星の欠片の私たち
荒木明 アラキアキラ
第1話 ハローワールド
興奮と緊張が充満したホール。九月だというのに熱い。こちらもそれに応えなければならない。同じ熱量で、同じだけの興奮と緊張を含みながら、マイクを前に唇を震わせる。
「皆さんと同じように、ここは私にとって憧れの場所でした」
その時、私は彼の姿を見つけ、用意していた言葉が全て真っ白になった。
ナトリウムの、結晶。
――
桜が吹雪く、ある晴れた日のことだった。一週間前、神奈川県立、
「あれっ、しまった遅れた」
古びた扉が勢いよく開かれる。そこから入って来た人は、背は高いのに、学ランの袖や裾はさらに長くて、端が擦り切れて茶味がかっていた。左手には、何か白いものを持っている。ずかずかと教室に乗り込むと、黒板に張られている座席表を見た。そして「ついてるな俺」と呟き、こちらへとぶかぶかの上履きでやってきた。
「俺は
私は、帰宅の準備をしていたかばんをぎゅっと胸元に引き寄せた。
「君の名前が気になって、部活動の勧誘に来た!!」
あぁ、そうか。
結局、そんなもんか。
私は、息を小さく吐いた。かばんをぐしゃりと跡がつくほどに握る。
「部活には、入るつもり、ないんです」
白井先輩は、口元をへの字に曲げた。
「理由は教えてくれない?」
この人からしたら意味が分からないだろうな。だって私の名前を見て、勧誘しに来たんだから。
説明をしたことはなかった、だけど今この教室には白井先輩と私しかいない。
窓の外は白い桜で覆われている。
「…。音楽は怖いんです」
「ほお」
「真面目に言ってるんですよ。ふざけてるわけじゃない」
かばん、無駄に重いな。
「俺だって真面目に聞いてるよ。そんでもって俺たちは歌わないし、楽器も吹かない」白井先輩はそう言って真っすぐにこちらを見ている。楽器じゃないなら、そっちか。
「美術も怖いです」
「ほお」
白井先輩は、頷いた。
この人には私の恐怖心が分からないんだ。
私は目をつむった。つむらなくたって、目の間は真っ暗なのに。
「私の名前、苗字、結を見つけて来たんですよね。
そうですよ。ピアニスト、
二人とも、それだけで飯が食えているわけではない。収入は会社員やパート業務の方が良い。諸々の費用を考えれば、趣味と言った方が正しいかもしれない。ただ二人は表現者として世にその名前を出している。ファンもいる。その珍しい名前から、今までも何度か声をかけられてきた。
こんな出来損ないの娘に。
「あ、あれむすびって読むんだ」
白井先輩の言葉に、私は肩透かしを食らったようになって目を開けた。
「え、それで来たんじゃないんですか?」
「いや、ごめん。俺芸術関連には疎いから知らない」そう言って先輩は、右手で、そのぼろぼろの学ランのポケットから、小さなノートとペンを取り出した。
『結晶』
と、白と黒のコントラストが生まれる。
「けっしょう、ってカッコいい名前だなと思った」
結晶。そう言われた時、目の前が真っ白になった。いや、正確には真っ白ではない。いくつもの幾何学模様が折り重なり、輝いている。小学生の時、理科の授業で見た、ナトリウムの結晶だ。
「…。音楽とか、美術とか…あれって、結局、才能じゃないですか。いや、まぁあの人たちからすれば、努力はしてるんでしょうけれど。でも、でも結局は才能ですよ。天才しかできないものだ」
なぜか、口が動いていた。
「そうかもしれないね」
なんで私、こんなこと話してるんだろう。名前しか知らない先輩に。
だけどその相槌は、とても暖かかった。
「俺は素人だからよく分からないけれど、要は君が怖いと言う、音楽や美術は、正解の音、正解の形、正解の色があるものなんだろ?」
「そう、です」
『好きに弾いてごらん』『自由に描いてごらん』何度そう言われたか分からない。でも、その好きにも、好まれるものと嫌われるものがあることに気がついた。視線がそう言うのだ、『それは違う』と。でも、私は間違った後でしかそれが分からなかった。だから、どんどん、どんどん、最初の一音、最初の一筆が、できなくなった。
ピアノという白と黒のコントラスト、スケッチブックという白と黒のコントラスト、全部怖くなった。
「この世界には様々な波がある。音も色もようは波だ」
「え」
「量子物理学によると、この世界はその重ね合わせでできている。
結果は観測してみるまで分からない。やってみるしかない」
白井先輩は、左手に持っていたものを広げた。それは、真っ白な、白衣だった。黒い学ランと白い白衣のコントラストが生まれる。
「俺たちは絵も描かない。いや文化祭のポスターは描くかもだけど」
そのコントラストは、怖くない。かもしれない。
「ぜひ科学部に、入ってくれないか」
狭い教室に、世界が、開けた。
それが、私と白井先輩、科学部、科学との出会い。
世界との出会いだ。
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