第二部 神の嫁
第15話 思い出(一)
枕もとには、つい最近、五歳の誕生日に両親から贈られたクマのぬいぐるみ。
彼女の腕には数え切れないくらいの注射の痕が残っていて、さっき刺されたばかりの箇所が少しだけヒリヒリと熱を持っている。
うつろな目をして点滴のボトルから伸びるチューブを指でつついたりしながら、幼い一千歌はぼんやりとベッドから身を起こすと、窓の近くに歩いていって外を見た。
道を歩くのは、学校から帰る途中の子どもたち。
彼らの笑い声が病室に届くたび、一千歌の胸の奥に、言葉にできない寂しさの波紋が広がる。
そんなとき、ふいに廊下のほうから人の足音が近づいてきた。
――パパと、ママだ!
一千歌の顔が、ぱっと明るくなった。
この病室で何度も人が訪れるのを見ているうちに、一千歌は廊下を歩く人の足音だけで、誰が来たのか聞き分けられるようになっていた。
暇を持てあましていたこともあり、聞き覚えのあるその足音に胸を弾ませる。
点滴のスタンドをつかむと、いたずらっぽい顔でそっと扉に近づいた。
入ってきた瞬間に、両親を驚かせるためだ。
しかし、足音は扉の前で止まったまま、誰も部屋に入ってくるようすがない。
どうやら、何か話をしているみたいだった。
――なんの話をしてるんだろう?
幼い心に芽生えた好奇心が、一千歌の耳を扉のほうへと引き寄せた。
耳を近づけると、両親の小さな声が漏れてきた。
「先生が言ってたんだ。
そう語る父の声はいつもより悲しそうだった。
「転移も見つかったらしい。でも、全部を取り除くのは難しいって……」
その言葉を聞いた瞬間、一千歌の表情から笑顔が消える。
『腫瘍』や『転移』などの言葉は、幼い一千歌には馴染みがなく、よく分からない。
しかし、両親の深刻そうな声のトーンからなんとなく意味が読み取れてしまった。
きっと、悪い話だ。
一千歌は一瞬その場に立ち尽くしたけれど、聞かなかったふりをしてそっと扉から離れた。
点滴のスタンドが音を立てないように慎重に動かしながら、ベッドへ戻って布団に潜り込む。
一千歌の最初の記憶も、病室だった。
たまに同じくらいの年齢の子どもたちが入院してくることもあったけれど、彼らはたいていすぐに元気になって退院していく。
けれど、自分は違う。
いつまでもこの無機質な空間に取り残されたまま。
髪の毛も、薬の影響で今ではほとんど抜け落ちてしまった。
命の残り時間だって、ほかの子よりも少ないのかもしれない……。
そんなふうに、日頃から感じていた。
廊下の外でふたたび再び足音が響きはじめ、今度は部屋の扉がゆっくりと開いた。
「一千歌。元気にしてた?」
病室のドアを開けて現れた母は、どこか表情に陰を落としながらも、いつものようにやさしい声で語りかけた。
「うん!」一千歌は、精一杯元気に答える。「ママこそ、疲れてない? いつも大変だよね」
母は一瞬驚いたように目を開いたが、すぐに微笑んで手のひらで一千歌の頬を撫でた。
「そんなこと気にしなくていいの。今日はね、ちょっとパパ忙しいみたい。でもね、一千歌のことを気にしてたわよ」
「そうなんだ。残念だけど、ママが来てくれてうれしい!」
一千歌は頬をゆるませて、笑顔を見せた。
けれど、胸の奥では複雑な思いが消えない。
自分のせいで両親に迷惑をかけていること、自分のせいで母が時々悲しそうな顔をすること――それが分かっているからこそ、精一杯の笑顔で隠すしかなかった。
幼いながらの精一杯の明るさ。
涙を隠すための、小さな仮面。
母は一千歌の笑顔を見ると、安心したように息をついた。
そっとベッドの横に腰を下ろし、小さなカバンから絵本を取り出す。
「今日はね、新しいお話を持ってきたの。読んであげるね」
「読んで、読んで!」
母が手にした絵本の表紙には、『幸福の王子』と大きく書かれていた。
原作の著者は、オスカー・ワイルド。イギリスの作家だ。
「昔々、とある街のお話です。その街には、『幸福の王子』と呼ばれるとても美しい像が立っていました……」
静かな病室に、母の声が響く。
一千歌は口元に笑みを浮かべたまま、目を閉じてお話を聞いていた。
王子は街に住む貧しい人々の姿に心を痛めていました。
そこで彼は、ツバメにお願いして、自分の体を
これにより救われる人がいる一方で、装飾をはがされた王子の像は、徐々にみすぼらしい姿になっていきました。
そうして最終的に、彼は溶かされてただの金属となり、ツバメもまた、冬の寒さで命を落としてしまいました……。
「王子さまとツバメさん、かわいそう……」
一千歌は、ぽつりとつぶやいた。
「そうね。でもふたりはその代わりに、たくさんの人を幸せにしたのよ」
母がやさしくそういうと、一千歌はじっと物語の結末を待った。
