉛筆を持つ手が、ぎゅっと強く握り締められる。
そして、画用紙に線を引いていく。
(ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう……)
ふらつく手先に舌打ちをしながら、鉛筆だけを使って、とある絵を描き始めた。
それは、人の顔だった。
輪郭もぐちゃぐちゃで、色もついていない。不気味で、異様で、醜い人の顔だ。凄まじい形相でこっちを睨む人の顔だ。
ああ、そうさ。
これは、俺の顔だ。
無様に汚れた俺の顔だ。
『バカが!障がい者のくせに、バスなんか乗るな!』
『迷惑なんだよ!満足に吊り革も掴まれない奴が、バスに乗ってんじゃねえ!バスはなあ、両腕がある人間のためのもんなんだよ!』
……くそ、くそ、くそ。
ふざけんな、なんで俺が……そんなこと言われなきゃいけねえんだよ。
なんで俺が、罵られなきゃいけねえんだよ……!
俺は、長谷川を助けたんだ……!褒められたり、同情されたりはしても、罵られるいわれなんかひとつもないんだ!
「ぐ……!ぐうっ!ぐっ!」
歯が、ぎりぎりと軋むほどに噛み締める。
ガリガリガリガリ
さっきまで止まっていたのが嘘のように、鉛筆が画用紙の上を走る。
紙が破けるんじゃないかというほどに、筆圧がどんどんと強くなる。
ガリガリガリガリ
ガリガリガリガリ
ガリガリガリガリ
『おい!運転手!バス止めろ!このバカをさっさと降ろせ!ほんとに近頃の若い奴は、他人の迷惑も考えられんバカしかおらん!』
くそ、じじい……。
くそじじい……!
くそじじい!!くそじじい!!くそじじい!!
てめえ!!いつかぶっ殺してやる!!俺と同じように右腕を切り落として!!その肉を無理やり食わせてやる!!
ガリガリガリガリ
俺の苦しみなんてなんにも知らねえくせに!!俺がどんな想いで生きてるかも知らねえくせに!!知った風なこと言ってんじゃねえよ!!
ガリガリガリガリガリガリガリガリ
ちくしょうちくしょうちくしょう!!俺はもう!!どうしたらいいんだよ!!なんでこんな目に遭わなきゃいけねえんだよ!!ふざけんな!!ばか野郎!!ばか野郎!!ばか野郎!!
俺が何をしたって言うんだよ!!あの時どうしたらよかったって言うんだよ!!長谷川を見殺しにすればよかったのか!?目の前で轢かれそうになってる彼女を見てみぬフリすればよかったのか!?なあ!!誰か教えてくれよ!!
ガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリガリ
くそくそくそくそ!!どいつもこいつも殺してやる!!俺を罵ったあのじじいも!!俺を轢いた酔っぱらいのおっさんも!!これから俺に嫌なことをしてくる奴も!!みんな殺してやる!!
殺してやる!!殺してやる!!殺してやる!!殺してやる!!殺してやる!!
殺してやるーーーーーーー!!!
