第13話 乃愛(三)

「お母さん」


 灯里の声が、厚ぼったいカーテンに閉ざされた部屋のなかに消える。

 自宅の一階の角部屋。

 母は車椅子に身を預けながら、どこに目を向けるでもなく、恍惚とした瞳で虚空を見つめ続けている。

 話しかけても返事が返ってくることは稀だ。たまに思い出したように喋りだすことがあるだけ。

 昔はこうではなかった。

 ある日を境に、母の心は遠い場所へ旅立ってしまったのだ。

 灯里はそれでもなるべく毎日、話しかける。

 返事がなくても、言葉が届かなくても、母とのつながりを信じて。


「お母さん。こんな時間だけど、ちょっと出かけてくるね」


 母は、すべてを見通しているような、あるいはなにもわかっていないような虚ろな表情で、ニコニコと頷いて灯里を見送った。


 リビングでは祖母がテレビを見ていた。

 芸人がなにか喋って、観客が笑い声をあげている。

 祖母はひとりでそれを観て、くすりともしない。

 部屋には熱帯魚の水槽のモーター音が響いていた。


「お婆ちゃん。外にいってくるよ」

「え? こんな時間に?」祖母が驚いた顔をこちらに向けた。

「うん。なんか凛が家出したんだって。ほら、今日うちに遊びに来た、ちっこいの」

「……ああ、あの子か」


 祖母は一瞬視線をさまよわせ、記憶をたぐりよせるような仕草をしたあと、顔をしかめた。


「お前が行くことないじゃないか。よそのことはよそに任せておけばいいのさ」

「心配だし」


 灯里が短くそういうと、祖母は少しうつむいて考え込む。

 外では、雨が降っていた。


「友だちだから。私にとって、他人事じゃないんだよ。凛を助けたい」


 そういって、灯里はまっすぐ祖母の目を見た。

 しばらく視線が交差する。

 祖母はソファに腰掛けながら、睨みつけるような視線を灯里に送る。

 しばらくそうしていると、先に視線が泳いだのは祖母のほうだった。

 彼女はひとつため息をついて、諦めに似た表情を見せた。


「ほんの少しだけだよ」祖母はもう一度テレビに目を戻した。「近所を探して見つからなかったら、すぐに戻ってきなさい」

「ありがとう。お婆ちゃん」


 テレビでは相変わらず、芸人がなにか騒がしく喋っていた。

 それが面白いのか面白くないのか、祖母は無表情のままテレビの画面を見つめていた。

 灯里は玄関へと向かうと、傘を手にして、靴を履いて夜の町に足を踏み出した。


 とりあえず葉月と合流したほうがいいのだろうか。

 でも、こっちはこっちで、手分けして探したほうが効率がいいかもしれない。


 黒く濡れたアスファルトの上を歩いて広げた傘にあたる雨音を聞きながら、とりあえずスマホを操作するために屋根のある場所を目指す。


 道路脇、薄暗い街灯の下に、奇妙な形のちいさな何かが蠢いていた。

 遠くの方には、夜の闇のなかに、竹のように細長い影が、静かに住宅街を闊歩かっぽしている。


 母が正気を保っていたころ、の話を聞いたことがある。

 尋常の目には見えない存在。母にはそれが見えたらしい。

 灯里の目に映るものは、おそらく母が話していた、魔物。

 いろんな人がいう、悪霊や妖怪に近い存在かもしれない。


 大小さまざまな形をしたそれらは、人や動物に似たものもいれば、不定形の影のようなものもいる。

 ごみ捨て場の隅や電柱の陰、薄暗い路地で蠢いているだけのものもいれば、まるで意志を持って動いているようなものもいる。

 それどころか、なかには人の言葉を喋るものまでいた。


 だが、ほとんどの場合、気がつかないふりをしていれば向こうから何かしてくることはない。

 視線が交われば、不思議そうにこちらを見つめ返してきたり、興味を示して寄ってくることもある。

 その場合でも、こちらが敵意を見せればたいていの場合逃げていく。

 まるで、警戒し怯える小動物のように。


 夜は灯里にとって、儚くも無害な、彼らの世界だった。

 灯里の瞳に、日中の喧騒が静まり返ったあとの、夜の闇が鮮明に輝く。

 近くの公園の木陰にいって、葉月に連絡しようかと考えていたその時――。

 顔をあげると、目の前に見覚えのある白い影がゆらりとその姿を現した。


 ……ミマヨイサマの、白狼。


 灯里は思わず、そちらを見た。

 馬ほどもありそうな白狼の巨体は、圧倒的な存在感でこの場を支配していた。

 赤い瞳は炎のようにゆらめいて、灯里を見下ろしながら心の底まで覗き込むような視線を送る。

 全身を覆う純白の毛並みは、夜闇に漂う霧のように、公園の街灯の下できらきらと淡い光を乱反射させている。

 灯里がスマホをしまってそのままそれの横を素通りしようとすると、ふいに呼び止められた。


「手を貸そうか」


 その言葉を聞いて、足を止める。

 だが、視線をそちらに送ることはない。右手で傘を持って、その場で立ち止まっただけだ。


「アカネの娘だな。それに、こちらと繋がったのは、最近になってからだ」


 低く響く声が、耳の奥にまで届く。

 白狼の視線が刺さったけれど、ふり向くことはしない。


「…………」


 灯里はそれを無視して、夜の公園を出ようとする。

 しかし、白狼はその背中に向かって、さらに続ける。


「失せ人の場所を教えてやるぞ」


 灯里は足を止め、けげんな目で白狼を見据える。

 目の前の存在に興味はない。

 しかし、ほかに凛のいる場所の手がかりがあるわけでもなかった。

 口にも表情にも出さないけれど、灯里の胸中でさまざまな思いが交錯する。


「なぜ見ないふりをする。怖いか?」


 灯里は無言で白狼の赤い瞳をじっと見つめた。

 白狼もまた、深淵からこちらを覗き込むような視線を返してきた。

 その眼差しは、ただ鋭いだけではない。

 炎の激しさと、揺れる灯火のようなやわらかさ。

 まるで、厳しさとやさしさが同居しているかのようだ。

 試すように、見定めるように……無言の問いかけが、灯里に向けられる。


「恐れるな。俺は、小娘の指先にさえ劣る存在なのだから」


 白狼はそう言い放つと、灯里に背を向け、夜の闇そのものを従えるかのように悠然と歩き出した。

 穏やかで力を感じさせる足取りは、まるでこの夜の支配者だ。


 学校の教室で『私の指の方が強い』って言ったこと、根に持ってるんだ……。


 口には出さず、心の中でつぶやく。

 眼の前のそれがなにを考えているのかわからい。

 しかし、敵意があるわけでもなさそうだ。

 灯里は黙って、失せ人の場所を知っていると言ったそれのあとを、ついていくことにした。

 

