第16話 茉莉、児童養護施設でのピアノ教師を頼まれる

「頼みが有る」

そう言って謙一が茉莉を外へ誘い出した。

連れて行かれたのは繁華街の大通りにあるあの懐かしの「ジャズ喫茶ジェニー」だった。店の中も外も昔の儘だった。茉莉が高校生の頃に入り浸ってジャズに痺れていたあの頃と寸分違わなかった。半袖のワイシャツに蝶ネクタイを結んだ恰好良いマスターがお湯を沸かして熱いコーヒーを淹れてくれた。茉莉は思わず胸の中がジ~ンと熱くなって涙が零れそうになった。

 その時、入口の自動ドアが開いて一人の背の高い青年が入って来た。彼は謙一に軽く会釈をして此方の方へやって来た。青年は背が高かった。茉莉が始めて見るほどに高かった。背が高いだけでなく手と足が長かった。薄いブルーのシャツの下に細めの黒いズボンを履いた長い脚がすらりと伸びていた。

軽く片手を挙げて迎えた謙一が彼を茉莉に引き合わせた。

「俺の仕事仲間で二年後輩の高城龍司君だ。それから、此方は幼友達の大塚茉莉さん」

「高城龍司です、宜しく」

そう言って謙一の隣に腰掛けた龍司は精悍そのものだった。照りつける夏の陽光よりも尚、ぎらついた何かが彼から発散されているようだったし、鋭利な刃物を思わせる鋭い尖ったものが迫って来るようでもあった。彼の座って居るところだけが空気の色が違うようだった。茉莉は龍司のオーラに気圧された。

「頼みというのはこいつからの事なんだが、児童養護施設でピアノとギターを子供達に教えてやって欲しいんだよ」

 龍司が五歳から十八歳まで育った施設に、篤志家から小さなピアノとギターが寄贈されたが、それを教える先生が居ないので、ボランティアで子供達に教えて貰えないだろうか、というのが二人の依頼だった。

「施設には三十人余りの子供達が暮らしていますが、子供達は皆、両親とも不在で身寄りの無い子だったり、片親を亡くした子や親が病気になった子、或いは親が行方不明になっていたり親から虐待を受けた子等々で、心に何らかの傷を負っていて、特に、捨てられた、という思い込みが激しく、非行に走る子も間々居ます。心の傷が色々有って喜怒哀楽の激しい子や普段はおとなしくても突然暴れだして精神的に不安定になる子等も居ます。僕はかねがね、彼らが何かをやり遂げることが出来れば変われるのではないかと思って来たのですが、楽器が寄贈されたのを機会にそれを活かして、子供達に音楽の楽しさを教えてやりたいと思ったんです。お金が無い施設ですのでレッスン料等は極く僅かしかお支払出来ませんが、お引受け頂く訳には行きませんでしょうか?」

龍司はそう言って茉莉に深く頭を下げた。茉莉は率直な龍司の物言いに好感を持った。

「でも、耳の悪い私に楽器を教えるなんてことが上手く出来るかしら?」

「大丈夫だよ。お前の片耳は正常に聞こえるんだし、ピアノやギターの基礎を教えるだけだからさ。後は子供達が自分で自分流に愉しんでくれればそれで良いんじゃないか。楽器の英才教育をするんじゃなく、ピアノやギターのレッスンを通じて、子供達が自分と人を信じてこれからの人生を生きて行く、その入口の道筋をつけてやれればそれで良いんだよ、なあ、高城」

「はい、そうです。是非宜しくお願い致します」

一度施設にお邪魔して子供達に是非逢ってみたい、と言う茉莉の意向で、次の週末に三人で施設を訪ねることを約して、二人は龍司と別れた。

 外は暑かった。梅雨の後の七月の強い陽射しが容赦なく街路に照り付けていた。アーケードの下の陽の当たらぬ道を選んで二人はゆっくりと歩いた。

謙一が、突然、気持を切り替えるように言った。

「俺はな、茉莉。来年、二級彫刻師の試験を受けるよ。そして、その五年後には一級彫刻師のライセンスを取り、三十歳までには一等印刻師にもなって独り立ちする。それで初めて一人前の印章彫刻師だ。それがこれからの俺の計画だよ。その為にはより一層イマジネーションを磨き創造力を鍛えなければ、独自の特異性と独創性のある作品を作り上げることは出来ない。俺は先日、龍鳳先生に頼んで先生のこれまでの作品を全て見せて貰ったんだ。先生は取り立てて何も言わなかったが、作品の中には何か特異なものが匂っているように思えた。これから俺は他所の工房の即売会や展示会にも出向いて行って、見る眼を養うことを心がけるよ。何処にも無いもの、誰一人作らないものを創りたい、という強い思いが俺の胸には確として宿っているんだよ」