「……中村くん、大丈夫ですか?」
先生から声をかけられて、ようやく俺は我に帰った。
左手の中には、ぐっしょりと汗をかいていた。全速力で走っていたかのように息も上がっており、口を尖らせて「ふー、ふー」と呼吸を整えた。
身体中が、わなわなと震えていた。胸の内から込み上げる爆発が外へと溢れていた。
クラスメイトたちは、みな俺の方へと眼を向けていた。心配そうな眼差しだったり、不思議そうに眉をひそめていたりと、反応は様々だった。
「……すみません」
俺は少しぶっきらぼうに、先生へそう返した。そして、自分の描き終えた絵を手に取って、先生に渡した。
「先生、完成しました」
「え?」
「これが、俺の作品です」
「………………」
先生は俺の作品を受け取ると、あからさまに嫌そうな顔をした。
「……あのー、中村くん。こういうのは、ちょっと良くないですね」
「………………」
「もっと綺麗な絵を描きましょう?これは少し、怖いですから」
「……いいえ、描き直しません」
「中村くん?」
俺は、自分の中で沸き上がっていた火が、少しずつ鎮火していくのを感じていた。自分の描いた絵の中に、その火を移せたような気がしていた。
そして、その最後の残り火を……全て口から吐き出すようにして、先生にこう言った。
「その絵は、俺そのものですから」
【挿絵】
https://kakuyomu.jp/users/gentlemenofgakenoue/news/16818093092763994326
……その日、私は美術室の清掃を担当した。
箒を持って床を掃き、ほこりやゴミクズを部屋の中央に集めていく。
「おーい桃香ー」
美術室の入り口に立つ夏希ちゃんに呼ばれて、私は「はーい」と返事をした。
「そっちにさ、ちり取りってある?」
「ううん、こっちにはないよー」
「ああ、じゃあアタシ持ってくるわ」
「うん、ありがとう」
夏希ちゃんは一度美術室から出て、廊下をスタスタと走っていった。
「………………」
美術室には、私たち二年生が五時間目と六時間目に描いた絵が飾られていた。
当然、私の絵もあるし、夏希ちゃんの絵や、沙穂ちゃんの絵もある。
私は犬が大好きなので、可愛らしい子犬の絵を描いた。テニス一筋の夏希ちゃんはテニスラケットを描いていて、沙穂ちゃんは山盛りのいちごパフェを描いていた。
こんな感じで、クラスメイトたちみんなの絵がずらりと並んでいて、それぞれ個性豊かな絵ばかりだった。
バスケットボールを描いている人や、好きな漫画のキャラクターを描いている人、絵が上手い人に至っては、「わあっ」と声が出てしまうほどに綺麗な大空を描いている人もいた。
「………………」
そうして壁に綺麗に並べられている中の……隅っこの方に、ぽつんと中村くんの絵は飾られていた。
だけど、その絵の存在感は、他の作品とはまるで違っていた。
この絵を初めて見た時、私は咄嗟に「殺される!」と思った。
絵から感じる強烈なまでの殺気が、画用紙全体から伝わってくる。そこに描かれている人が、今にも絵の中から出てきてしまうのではないかと……そう思わせる力があった。
「桃香ー、ちり取り持って来たよ~」
後ろから夏希ちゃんに声をかけられて、私は振り返りながら「ありがと~」と答えた。
「うーん?桃香、何見てんの?」
夏希ちゃんはちり取りを手にこっちまで歩いてくると、私が立っていた場所を見て、「あー、この絵ね」と呟いた。
「やべーよね、これ。中村の闇深すぎん?」
「………………」
「どんな気持ちでこんな絵描いたのか、もうアタシには全然分かんないや」
「……そうだよね。それは、私もおんなじだよ」
私は夏希ちゃんと並んで、じっと中村くんの絵を見つめる。
「中村くんの苦しみは、中村くんにしか分からない」
『腕がちゃんと2本ある奴に、俺の気持ちが分かってまたるかーーー!!』
「……右腕がないっていうのは、きっと私たちが思う以上に、いろいろなことを考えてしまうんだろうね」
私はそっと、彼の絵に触れた。ざらざらした質感が、指先に伝わってくる。
「ちょっ……桃香、よく触れんねその絵。アタシは不気味過ぎて、見るのも怖いわ」
「……うん、私も確かに怖いよ。怖いし不気味だと思うけど……」
「………………」
「なんだかね、泣いてるように見えるの。この絵」
「え?な、泣いてる?でも、涙は描いてないじゃん」
「うん。一見すると物凄く怒ってる絵なんだけど、それと同時に……どうしようもなく泣いてる気がする」
「な、なになに?いきなりスピリチュアル発言は止めてよ。ついていけないって」
「………………」
私がこの絵をそう見てしまうのは、実際に私が……中村くんの泣いているところを、見たことがあるからかな?
