「夕焼けに染まる海辺での静寂」
数日後、太白は夕嬌から一通のメッセージを受け取った。
「明日はサークルのボランティア活動があるよ。地域の図書館で古い本を整理するんだけど、一緒にどう?」
太白はそのメッセージを見つめ、しばらく考えた後、短く一言だけ返信した。
「いいよ。」
ボランティア活動の日、夕嬌は早めに集合場所に到着し、太白を待っていた。太白が歩いてくるのを見ると、彼女はほっとしたように微笑んだ。
「来ない理由を見つけて断ると思ってたのに。」
「いつまでも逃げてばかりじゃダメだろう。」
太白は低い声で言い、自嘲気味に口元をわずかに歪めた。
二人は一緒に地域の図書館へ向かった。それは古い木造の小さな建物で、ほのかな木の香りが漂っていた。ボランティアの作業は複雑ではなく、主に本棚の古書を整理し、破損した本を記録して修繕に回すことだった。
作業の途中、太白は偶然、手書きのメモが挟まった日記帳を見つけた。ページを開くと、ある無名の著者の言葉が目に飛び込んできた。
「人間にとって最大の痛みは、取り戻せない喪失ではなく、その喪失に直面したときの無力感だ。」
その一文が、まるで太白の心を突き刺したかのようだった。彼はその本をそっと閉じ、整理作業に集中する夕嬌を見上げた。彼女の横顔は柔らかく、目は真剣で、その瞬間、太白は自分が孤独ではないことに気付いた。
図書館での作業が終わると、夕嬌は近くのカフェで休憩しようと提案した。二人は窓際の席に座り、時折通り過ぎる人々を眺めながら、軽い話題を交わした。
「最近どう?少しは良くなってきた?」夕嬌が試すように尋ねた。
太白は小さくうなずき、温かいコーヒーを手にしながら答えた。
「少しずつ、過去を手放そうとしてる……まだ簡単じゃないけど、少なくとも努力はしてると思う。」
夕嬌は安心したように微笑んだ。
「それで十分だよ。きっと少しずつ良くなるよ。」
二人は静かにコーヒーを飲み続けた。いつもの空気よりも穏やかで、窓越しの陽光がガラスを通して二人を包み込み、この瞬間に温かさを添えていた。
休憩を終えた二人がカフェを出ると、陽光が石畳の道に斑模様を描いていた。夕嬌は袖を軽くまくり上げ、スカートについた埃を払いながら太白の方へ振り向いた。
「次はどこ行く?海辺に行ってみない?」
「今から?」太白は少し驚いた様子で腕時計を見た。
「うん。まだ日が沈む前に、海風を感じてリフレッシュしようよ。」
夕嬌は軽やかな声で笑いかけたが、その瞳にはどこか真剣さが宿っていた。
太白は一瞬迷ったものの、最終的に頷いた。
「分かった。」
二人は海辺へ向かうバスに乗り込んだ。窓の外の風景は、都会の喧騒から次第に田舎の穏やかさへと移り変わっていった。夕嬌は窓際に寄りかかり、時折太白の方へ視線を向けた。彼は相変わらず口数が少なかったが、顔には幾分か疲れが取れたような表情が浮かんでいた。
「将来のこと、考えたことある?」夕嬌が突然問いかけた。
太白は夕嬌を見て、少しの間黙ってから答えた。
「まだはっきりした目標はないけど、デザイン関係の仕事ができたらいいなって思う。今の俺じゃ力不足だけど。」
夕嬌は小さく笑い、言った。
「一歩ずつ進めばいいじゃない。いきなり完璧なんて無理だよ。少しずつ努力すれば、きっと成果はついてくる。」
少し間を置いて、彼女は目線を窓の外に移し、声を落として続けた。
「時間だけじゃなくて、話せる相手がいることも大事なんだよね。抱え込んだままだと、きっとすごく辛いはずだから。」
彼女の言葉は何気ないようで、どこか意図的な響きを持っていた。太白はすぐには答えず、視線を自分の手に落とし、しばらくしてから小さく呟いた。
「そうかもな……」
バスが停留所に到着し、二人は小道を歩いて海へ向かった。夕暮れ時の海風が顔を撫で、ほのかに湿った塩の香りを運んできた。太白は前を歩き、夕嬌は静かにその後ろをついていく。砂浜には人影もまばらで、遠くではカモメの鳴き声が響いていた。
太白は足を止め、波が打ち寄せる海岸を見つめた。夕嬌は彼の後ろに立ち、何も言わず静かに寄り添った。太白は深く息を吸い込むと、胸の奥に溜まっていた重い感情が少しだけ風に散らばっていくように感じた。
「ここ、風が気持ちいいな。」夕嬌の優しい声が後ろから届いた。
太白は海面を見つめたまま頷いた。
「ああ、思ったよりも悪くないな。」
「太白。」
夕嬌は彼の隣に並び、柔らかいが真剣な口調で言った。
「どんなことがあっても、過去の痛みに縛られないでほしい。いい?」
太白は少し驚いた表情で彼女を見つめた。彼女の瞳は明るく澄んでおり、期待を込めながらも慎重な優しさが感じられた。
「俺……」
太白は口を開きかけて一度詰まり、しばらくしてから小さく頷いた。
「変わる努力をしてみるよ。」
夕嬌は満足そうに笑い、夕陽が彼女の顔を赤く染めていた。
「うん、それだけで十分だよ。」
二人はしばらく静かにその場に立ち尽くした後、夕嬌がしゃがみ込み、小さな石を拾い上げた。そして、勢いよく海に向かって投げると、石は水面を跳ねて小さな波紋をいくつか残した。
「競争しない?」夕嬌が振り返り、眉を上げて言った。
「何を?」
「水切りだよ!子どもの頃は私、これが得意だったんだから。」
彼女は少年のような無邪気な笑みを浮かべ、まるで昔に戻ったかのようだった。
太白は軽く笑い、腰を屈めて石を一つ拾った。そして適当に投げてみたが、石はすぐに水中に沈んでしまった。
「やっぱり、俺には向いてないかもな。」太白は肩をすくめた。
「もう一回やってみて。今のは投げ方が違うだけ。」
夕嬌は彼のそばに来て、手首を軽く握り、投げる動作を教えた。
「こう。手首をもっと柔らかくして、力を入れすぎないで。」
太白は言われた通りにして、もう一度石を投げてみた。今回は石が水面を二度跳ねた。完璧ではなかったが、波紋が広がる様子を見て、太白の口元にごくわずかに微笑みが浮かんだ。
夕嬌は満面の笑みで拍手をしながら言った。
「ほらね、やればできる!」
海風が次第に冷たくなり、夕陽が空を鮮やかな朱色に染めていた。二人は砂浜に並んで腰を下ろし、遠くの地平線を見つめた。太白の胸の中にあった重苦しいものが少しずつ薄れ、代わりに穏やかな静けさが広がっていくのを感じた。
「ありがとう、夕嬌。」太白は低い声で呟いた。
「え、何のこと?」夕嬌は膝に寄りかかりながら、軽く笑った。
「ただ、一緒に散歩しただけだよ。」
海風は塩の香りを帯びて頬をかすめ、夕日がゆっくりと地平線に沈んでいく。海面には柔らかな金色の輝きが映り込み、波の音が穏やかに響いている。太白と夕嬌は砂浜に並んで座り、足元には細やかな砂が広がり、頭上には薄暗くなり始めた空が広がっていた。二人は静かに遠い水平線を見つめながら、言葉にできないような静けさと安らぎに包まれていた。
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