「視えているのに。妙な奴だ」


 灯里の少し前を歩く白狼の怪異が、軽く振り向きながらつぶやいた。


 †


 夜の町は雨に濡れ、街灯の明かりが湿った空気の中で浮かぶ。

 白狼の案内で公園から歩いていくと、やがて神社の近くにある小さな踏切が視界に入った。

 近くにはロープが張られた空き地が広がっていて、近くでは古い民家や、二階建てのアパートが、濡れながらぼんやりと蛍光灯の灯りを漏らしている。

 近くに張り巡らされた電線の上には、雨が降っているというのに、カラスが一列に並んでいた。まるで灯里にこの場所を知らせようとしているかのように。

 赤い警告灯が、雨を受けながら規則的に点滅する。

 電車の到来を知らせる踏切の音が、雨粒と混ざりあって辺りに響く。


 線路の前でじっと立ち尽くす、小さな背中が見えた。


「あれだ。急げ」白狼が牙をむき出し、低い声で告げた。

「わかってる!」


 灯里は傘を閉じると、そのまま雨の中へと飛び出した。

 濡れた髪が顔に張り付き、雨が頬を叩いても、灯里は無我夢中で前を見据え、地面を蹴り続けた。


 踏切の警告音が、規則的に耳を叩く。

 無機質で、無慈悲な音。

 永遠にも思える時間。 

 地面のくぼんだ部分の水たまりを踏み抜くたびに、泥水が靴の中に入り込んでいく。

 冷たい雨粒が灯里の目に入り、警告灯の光が目を焼いた。

 彼女の身につけている服や髪は雨に濡れ、彼女が何を考えているのか、何も考えていないのか、その後ろ姿からは想像できない。

 確かなのは、彼女が電車が迫る踏切を越えようとしていることだった。


 視界が揺れる。

 激しく脈打つ心臓と、呼吸の音。

 雨の中を走る自分の足音さえ、遠い。

 しかし、少しずつ大きくなっていく凛の背中を視界の真ん中に、はっきりと捉え続ける。


 線路の手前で大きく足を踏み込むと、灯里は手を伸ばして、凛の手首を掴んだ。

 雨で濡れた冷たい肌がぬるりと滑りそうになったけれど、それでも力を込めて、強く引っぱった。

 バランスを崩した凛の、驚くほど軽い身体を、力の限り抱き寄せる。


 彼女の身体が灯里の腕のなかに収まった直後、踏切の向こうから夜を裂くようにヘッドライトが近づき、地鳴りと轟音を響かせてふたりの前を通る。


 金属製の巨体が眼前を走る際、風が激しく打ち付け、思わず顔をそむけた。

 灯里は荒くなった呼吸を整えながら、凛の身体を抱き寄せるようにして、その顔を覗き込む。

 凛はこちらを見つめたまま、ぼんやりとしている。

 だがその肩や膝は、ガクガクと大きく震えていた。


 「烏羽先輩……」


 力いっぱい抱きしめた凛の体は細く小さく、そして冷たかった。

 電車が轟音の余韻を残して目の前を通り過ぎると、ふたたびその場に、雨音だけが支配する夜の静けさが戻った。


 ありがとう――。


 ふり返ってここに案内してくれた白狼にそう伝えようとしたが、目の前には雨に濡れた閑静な住宅街の夜が広がっているだけだった。

 白狼とは無関係の別の怪異、魔物が、小さく蠢いている。


「帰ろう」ふたたび凛のほうを見て、灯里が口にした。


 灯里の言葉に応えるように、虚ろだった凛の瞳に光が戻った。


「烏羽先輩。どうしてここに?」

「それはこっちの台詞。お姉ちゃん、心配してるよ。凛がいなくなったの、自分のせいだって自分を責めてる」


 凛の震えが、灯里の腕を通してつたわってきた。

