第5話 「さあ、五時、開店ですね」
あれから子供の話は口にしていない。然し、この頃、どこか気になることが愛理の態度にはあった。
「四時になったので花屋さんへ行って来て良いかしら」
中暖簾をかきわけて愛理が顔を出した。
「ああ、良いよ、行って来な」
愛理は分厚いコートを着ていた。丈夫が取り柄だと日頃から言っているように、愛理は風邪を拗らせたことも無い。冬でも薄着で平気だった。それが今、眼の前で、冬靴下の上に登山靴下のような毛糸の半ソックスを重ねている。
思い過ごしだろうか・・・それとも、ひょっとして?・・・
愛理は店を始めてから明るくなった。以前は、人見知りする性格だと思っていたが、所帯を持って二人の店を開くと、いつの間にか、出逢った頃のあのぎこちなかった笑顔が愛嬌のある笑顔に変わっている。
「女将さんのその笑顔が見たくてね」
そんな風に言う客もいる。
運転免許も自分から取りたいと言い出して取得した。
長い間、一人淋しく、不安を抱えて、じっと修二の帰りを待ち続けたその反動だったかも知れないし、また、二人で始めた店の仕事に額に汗して懸命に取り組み、修二と歩く人生に生き甲斐や希望を見出しているのかも知れなかった。
「さあ準備完了よ」
愛理が南瓜の大皿をカウンターに置いて声を上げた。
先程買って来た花を見やりながら、急きも慌てもせずに言う。
「綺麗でしょう。水仙って良いわよねぇ」
その花の向こうに愛理はうっすらと額に汗を滲ませて立っている。
「『ふじ半』の『半』はお前たち二人が共に半人前だと言うことだぞ」
「美濃利」の親方の言葉を思い出した修二は、確かに二人でやっと一人前かな、と思った。
「今日の日高課長さんの人数は十二人で良かったのかしら」
日高課長と言うのは「ふじ半」が店を出した当初からのお客さんで、今日は、仕事が一段落したのを機に部下たちを労う席を設けての予約だった。
「うん、十二人と言っていたのは間違いないよ」
「十四、五人にしておいた方が良いかも知れないわね、どんな飛び入りが入っているかも分からないものね」
「それもそうだな」
電話が鳴った。
「はい、『ふじ半』でございます。あっ、大島様、いつもご贔屓に有難う存じます。はい、お三方ですか?大丈夫でございますよ。六時に、はい、お待ち申し上げております。有難うございます」
愛理が明るい声で受話器を置いた。
そろそろ暖簾を上げようか・・・
「おい」
修二が愛理の顔を見て言った。
「汗を拭いて来い」
風邪を引くぞ、子供が欲しいんだろう、いや、既に腹の中に居るんだろう、と続けようとした言葉を修二は呑み込んだ。
修二は外へ出て表戸の鴨居に架けた味暖簾を見詰めた。
「ふじ半」の「半」の字だけが垂れて「ふ」と「じ」は竹に架かったままである。色は浅葱に白地で抜いた零れ松葉のこの暖簾・・・麻地に紺で染め抜かれた文字・・・
「良いか、兎に角、三年間頑張れ。三の次は五だ、七とか十とか先のことは考える必要は無い」
親方はそうとしか言わなかった。
「五時、開店ですね」
愛理がにこやかな笑顔で言った。
暖簾が微かに揺れている。「半」の文字が色鮮やかであった。
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