第50話 小学校の先生の役割は勉強を教えるだけではなかった

 それから逢う度に二人の会話は弾んだ。

「小学校の先生という貴女の仕事も結構大変なんじゃないですか?中学や高校と違って小学校の先生は担任を持つと全教科を教えなきゃならないし、躾や挨拶や行儀なども教えなきゃいけない」

「そうですね。特に低学年のクラスを受け持ちますと、勉強以前のところから始めなければならないことが多くありますわね」

「知育、徳育、体育などというレベルには遠く及ばない話でしょうね、きっと。嘗ては生活習慣の基本は家庭で教えるのが普通でしたが、今は共働きやシングルマザーの家庭が増えて行儀や躾を家庭で指導するのがなかなか難しくなって来ていると思いますが・・・」

「そうですね。掃除の仕方や食事の仕方、或は、服の着替え方などを学校で指導しなければならない子供が増えているのは事実ですね」

「掃除の仕方や食事の仕方も教えるのですか?」

「はい。多くの家庭では掃除機を使って掃除をしますから箒など使ったことの無い児童が殆どですし、その持ち方から掃き方まで教えるんです。また、箸の持ち方が出来ない子や好き嫌いの多い子も居ますから、特に、箸はきちんと持てるようになるまで結構時間がかかりますから、根気強く指導しなければなりませんわ」

「服の着替えでは、服の前後が解らない子や服が畳めない子も居るらしいですね」

「ええ、それも学級の時間を使って教えています」

「宿題を家庭でさせることが出来ないので、学校で指導して下さい、って言う親も居るんでしょう?」

「はい、家庭にも色々事情が在りますし、家庭での生活体系も変化していますから、親御さんや保護者の方などと相談しながら、生徒の為により良いと思われる方法を探って、行っているというのが実情ですね」

 小学校の先生の役割は生徒に勉強を教えるだけではなかった。特に、六歳から十二歳くらいの間は人格形成に大きな影響を及ぼす時期である。子供達の個性を伸ばし人間性豊かに育つように指導するのも先生の大きな役目だった。宏一は、小学校の先生は社会的責任の大きな仕事だと理解した。

「授業や給食、ホームルームなどの時間以外にも多くの業務が在るんですよ。授業の準備やテストの採点、学級会や運動会の準備、家庭訪問、遠足、PTA、教員会議などさまざまな仕事をしなければなりませんの」

「それじゃ多忙を極めて息つく暇もありませんね」

「まあ、慣れればそれ程のことでもないのでしょうけれども、ね」

 小学校の先生の勤務は概ね朝八時過ぎから始まる。が、全教科を教える先生は授業の準備で忙しく、早い先生は七時過ぎに学校に入っていると言う。

 仕事は教職員の朝の打ち合わせから本格的に始まる。先ず、教職員全体でその日の行事などを連絡し合う。その後、学年ごとに細かな打ち合わせが行われる。授業のことや生徒のことなど内容は様々である。

 一〇分程度の打ち合わせが終わるとそれぞれの教室へ向かって授業が始まる。ただ、打ち合わせの間、生徒たちは教室で「朝の会」等をしているので、何か問題が起きれば直ぐに教室へ駆けつけなければならない。

 授業は一時限が四五分で、授業の合間には一〇分の休憩時間が在る。が、それは生徒の休み時間であって教師の休憩時間ではないので、先生は宿題の◎付をしたり生徒と遊んだりする。高学年は六時限まであり、低学年は四~五時限で終わる。

 給食の時間は生徒と一緒に準備をして教室で食べる。後片付けも一緒にする。その後、掃除の時間が在り、生徒と共に教室やトイレ、特別室などを掃除する。

 昼休みが終われば、午後の授業が、高学年なら三時半くらいまである。「帰りの会」をして四時前に生徒を下校させ授業は此処で終わる。

 その後に職員の休憩時間が四五分あるが、ノートの◎付や翌日の授業の準備が必要で実際には殆ど休憩出来ない。

又、部活の担当になった場合は、四時頃から活動が始まるので事務処理等は後回しになる。

 退勤の時間は五時過ぎであるが、その時間に退勤する先生は殆ど居ない。授業の準備や事務処理に時間がかかって、多くの先生は六時半か七時頃が退勤時刻となる。

「そりゃ、辛いことや苦労、大変なことや悩みは一杯在りますわ。でも、やりがいや喜びも結構あるんですよ。自分の教えたことが生徒に解って貰えた時や何か問題が起きてそれが解決出来た時など、何かの変化が在った時にやりがいを一番感じるんですね。例えば、算数の掛け算を教えていたとします。直ぐに理解出来る子には何も感じませんが、なかなか理解に時間のかかる子が或る時を境に計算が出来るようになっていたら、吃驚すると同時に嬉しい気持ちになって、教師をやっていて良かったなあ、って思うんです」

「苛めなどの問題が起きた時は大変でしょうね」

「そう言う問題は解決には大変時間がかかりますし、失敗すると取り返しがつかない状況になります。他の先生にも助けて貰って、漸く問題を解決出来た時にはほっと肩の荷が降ります。特に難しい問題ほど後でやりがいを強く感じます」

「先生の仕事は世間の人が想像する以上に大変なんですね」

「小学校の教師というのは、先程おっしゃられた様に、高校や中学校と違って、一人で一つの学級を任されます。クラスの子供に対してはひときわ強く愛着を持ちます。ですから、小さな問題であっても解決出来た時の喜びは口では簡単には表せません。クラスの子たちが一つに纏った時、運動会や学芸会、卒業式などでは特に感動するんです。真実に、教師をやっていて良かったなあ、ってしみじみ思います」

 それから、最後に美千代はこう言って話を締めくくった。

「教師は笑顔を消してはいけないんです。子供たちはそういうことを敏感に感じ取ります。教師の顔から笑顔が消えると、子供たちが寄って来なくなります。彼等の態度は普段と変わらなくても遠巻きにしているだけで自分からは寄って来ないんです。そうなると教師と子供たちの関係は悪くなって行くばかりです」

「なるほど、それは解るような気がします」

「それともう一つ・・・。毎日毎日、子供たちに教えたり指導したりしていると、私たちは自分の気付かぬうちに知らず知らずに、上から目線になっているんです。これが子供達だけでなく保護者の方や親御さんに対しても、或は、直接関わりの無い世間の皆さんに対しても、ついつい出てしまうんですね。十分に心しなければならないことだと肝に銘じてはいるのですが・・・」

モンスターペアレンツに類するような苦しいことや嫌やなことや辛いことも多々あるだろうに、何事にも前向きに対処しようとする美千代の姿に、宏一は凛とした気構えと真摯さを感じた。

「いやぁ、いろいろと話し難いことを率直によく話して戴きました。貴女の健気さに感動しましたし、謙虚さには頭が下がる思いです」

「ご免なさいね、自分の仕事のことばかり話しちゃって・・・真実にごめんなさい」

「否々、僕の方がお礼を言いたいくらいですよ」

それから、残っている冷えたコーヒーを啜り終えて、美千代が躊躇いがちに宏一に訊ねた。

「あのぉ、今日の夕食は何処かに予約を入れていらっしゃいます?」

「いえ、特には未だ・・・」

「そうですか。なら、宜しければ私の知っているお店に付き合って頂けませんか?」

「ええ、それは一向に構いませんが」

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