1話-2 旅立ちの杏仁豆腐

 雨の音で、目が覚めた。

 屋敷の雨漏りが気になるが、規則的な優しい音は、母がさいきざむ姿を思い起こさせた。


「さて、どうしたものか……」


 凜風りんふぁは寝台から抜け出ると、しばらく闇を見つめる。扉を開けた。

 足音を殺し、厨へと向かう。

 壁際には火の落ちたかまど、並んだ水甕みずがめ、それに包丁。


『五日の内には入宮してもらいたい』


 咳をこらえながら、叔父は凜風にそう厳命した。

 心理的に追い詰められると、叔父は咳が止まらなくなる。それは長く続くとよくないものだと、凜風は気づいていた。


 ――花硝ふぁしょうが後宮入りなどしたら、症状が悪化しかねないということも。


「ようやく師父たちに認められて、お店に料理を出せるところまできたんだけどなぁ。逃亡するかー?」


 あえて明るい口調でうそぶきながら、厨場の棚を漁る。

 杏仁霜きょうにんそう魚膠片ゼラチン、少しの砂糖はあるものの牛の乳はなかった。

 栄養価の高い牛の乳は高級品である。まあ仕方ないと思っていると、小壺に珍しいものを見つける。

 蜂蜜だ。


「……梅眠めいみゃん、かな」


 蜂蜜もまた高級品である。おそらくは、実家が養蜂家をしている梅眠からのお裾分けだろう。


 その彼女の処遇をどうしようかと思ったが、ひとまず置いておいた。


 凜風りんふぁは鼻歌を歌いながら、材料と水をすべてひとつの鍋にいれて、火をおこして熱する。がさないよう、さじでゆっくりゆっくり混ぜる。

 しばらくしてお椀に移した。このまま朝まで置いておけばいい感じに固まって、朝餉のときに出せるだろう。


 作っていたのは、杏仁豆腐あんにんどうふだった。


「これを食べて、叔父さまには元気に戻ってもらわないと」


 食は医なり。


 そう、母がよく言っていた。

 食材の性質、調理方法を知って、その日の暑さ寒さ、その人の体調にあわせて料理を出しなさい、と。

 たとえば夏にとれる冬瓜とうがんや苦瓜はほてった体を冷やしてくれるし、唐辛子は体を温める。

 そして、杏仁豆腐に使われる杏仁霜は、肺と腸を潤し、咳を止める働きを持っていた。


 医食同源の考えはこの国に古くからあるものである。しかし母の料理は文字通り、死にゆく者すら留める力を持っていたように感じていた。

 凜風りんふぁにはときおり、母の料理がほのかな光をまとって視えたのだ。


 あれは一体、なんだったのだろう。


 凜風の瞳は、他の者が視えないものを映す。それは慧眼と呼ばれるもので、視えるものは大きくふたつだった。


 不穏なもやと、優しい光。


 靄は悪しきもの――たとえば、病や暗い気持ちのようなものだと捉えている。

 光とはそれらと相克するもの。


 母さまの料理があれば、叔父さまの咳も花硝ふぁしょうの体の弱さもすぐに直りそうなものなのに。


 あの人が去って五年がたった。

 朱家を支えてくれた者はひとり、またひとりと去ってゆき、屋敷は荒れてゆく。去年は家の差配を出していた祖父が亡くなった。


凜風りんふぁ様」


 思索に耽っていると、梅眠めいみゃんが手燭を持ってたたずんでいた。


「起きてたんだ…」

「ええ寝てなんていられませんわ」


 口調が少し怒っている。


「いいですか! 凜風さまが後宮入りをする必要なんてありませんからっ」


 あ、本当に怒っている。


 昼間、梅眠が叔父の前で見せた演技じみたものとは違うまっすぐな感情に、凛風は苦笑を返す。


「とはいえ、花硝ふぁしょうを送るわけにもね? 確実に死ぬよ?」

「他に、身代わりを立てればよろしいのです。小金を払えばどうとでも」


 杏仁豆腐のほわっと甘い香りを吸いながら、凜風は雨音を聞く。


 梅眠めいみゃんは侍女をしているが、養蜂をしている実家は裕福だ。

 小金というが、その小金の用意は朱家には負担であり、また朱家を代表する娘を、叔父がそこらの娘に任せることができないのも、凜風りんふぁは理解している。


「三十四歳の、我が国一花嫁を抱える男の嫁になるなんて、まったくもって不本意だ。それも後宮というところは美しい女たちが己の矜持をかけて寵愛を競いあっているところだから、私は、旦那様の玉顔すら拝むこともできず、ひたすら労働することになるだろう。でもね、それでよいと思っている。

私が後宮に埋もれることで給金が支払われて朱家の雨漏りが直るなら、わりとよいと思っているんだよね」

凜風りんふぁさまっ」

「安心していい、梅眠めいみゃんは後宮に連れていかない。不自由な鳥籠だからね。実家に戻るか、それとも……花硝ふぁしょうの世話をする?」

「どちらもお断りです! わたくしは、言いつけられているのです」


 梅眠は目を怒らせて、肉付きのいい腰に両手をあてる。


「わたくしは、お嬢様から、凜風様がよき人と夫婦となり、しあわせとなる様を見届けるよう言いつけられております」


 凛風りんふぁはすっかり困ってしまった。

 梅眠がお嬢様と呼ぶのは、凛風の母、朱 月華ゆぅふぁのことである。梅眠は母が四つのときから仕え、母が去ってからは一人娘の凜風に尽くそうとしてくれていた。

 その忠義の厚さに、まずは真剣に詫びることにする。


「申し訳ないが、私は母さまのような料理人になりたいんだ。だから、しあわせな結婚に興味はない」

「後宮に入れば、どちらも叶わないではないですか! せっかく八仙楼の古狸ふるだぬきどもが、凜風りんふぁ様の料理を認めたというのに。どうして花硝ふぁしょう様なんかの犠牲に!」


『花硝様なんか』


 その、心底悔しそうな様子がおもはゆかった。


「おや。外で料理をしているのは隠していたのに、やはりバレていたか。梅眠めいみゃんは流石だなぁ」


 そんなふうに茶化してみても、梅眠は表情をゆるめない。

 凛風は胸があたたかくなるのを感じた。母への忠義であっても、こんなふうに大事に想われては格好悪いところは見せられないな、と思う。


「ああ、逃げたりなんてできないのか」


 母さまの料理は人を救っていた。私も救えるような料理人になりたいが、未熟だ。もっと料理の修行をしたい。

 けれど、朱家の窮状も見過ごせない。

 そのどちらも満たす選択があった。

 ただ、迷っていた。過酷な道だと怯んでいた。それが梅眠めいみゃんと話したことで、凛風りんふぁの腹は決まった。

 に、と笑む。


「梅眠、わたしは後宮に行く」

「凛風さま!」


 目を剥く梅眠に向かって、凛と宣言する。


「――それで、後宮一番の料理人になってみせるさ」

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