『誰か……誰か……』
────助けて。
雨の中泣いていた彼の姿が、目蓋の奥に焼きついている。彼の震える声が、今も耳にこびりついている。
そのせいなのかは分からないけど、私はこの絵が……どうしようもなく愛おしく感じてしまう。
彼の必死のSOSに思えて、堪らなくなる。彼のことをぎゅっと、抱き締めてあげたくなる。
(……中村くん、やっぱり何か遭ったんだね)
今日もずっと、彼は元気がなかった。笑顔も無理やり作った偽物で、他人を心配かけないように抑え込んでいるものだった。
その反動が、この絵に出てきてしまったんだろう。ずっとずっと我慢しようとしてた気持ちが、耐えられなくなったんだろう。
(大丈夫だよ、中村くん)
きっと私が、こんな絵を描かないで済むくらい、幸せにしてみせるから……。
「……やあすまない、そこの二人」
その時、私と夏希ちゃんに声をかけてくる人がいた。
私たちが振り返ってみると、そこには見知らぬ女の子がいた。
髪の毛は青のショートヘアで、左目が前髪に隠れていた。可愛らしい顔立ちをしているけど、どこか中性的な雰囲気を持っていた。
体つきはすらりとしたスレンダー体型で、身長は私たちより遥かに高かった。男の子と遜色ないくらいの背丈で、それがまた、彼女の中性的な空気を後押ししていた。
「あ、あの、どなたですか?」
私がそう言うと、彼女はニッと笑って、中村くんの絵を指さした。
「その絵を、じっくり観させてはもらえないかい?」
彼女はやたらと弾んだ声で、私にそう尋ねた。なんだろう?と思いながらも、私は「どうぞ」と言ってその場から退いた。
「おお……!すごい!すごいぞ!」
彼女は、ぱあっ!と瞳を輝かせて、ぐいっと一歩前に出た。
「素晴らしい……!本当に素晴らしいよ!」
謎の女の子は、中村くんの絵に思い切り顔を近づけて凝視していた。もう少し前へ出たら、鼻先が絵につくんじゃないかというほどだった。
「こんなに心を揺さぶられる絵を観たのは、久々だ!まさしく“本物のアート”だよ!」
「ほ、本物のアート……?」
「ああ!この絵には、魂がこもっている!ソウルフルな作品だ!」
「………………」
私と夏希ちゃんは、お互いに顔を見合わせた。謎の女の子はそんな私たちに、「なあ君たち!」と言って話しかけていた。
「この絵、誰が描いたか知らないか!?」
「この絵?これは、中村くんの作品です。中村 礼仁郎くん。私たちと同じ、二年一組の生徒です」
「ナカムラ レイジロウ?むーん、聞いたことあるぞ……?ナカムラ……ナカムラ……あっ!?もしかして、事故で右腕を失った人じゃないか!?」
「知ってるんですか?」
「噂程度にはな。なるほど……その事故によって……。そうか、もしかすると……」
「………………」
「この絵を描いたナカムラくんは、君たちのクラスメイトだと言ったね?」
「え、ええ、まあ」
「ぜひ紹介してくれないか!?この素晴らしい作家に、一目お会いしたい!」
ぐいぐい来る彼女に向かって、夏希ちゃんが苦言を漏らした。
「ちょ、ちょっと!そもそもあんたは誰なわけ?まずは自分の名前くらい言ってよね!」
「ああ、これは失礼、申し遅れたね。ボクの名前は牧平 林檎。美術部の部長をしてるんだ」
「美術部の……部長?」
「そうさ!退屈なホームルームを抜け出して、すぐにでも創作を始めようと思って美術室に来たところだったが……いやはや、思わぬ衝撃と出会えたよ」
彼女は……牧平さんは、恍惚とした表情で、また中村くんの絵を見つめていた。
「これほどまでに“泣いている絵”を観れたのは、本当に久しぶりだ。ボクの心も、凄まじく揺さぶられたよ」
「!」
「え……?な、なんで、桃香と同じことを?」
「おお、君たちも同じように、泣いてる絵だと悟ったのかい?素晴らしいね!君たちもアーティストに向いているよ」
「………………」
「この絵には、見えない涙が描かれている。激しく切ない慟哭が描かれている。ボクには分かる!分かるんだ!」
牧平さんは無邪気な子どものような眼で、私たちに熱弁していた。
これが、牧平さんが中村くんへ興味を示した、最初の瞬間だった。
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