「下界のようすを見ていた神さまは、そばにいた天使に命令しました。『この街で最も尊いものをふたつ持ってきなさい』と。天使は溶けずに残った王子の鉛の心臓と、ツバメの死骸を神さまのところに持っていきました。こうしてふたりは、神さまのいる幸せな楽園でいつまでも暮らすことになったのです……」
物語が終わって母が本を閉じると、一千歌は少し考えてたずねた。
「王子さま、ずっと動けなかったんだよね」
「そうね。王子さまは台座の上から、街を見守ることしかできなかったのよ」
一千歌は小さな手でざわつく自分の胸のあたりをぎゅっと握りしめた。
「わたしみたいだね」そういって、窓の外を見つめる。「でも、わたしは王子さまと違って、なにもできない。誰かを幸せにすることも……」
母は少し驚いたように目を見開いたあと、寄り添うように、一千歌の近くに椅子をずらした。
「ママは、幸せって特別なことじゃないと思う。たとえば、誰かが笑えば、その笑顔は周りにも広がっていく。幸せって、そういう小さなところにもあるんじゃないかしら」
一千歌はその言葉を聞きながら、母の心を探るようにその目を見つめる。
「わたしも、誰かを幸せにできる?」
「当たり前よ。一千歌の笑顔には、不思議な力があるんだもの。お母さんだって、一千歌が笑うだけで疲れがどこかへ飛んでいっちゃうんだから」
そういって、母は一千歌の小さな手を握りしめた。
手のひらの温度を感じると、なぜだろう、一千歌の胸の中に温かいものが広がっていく。
「王子さまとツバメは、最後、神さまのところで幸せに暮らしたの?」
「そうね」
「……神さまは、わたしのことも、見てくれてる?」
「もちろん。神さまはいつだって、一千歌を見守ってくれているのよ」
「わたしも、いつも笑顔でいて、みんなを幸せにできれば、天国にいけるかな?」
その問いに、母は一瞬言葉を失ったようにこちらを見つめた。
そして、少し涙が滲んだような声で答えた。
「一千歌。そんなこと言わないで……」
なにげなく口にした言葉だったけれど、自分のせいで母の表情が曇ったことを察した。
一千歌はすぐに笑って「ごめんね。変な意味じゃないよ」と明るい声でいった。
†
それから、ある日のこと。
一千歌はいつも担当してくれている看護師にたずねてみた。
「ねえ、おねえちゃん。神さまって本当にいるの?」
母に『幸福の王子』のお話を読んでもらって以来、神さまへの感心が強くなっていたのだ。
「いると思うよ」看護師は答えた。「一千歌ちゃんみたいにいつも頑張っている子を、応援してくれるんじゃないかな」
「神さまは、どんなお顔をしているの?」
「うーん。それはわからないけど……。一千歌ちゃんの好きな絵本の王子さまみたいなお顔かもね」
「イケメン? イケメン?」一千歌はキャッキャッと笑った。
「そうだね!」看護師も、キャッキャッと笑って答えた。
またあるとき、一千歌は担当の医師にたずねてみた。
「先生、神さまってどんな人?」
「神さまは、人なのかな……? うーん。もし本当にいるなら、きっとやさしいと思うよ。でも、たまには気になっている人に試練を与えるかもしれないね」
「試練ってなに?」
「わざと難しいことをやらせて、それを乗り越えられるか試すことだよ。一千歌ちゃんがこうして病気と戦っているのも、神さまがくれた試練なのかもしれないよ」
「どうして神さまは試練をくれるの?」
すると、医師は少し困ったように手を顎にあてた。
やがて、言葉を選ぶように口を開いた。
「そうだね……それは神さまにしか分からないんじゃないかな」
一千歌は首を傾げる。「どうして分からないの?」
しつこく聞き続ける一千歌に苦笑すると、医師はベッドの横の椅子に腰を下ろした。
そして、同じ目線になるように少し身を屈めながら語り始めた。
「先生には神さまの考えはわからないんだ。でも、試練にはね、つらいことばかりじゃなくて、ちゃんと意味があると思う。たとえば、誰かを助けるために強くなれるとか。もっと成長できるとかね」
一千歌は真剣なまなざしで、目の前の医師の言葉に聞きいった。
「わたしも強くなれる?」
医師は力強くうなずいた。
「そうだよ。一千歌ちゃんは毎日頑張ってるよね。みんな知ってるよ。これは本当にすごいことだ。だから、試練を乗り越えたあとは、きっと素敵な未来が待ってるに違いない。先生はそう思ってるよ」
神さまは、やさしいけれど少しだけ厳しい。
試練を与えることもあるけれど、それはその人に強く生きてほしいから。
そして、イケメン。
周りの大人たちの答えを聞くうちに、一千歌の想像のなかで、神さまは少しずつ形を持ちはじめていた。
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