第39話 雄一と洋子の想い出
翌日の夜、二人は西陣の街を訪れた。
応仁の乱で西軍総大将の山名宗全らが堀川よりも西の土地に陣を構えたことから「西陣」の名が始まった。京都では大昔から織物作りが行われ、平安時代には現在の西陣の南側に織物職人が集まっていた。平安後期には「大舎人の綾」「大宮の絹」と呼ばれる織物が作られ、独自の重厚な織物は寺社の装飾に用いられた。応仁の乱の後、各地に離散していた織物職人が京都に戻って来て、西陣と呼ばれる地で織物づくりを再開したのである。
西陣の入り口で小高はタクシーを停め、洋子と連れ立って一緒に降りた。
西陣の屋根は一面に暗い色をして沈んでいた。が、屋根の所々が四角に光っていた。その光っているのは、西陣の家々の電燈の下の生活が空へ流れて行く窓口となっているのだった。昼はその屋根のガラスの窓から陽の光が零れて入り、夜は其処から西陣の夜の生活が空へ向けて黄色く輝くのである。それは“天窓”であった。
星がきらきらと輝いている今夜も、その四角な窓は二つ三つと消えて行って、西陣の屋根は一面に暗い色で深く沈んでいた。
路地が三方に分かれて続いていた。紅殻格子が隣り合って並ぶ間を、屋根と屋根とが隣り合って並ぶ間を、生活の風の吹いている路地が続いていた。吹き溜まりには石の地蔵が在って寺の門に続いていた。
小高が屋根の犇めく路地の奥を見やって言った。
「屋根と屋根との接近している間の路地は、西陣に生き続けて来た音を封じ込め、生活の風の吹いている路地は曲がって、歴史の奥へ通う風の道に続いているんだ」
洋子は思った。
西陣で生まれ育った彼の心の中には、歴史の流れる風が吹いているのではないか、それが彼の絵画の原点ではないか・・・
西陣を後にした二人は堀川の一条に架る橋の袂で足を止めた。
一条戻り橋・・・
「戻り橋」の名は、大昔、漢学者三好清行の葬列がこの橋を通った際に、父の死を聞いて急ぎ帰ってきた熊野で修行中の息子浄蔵が棺にすがって祈ると、清行が雷鳴とともに一時生き返って父子が抱き合った、という伝説に由来している。
嫁入り前の女性や縁談に関わる人々は、嫁が実家に戻って来てはいけないという意味から、この橋に近づかないという慣習があるし、逆に太平洋戦争中は、応召兵とその家族は兵が無事に戻ってくることを願ってこの橋に渡りに来ることがあったと言う。
「渡ってはいけないということと渡らねばならないと言うことの二つの意味を持つ橋と言う訳ね・・・」
小高は此処に伝わる父と子の悲しい会話を洋子に語って聞かせた。
「お前の母はこの戻り橋を渡って行ったのに、お前のところには帰って来なかった」
「この橋を渡って、何処かへ、なんで、行ってしもうたんや?」
「父にもそれは解らない。母もお前のところだけへは帰ろうと思って、この戻り橋を重たい心で渡って行ったんだろうよ」
「戻り橋やのに、なんで、戻って来いひんかったんや?」
「戻り橋を渡って行ったからと言って、戻って来ると決まっているものではない。人間はどうにもならない時、暗い風の吹く向こうに光っている何かを見たいから、そうするだけなんだよ」
「みんな悲しいのんやなあ」
「そうだとも。みんな悲しいものだから、戻り橋を暗く重たい心で渡って行くのだよ。見てごらんこの水の色を。真っ黒に空が映っているだけだよな」
話を聴き終わった洋子が小高の胸に顔を埋め、やがて、顔を上げた洋子の唇に小高の唇がそっと重ねられた。
「わたし、あなたを幸せにしてあげたいわ」
洋子が囁いた。切実な思いが籠められている声だった。
「小高雄一じゃないか?」
ガッチリした身体つきの田口繁雄が、コーデュロイの上着にジーンズとブーツと言う伊出達で小高の前に立っていた。
田口は長い髪をオールバックにして、肌は浅黒く、濡れたように光る眼は学生時代と変わらなかったし、その眼は相変わらず強い光を放っていた。
「驚いたな、君も来ていたのか、何年振りかな?」
「六年振りだよ」
「六年か、もうそんなに経つのか。で、君は今、何をやっているんだ?」
「スタジオを持って、デザインをやっているよ」
「未だ描いているのか?絵を・・・」
「偶にはね」
「君は巧かったからなぁ。俺が知っている限りでは君が一番巧かったよ」
「いやいや、君の方こそ」
「俺は下手だった。だからこうして、絵を右から左に仲介して悪金を儲けるしがない画商をやっているって訳だよ」
その時、他の知り合いに声を掛けられて、田口は握手する為に横に向きを変えた。
小高は心の中で答えていた。
そうさ、その通りだ。確かに俺は巧かった。だが、絵だけでは十分じゃなかったんだ、とりわけ徳田洋子にとっては・・・
小高は卒業式の日の、三月の寒い夜のことを思い出していた。着る物も本も何もかもを持って、洋子が彼の元から去って行った夜のことをはっきりと思い出していた。郵便受けの中に紙切れが入っていた。その夜、紙切れに書かれていた一行の言葉は小高の脳に深く刻み込まれて残り、その後、今日まで忘れたことは無かった。
「ご免なさい。あなたのこと、もう愛していないの、解かってね」
そんなこと、解る訳、無いじゃないか!・・・
小高は悲しみに気が狂いそうになり、外に走り出た。私鉄やバスを乗り継いで昔懐かしい西陣の街へ出かけると、馴染みの界隈の馴染みの暮らしに心底ホッとしながら、夜通し飲み明かした。その夜、彼は実家の両親の家に泊まって眠った。
翌日の午後、学生寮の自分の部屋に戻った小高は洋子を描いたドローイングを全て破り捨て、荷物を纏めて部屋を引き払った。
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