茉莉は明確に自分の未来を語る謙一が眩しかった。私には未来を語れるものは何も無い!

謙一が言った。

「見る眼とは、感じる心だ。作曲にしろ印章作りにしろ、作品には満足も妥協も許されない。鋭敏な心と創意工夫と技なんだよ、な。再生に向けてこれから頑張るお前に恥ずかしくない生き方を俺もしたいからな」

そう言って謙一は茉莉に微笑みかけた。

こういう言い方でしか茉莉を激励し得ない謙一の思い遣りに、軋んでいた茉莉の心が少し和んだ。

 

 週末の午後、茉莉と謙一と龍司の三人は児童養護施設の前で待ち合わせた。

施設は最寄りの私鉄駅から歩いて五、六分の所に在った。

施設は比較的先進的で恵まれた環境にあるようだった。

マンションタイプの寮が六棟有り、その中央に在るのが管理棟だった。

龍司の紹介で施設長や先生方に引き合わされた茉莉と謙一は、子供達の暮らし振りを聞いたり楽器を教える在り方について意見を交わしたりした。

 子供達は一棟に五人が入って先生三人と一緒に暮らしていた。年齢の高い中学生や高校生には個室が与えられ、寮には玄関、洗面所、風呂場、台所、リビングが有り、通常のマンションの間取りとさほど変わりは無かった。

子供達は施設で寝泊りし、学校へ行き、放課後には友達と遊んで夕方になると施設へ帰って食事をした。食事は棟毎に栄養士が決めた献立を先生達が手作りして共に食卓を囲み、入浴も洗濯も全て個別の部屋で行なわれていた。南向きにベランダがあって日当たりが良く、芝生の庭も広がっていたりした。

 日々の生活にはそれほど細かい規則や守らなければならない集団生活のルールは無いようだった。社会に出て必要な常識的なこと以外には必要以上に縛られることは無いということだった。

龍司が前以て施設長に話しておいてくれた所為で、レッスンを受けたいと希望する子供は、小学生から高校生まで合わせて全部で五人居た。ギターに三人、ピアノに二人だった。ピアノに男の子と女の子、ギターは三人共に男の子だった。茉莉は子供達と相談して全て個人レッスンで行うことにした。音楽を愉しむのに競争は意味が無いというのが皆の意見だった。毎週土曜日の午後にピアノのレッスン、日曜日の午前中にギターの練習と定め、時間は何れも一人一時間と決めた。

 帰途の電車の中で龍司がそっと茉莉に教えた。

「ピアノを習う中学二年の女の子は、物凄い部屋に暮らしているんですよ」

「凄い部屋って?」

「洋服や本や雑貨等が床が見えない程に散乱している凄まじい部屋で暮らしているんです」

「まあ、どうしてかしら?」

「散らかして置かないと心が落ち着かず、物に取り囲まれていることで安心感を得ているんですね」

「ふう~ん、なる程ね」

「部屋はあの子の心を表しているんです。散乱している物で鎧のように自分を包み、守って居るんです」

茉莉は耳が聞こえなくなった後の自分と照らし合わせて、身につまされる思いがした。

「彼女がピアノを習うことで心が解き放たれ、少しでも早く、きちんと片付けられるようになってくれることを僕は願っているんです」

「そうね、早くそうなるように私もお手伝いしますわ」

「もう一人、伏目がちで殆ど喋らない男の子が居ましたね。高校一年生なんですが、彼は自信というものがからっきし持てない子でね。あいつもギターを練習して上達すれば少しは変われるかも知れないと期待しているんです」

茉莉は、龍司の人を思い遣る心根の優しさと懐の深さに感じ入った。

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