 彼女の濡れた髪が顔に張りつき、雨粒が頬をたれている。

 泣いているのか。ただ雨で濡れているだけなのか。


「……家にいたら、乃愛の気配がして。最後に乃愛を見た公園に行って、しばらくぼんやりしてたんです。そしたら、近くで踏切の音が聞こえてきて。……ふと、頭によぎったんです。一歩踏み出せば、乃愛に会えるのかなって」


 うつむきながら話す凛の声は、雨のなかで頼りなく響く。


「葉月が悲しむよ。お父さんとお母さんも。……私も、凛がいなくなったら困る」

「……わかってます。ただ、ついふらふらっと、こっちに足が向いただけ。飛び込んだり、するわけないじゃないですか」

「大丈夫。そういうこともあるよ」


 灯里は小さくうなずきながら、凛の目をまっすぐに見つめた。

 彼女は軽く肩をすくめて、気まずそうに目を逸らした。


「乃愛はずっと一緒にいてくれた。それなのに、わたしが馬鹿だったから、不注意で死なせちゃった……」


 凛の声が詰まり、涙の滲む気配が灯里に伝わった。


「烏羽先輩のお母さん、わたしの足元に猫がいるっていってました。きっと、乃愛のことですよね」

「お母さんは、ちょっとアレな人だから」

「アレって……」

「凛。忘れないで。この世に、怪異なんて存在しないよ」


 灯里の言葉を聞いた凛が、ふふっと寂しげな笑みを漏らした。


「乃愛に会いたい……」


 道に迷った人が立ち上がるために、嘘が力を与えることだってある。

 祖母はそういっていた。

 嘘が力を与えることもあるのなら、真実が力を奪うことだってあるのだろう。


 目の前の友だちを助けるためには、どうしたらいい。

 家族をなくした喪失感を少しでも埋めるために、どんな言葉をかければいい。


 乃愛は、凛といられて幸せだった。

 猫の寿命は、短い。どのみち、時間の問題だった。

 凛のせいじゃない――。


 灯里の心に思い浮かぶのは、どれもこれもありきたりな言葉ばかり。


 お婆ちゃんだったら、嘘でも凛の心に寄り添えるような、そんな言葉を簡単に見つけられるのかもしれない。

 でも、私にはきっと、同じようにはできない。

 技術も、知識も、経験もない、どこにでもいるただの中学生だから……。


「乃愛が死んじゃって、凛が悲しいの、私もわかるよ」


 しばらく考えた末、灯里が凛の目を見て口にしたのは、そんな言葉だった。

 それを聞いて、凛は「あはは」と力なく笑う。


「お気遣いありがとうございます。……でも、先輩にはわからないと思います。家族を失った痛みは」


 凛の傷に触れようとするなら、自分の傷もさらけ出す必要が、きっとある。

 灯里は息をひとつ吸って、話しはじめた。


「お母さんと会ったよね」

「……はい?」凛はこちらを見て、けげんそうな顔をする。

「お母さんの脚、もともと悪かったわけじゃないんだ。それに、昔はよく喋る元気な人だったんだよ。きっと、どこにでもいる普通のお母さん……」


 灯里は凛の目をまっすぐに見て話しはじめた。


「まだ私が小さかった頃のことだよ。そのとき私は東京に住んでてね。お父さんが車を運転して、お母さんと私と、三人でちょっと遠くの遊園地に出かける予定だったんだ。前の日はドキドキしてよく眠れなかったの、今でもよく覚えてる」

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